案内

 ガイドブックなしにペシャワールに着き、彼はまず宿を探した。何の先入観も持っていないペシャワールの街は日本のどの街にもみられないであろう、現実でない空想されたシルクロード上の街の一例を昔からの営みのまま残しているようで、埃っぽい道にサルワール・カミーズを着る落ち葉に似た様相の人人が、どう使われるのか見当のつかない香辛料や、金属の食器が、罵声としか聞こえない知人に呼びかける声等と調和して、古い建物の街並みは見事な歴史の遺構どころではなく、銀杏のように飄飄と現世に存在していて、何食わぬ顔で現在進行形の種の形をありのままに刻んでいた。旅慣れた彼も小さい町なら宿のありそうな地域を勘で探しあてるが、アルファベットのないアラビア文字のウルドゥ語の看板からは、店が何の業種か見分けるのは難しく、百円ショップで商品を探すよりはるかに容易でない街の陳列棚から安い宿を探しあてるのは不可能に思えた。襟のついた暗い柄のシャツにジーンズをはいた彼は制服のある学校に転入してきた私服姿の転入生の感じる気後れを覚えて、テレビでしか観たことのなかった画一的なサルワール・カミーズの人人から遠慮のない遠慮された視線を一点に集めて、忙しなく動く往来の日常の中の隕石として誰かに尋ねるためらいの中で数分間固まってしまった。方策と手立てはいくらでもあることを彼は知っていたので、旅行者らしい自己憐憫を持ち出して途方にくれる場面を意識することなく演じて酔っていた。大丈夫な人に大丈夫と尋ねて、大丈夫じゃないと答える心境だった。誰かしらに尋ねて教えてもらうのは正解へたどりつくのにもっともたしかな手段だが、短くない移動行程を経てきたばかりの彼は、多くない人人が通り過ぎるくらいなら教えてくれそうな人をすぐに的に絞るも、活発な心臓から絶えることなく流れる勢いのよい血液のような人人の交差は、立ち話している人も走っているように見えるほど、親しみと厚かましさのもった渋谷駅前ほどに流れ込んでいて、そこから一つの細胞を捕まえるのがたやすくないように、間違いなく英語は通じないだろうと勝手に決め込んでいた彼には、とても話しかける気は起きなかった。(セッカク着イタバカリダ。体力モアルシ、街ヲ散歩シナガラ探ソウ)自分に本当のような嘘をつく妥協の言葉でわずかな意志さえ支えにせず、適当に歩きだして、三分も経つと背負った荷物がいつも通り真の重さで肩に食い込みだし、筋を通り越して骨で支えることになり、力を入れて運動しているわけでもないのに、体中から汗が吹き出てくるのは、リュックサック一つで山登りするのと同じ負荷がかかるからで、すでに彼は分別を失くした悪路を好んで進むことになった。インドも人は多かったが、英語の看板は多く、仮にヒンディー語の看板だろうと、たいていの人は英語が通じ、また謝る言葉を持たない彼らには遠慮なく、思い切りぶつかることができた。しかしここは初めて目にしてまだ慣れないアラビア文字に、初めて接するイスラムの人人はペシャワールの街に対する無の先入観と違い、ニュースにより脅威と恐怖が徹底して叩き込まれていて、歩くだけでは見つからないかもしれないと気づいていながら、とても尋ねる気になれなかった。インドは森だとガイドブックが言っていた。たしかに多種多様な生物が豊かに共生するあの国は日本なんかと比べものにならない。パキスタンも森だと彼は思った。このペシャワールという街は、一つ一つの商店が何をしているのか皆目見当がつかない。むしろ難しい書物を読んで字面は追えるが、内容がまるで入ってこないのと同じように、視界に入る色色なサルワール・カミーズの入り乱れるシルクロードは彼にとって非常に難解な街だった。


 生動する化石の商店の居並ぶ中に、殺風景な小奇麗さによって彼の目にとまった建物の一階にはアルファベットでホテルと書かれており、馴染みある光景に大きく息をつき、いつも泊まるような宿ではないが、外観と価格はまれに大きな差異をおこし、こんな清潔な宿がこんなに手頃な値段で泊まれるのかと驚いたことがあり、その反対もあるので、かすかな期待と大きなあきらめをともなって、次のヒントをもらうのがなによりも収穫となるだろうと、彼は入口に近づいた。ガラスの扉を開けると、サルワール・カミーズではなく、こざっぱりとしたスーツの男がレセプションにいた。(コレデハ安ク泊マレナイダロウナ)ペシャワールの街に浮いた格好の彼は、環境が変われど、同じように下手に目立つ所へ来たと感じながら、まずは泊まることができるか尋ねた。英語は通じて、とても彼の旅行の日常範囲内で払われる価格ではなかった。ぶっきらぼうであっても金さえ払えば何一つ文句を言わず、不満そうな表情を崩さずに部屋へ案内する宿の主人と違い、控えめな愛嬌で応対してくれる綺麗に髪をなでつけた雇われているであろう男は、金を払えば(コンナ身ナリデ、何デ金ヲ持ッテイルンダ)不満が大きければ大きい程ねばっこい笑顔を浮かべて、丁重に扱ってくれて、あとあと同僚に会えば気分で盛り立てた断定的な愚痴を漏らすだろう。とても泊まることはできないので、他に宿はないかと尋ねた。知っているようで知らないと返事した。意志が皆目感じられなかった。


 仕方なく砂色とスパイスの色が流動するまったく別の世界へ戻らなければと外に出るとすぐに、痩せた、厳めしい顔した中年の男が曇りなく自分を見つめていて、首を動かして、ついて来いと指示をだして、足早で歩きはじめる。一体何があるのだろうかと、うしろを追いかけて歩きだしてから彼が考えはじめたのは、まずは興味から、次に期待から、それから不安が移り表れたからで、短くない旅行の経験による勘で判断できた。親切な人間は笑顔と気の利いた言葉でほどこすのではなく、胸糞悪くなるほどの無愛想と、決然とした行動で打ちつけてくる。もちろん陽気な親切な者もいるが、その人物を量り間違えて失敗する可能性があり、朴訥な者の方が間違える可能性はとても低いのだ。いつか夢見たことはあっただろうか。甘い旅情からの誘いとして、顔の見えない、後ろ髪の長い女性に手を引かれて、まるで見知らぬ異国の青空のビーチや、太陽の砕け散った欠片のジャングルや、石造りの中世ヨーロッパや、赤い砂漠の切れ味鋭い丘陵の線や、屹立する岩山にかかる蜂鳥の雲や、面長の仏像と飛び散った原色と白い歯や、そんな典型的な旅行の印象風景を巡回することを、今がそれなのかもしれない、こんなところへ、なんの準備もせずに来るんじゃない、そんなことではいずれ取り返しのつかない程の痛い目にあうぞ、おまえの見えないいたるところに罠や仕掛けは張り巡らされていて、芯を持って動かなければすぐに取り込まれるのだ、手助けするのはこれで最後だからな、この馬鹿者が、などと表している生気ある能面の痩せた中年男性に時おりうしろを振り向かれつつも、歩速は緩めず、一体どこへ案内するのかもわからないガイドこそ、飾られていない旅情の一風景なのだろう。


 男は建物の中に入る前に彼を振り返り、表情を変えずに首を少しだけ横に傾けて合図するその姿は、さあついたぞ、やっ、ここが目あての場所だろ、やっ、ここなら安心して泊まれるぞ、ほら、殺してやるから、などにも見受けられる澄み切った仕草であり、熟練の案内であるかのごとく習慣に磨きあげられた妙味で迷った旅行者への差配は米を研ぐような単純な作業に扱われているようだ。ここまで来て引き返すなど微塵も思わず、殺されるのであれ、生かされるのであれ、旅行者特有の物好きな好奇心はどうにでも料理してくれという、食べるより、食べられる食材に、使われる方へと重きを置かれ、熱した油で香りを引き出されている香辛料の一粒に加わりたく、進んで鉄板のうえに身を投げるのと変わらない心構えで男のあとについて建物に入った。外にはウルドゥ語の看板がかかり、入ればすぐにレセプションがあって、望み通りの宿泊料の自分のような旅行者にうってつけの宿であることが見てとれたのは、数人の喋っていて、一見すると誰が宿の関係者か判別できないだけでなく、ひょっとしたら全員が関係者であるような安閑とした光景を呈示していて、取り繕われていない彼らの日常の延長上のやりとりこそ、信頼に値する一要素としてあるのだ。


 案内をした男はそこにいた男達全員と握手をかわし、一人の男に話しかけて、間違いなく彼のことについて伝えているらしく、顔の筋肉は変わらず固まっているようだが、眼の開き方に幾分友好的な力の入れようが見てとれていて、彼にちらちら目をやる宿の男はそれほど表情を動かしていないにもかかわらず、千差万別なわざとらしさに見せるほどの対比を作りだしていた男はまた首を動かした。案内を始めた時と逆の位置へ傾けることで、カギ括弧を閉じたのだろうか、予期したいくつもの光景の中から、はずれくじを引く確率の高さと平凡さの当たりくじを出してくれたようだ。男は変わらぬ早足で外へ出ていき、固まっていた宿の人人から一人がめくり取られて彼に片言の英語を話し、二階へと案内すると、彼の中でとたん胡散臭さが蘇ってきて、やっぱりはずれくじを彼に置いて出て行き、動きを見せなかった表情の栓抜きと陸にあげられた蛸のようにくねくねとほくそ笑んでいる気がした。案内された部屋は三畳ほどの広さに、小さく粗末なベッドの他には簡素な木の椅子と机があるだけで、価格は手頃な宿泊料であった。宿の男はあとで記帳をするから、少し休んだらパスポートを持って降りてきてくれと、南アジアの社交的な愛想良さはこれが代表的な一例だと思わせる可愛らしさを全面に打ち出した笑みを浮かべて彼に言い、扉を閉めていく。ごつごつしたサンドバックにしか思えないリュックサックを下に置き、ベッドに横たわり、ほっと息を吐いて表情を緩ませる瞬間は、三日ぶりの排便や水浴びのような緊張の緩みからくる恍惚感に満たされ、柔らかいものはいつだって気持ち良さをこちらに与えてくれるものだと、街から街への移動によるストレスに終止符を打つ宿泊場所の確保が行われたことによる安堵は教えてくれる。そんな弛緩した状態に強烈な一撃を加えるのは、鍵をかけ忘れた排便中にノックせずに入ってくる瞬間や、やはり大口を開いてシャワーを浴びている時にカーテンをさっと開けられる一瞬や、自慰行為中にかかってくる電話のように心臓に打撃を与えるもので、思いきり背を伸ばして声にならない喉からののっぺらぼうな魂のうつけを音に発している時に、怒りが心頭したあとの溶岩に固まった表情の男が手にピタパンとマトンのビリヤニの載っかった盆を持って掴みかからんばかりに闖入する衝撃くらいのものだ。尻尾を踏まれて飛び起きる犬のごとくベッドの上で姿勢を直してすぐに立ち上がろうとすると、お釈迦様の手もこうであったのではないかと思わせる手の平を下に向けて安定を意味する落ち着き払った腕の動きによって安息を伝達し、相変わらず顔は固いまま、案内してくれた男は食事を机の上に置き、口元に食べ物を運ぶジェスチャーを見せて首を傾けるので、札を出して瞬間的な解決として金を払おうとすると、今度は両手を広げて、まあまあと柔らかく空気を押し込めてから、胸に二度手をあてると、首を傾げて外へ出て行ってしまう。表情は一度も変わらず、こういう人は旅行中に限らず人生にもたびたび現れる。柔らかい心地良さはないが、余計なものの取り払われた善意に凝り固まった生物の本能に由来する親切の化身は、固い分だけこちらにしっかりと、確かな仕事を働かせるのだ。

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