清掃員

 ポリッシャーをまずは壁際に沿って走らせ、それから廊下中央を一点の空きも残すことなく横線を繰り返し刷いて進めると、泡の描線はワックスのコーティングされたフローリングに汚れの混じった白い背景を残していく。機械を操るという大きな肉体運動を必要としない行為に集中する男の後から、畑仕事と同じように一定の運動で激しく体を動かす男が腰を屈めてついてきて、廊下に耕された泡沫の畑を丁字のかっぱぎで小気味よくならす。ビリヤードキューを巧みに操る目つきで狙いの場所を定めてから腕を伸ばし、大急ぎで網を取り込む敏捷さで床面に浮く洗剤を掃き、ゴムに付着した水を床に叩いて落とす。この三拍子はワーグナーの「ワルキューレの騎行」のような軽快な調子があり、音程とリズムの変わらない清掃機械の単調な音をベースにして、かっぱぎの後ろから操り人形のようについてくる取り切れていない汚水を掃いて拭き取る物静かなモップがけの男が加わり、まるで失墜した纏をいじけて弄んでいるようなどこか薄気味悪い清掃を象徴する動きが重なると、薄暗い病棟の一階奥の細長い廊下に不気味なちんどん屋が現出する。


 ハンバーグランチを四百八十円で食べることのできるファミリーレストランで、浅葱色した四人の作業着の男達が忙しく食べ物を掻っ込んでいる。安定した速さで進行する病棟の特別清掃ではそれぞれの歩調で各々の清掃道具を操るが、それでも一個の細胞内にポリッシャーを核としてミトコンドリアやゴルジ体が働くように、一つの枠組みの中で互いを意識したペースでチームは動いていく。昼食時は解放された各細胞小器官が食事というエネルギーを取り込む活動に専念する為に、テーブルに肘をつき、背を丸め、咀嚼音を激しく立てて、獣なら上品と、人間ならがさつと言われる格好で米や焼いた挽き肉の固まりを体内にぶちこんでいく。食欲が先走った余裕のない男たちにとって味を楽しむなどというのは、時間の無駄というより、女子供がやたらに泣き出すのと同列であって、仮に細かい食感や風味の変化を味わえるとしても、これうめえなぁ、という言葉ですべてを言い表してしまう。いつも座るテーブル席近くに大きくない画面のモニターがあり、そこからエリック・サティの「ジムノペディ第一番」がほぼ決まったルーティンで流れていて、人物の輪郭のぼやけた淡い映像は音の消失と共にフェードアウトしていく。その広告は約三十秒から一分間か、意識して計らねば数えられないその時間の中で、ある男はいつも夢を意識させられていた。将来何かになりたい、ああいう道へ進みたいと一時思ったことはあっても、衝動的だからこそ単純な当時の欲望に突き動かされ、想いが数年間残ることはあらず、夢はおろか確固とした目的さえ持ち難かった男にとってその映像から届いてくる曲調は、微かな後悔と共にこれこそが夢という朧気な概念を把握する手がかりと感じられた。はじめは意識することのなかったその動画の輪郭は自分から求めて得たのではなく、単なるコマーシャルの効果として確実なメッセージとして影響されていることに気づいていなかった。その作られた夢は性欲の衝動から引き出されたように、乳白色な気分に浸っていたい気にさせられた。


 レースのカーテンから陽の射る昼下がりの病室は一つの具象なのだろう。夢は職業ではなく、寝入っている時に見るものということを誰かに話せば、当然だろうと皆が答えるに違いない。毎晩見ている夢を、なぜ夢だとわかっていなかったのか……。汗と垢、屁、病んだ人間の肺を通過した息、それらを浄化する加湿機能のついた空気清浄機と生気を欠いたエアコンの乾いた暖気の混合される病室は、夢以外では嗅ぐことのできない混濁した空気で満たされ、時間の概念のない中の一瞬に何もかも変化する夢の端くれのようだ。大きく開けた口を押さえ込むように酸素マスクをつけられたあらゆる体毛の薄い老人は、目をつむり、ミイラのような夢の残滓として、絞りきって潤いのないこんな肉体からしつこく夢を見ているのだろうか。洗浄液で水浸しになった床にかっぱぎを叩き、制服姿の女性看護師をベッドに膝立ちする姿を見て、捉えようのない夢というのは、夢に接する男の頭の中の乱れが、ただただ音と映像と原生的な体液の匂いとを取り混ぜたものであり、何になりたいかを一つに留めることができずにこうして病棟の床という床を綺麗にする役割を与えられた細胞小器官として日々を過ごすのは、間違いのない夢として認めることができるのだろう。そう考えることなく一小節のメロディーや映像を間違った音程と配色で繰り返しながら、全く異なった旋律のちんどん屋の一員として勢いよくかっぱぎを引き、履いている汚れきった白いスニーカーに泡の水を飛び散らせた。

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