雪片

 四条通を東山へ向かって自転車を走らせていると、男の目の前を灰のようなものが斜めに切っていった。速度を緩めて周囲に目を凝らすと、白くて軽いものがちらほらと降ってくる。どこかで火をおこしているのかと、ふらふら揺れ動くものの降りるところへ手を差し伸べると、冬の蜉蝣の雪片であることに気づいた。桜の葉が見頃をむかえて散りだしているこの頃に、日向にいればシャツ一枚で過ごせるこの陽気に、空の青さと陽射しの強さにそぐわないこの雪のきれはしがなぜ。少しの変化でさえ現実を見失わせるが、幻と疑いだした途端に地面を這う小さな蟻を見るように確かな現は迫ってくる。四条大橋を渡る時に見えた北の山々は冠雪していた。白い色を少し塗るだけで地上から少し盛りあがっただけの地表はなんて威容を備えるのだろう。あの山を積もらせた上空の氷の雲ではなく、あの卑猥なほどに純白な頂上付近が風に削られて、こうして京都市内に降りかかり、火事がどこかであったのではないかという胸を騒がせる下等ないたずら心を起こさせたのだろう。


 長イ移動、二日カ三日カ、肌ヲ照リツケル昼下ガリ、背丈以上ノ霜カ残雪カ、荒涼トシタ五色ノたるちょノ重ナリアッタ峠ヲ下リ、樹高ノ低イクネリキッタ針葉樹ノ点点トスル村ニ着キ、色ノ剥ゲタ乳白色ノぶりきノまぐかっぷニ満タサレタ沸点ニ近イばたぁ茶デ、分厚イ毛ノ手袋ニ包マレタ両手ヲ温マセテイルト、濁リモ見エナイ青ノ濃イ高地ノ空カラ、見紛ウコトノナイ粉雪ガ突然降リ出シテキテ、乾キキッタ周囲ニ潤イヲ与エルノカト思イキヤ、コレハ水分ヲ含マナイラシク、地表ニ辿リ着イタクセニ一切ノ優シサモ見セズ、溶解モセズ、平然トソノママノ形デ辺リヲ白ク埋メ尽クシテイクト、スグニ空カラ流レテクルノヲ止メ、ソレハ冷タサノ刺サル情ノ無サニ見ル移リ気ノ早サカ、冷メヤスイ心ニアル変ワリ身ノ早サカ、彼ラニ慣レタ村人ハ何ノ気モナク竹箒デモッテ村ヲ貫通スル道ノ中央カラ掃キ始メルト、過酷ナ対流圏上層ニ近イトコロニ存在スルダケアッテ、細カナ割ニ芯ハ強ク、定温動物ヤ自発的ナ熱ヲ持タナイ物ニ触レラレナイ限リ形ヲ変エルコトハナイ……、イヤ、変ワッテイルカモシレナイガ、ソノ速度ハヒドク遅ク、肉眼デハトテモ捉エキレズ、傲岸憮然ト悠然ニ箒ノ動キニ合ワセテ地上ヲ舞ッテイル。


 それは時計では計れない時間だったのだろう、雪片はもうどこにも見えず、いつ止んだのかもわからない。散りきるにはあまりにも早すぎはしないだろうか。どうしてこの季節は草木も含めて、せっかちに年が過ぎるのへ向かって走らせようと焚きつけるのだろうか。おそらく、雪の舞ったことを気づけた人は男以外にはいなかっただろう。いや、それは違う、円山公園に来るまでに彼らは気づいていたに違いない。ロシアの冷たい楽曲の流れる動きを体現したような掃除員達だけは疑うことができない。白い被りをして身丈に合わない大きな竹箒を黙然と振り、何も考えることなく散った色々な桜の葉を掃く為に活動している彼らには、地面に降ってきたものは何だって掃けてしまうのだ。


 水気ノナイ寒サニ支配サレタ世界ダカラカ、ココニ夏ガ来ルコトハアルノダロウカ、アマリニモ世界カラカケ離レタ風景ガ連続シテイテ、島国ニ育ッタ人間ノ角膜ニ張リ付イテクル乾キハ、崩壊サエ許シテクレナイ。シカシ彼ラハコレシカ知ラナイ。水平線ヨリ遠イ世界ガ自分トイウ人間ヲ圧迫シテクルココハ、幾年モ吹キスサンデキタ砂埃ガ積リキッテ作リアゲラレタ山脈デアッテ、侵食トハ反対ノ自然ノ作用ニヨッテ生マレタノニ、コノ世界ハ草木カラ見放サレ、意味モナク存在シテシマウ土地デシカナイノニ、一体何ヲ自分ハコノ世界ニ作リアゲヨウトシテイルノカ。島国ノ常識デハ取ルニ足リナイ小サナ人間ノ経験ニヨッテ対峙シヨウトシテイルノダ。五体投地デ地ヲ滑ル彼ラハコノ土地ノ乾キカラ生マレテキタノデ、自分ヲジット見ツメテモ何モ表情ヲ変エナイカラ、マルデ砂粒ニナッタヨウナノニ、遠クカラヤッテ来テスレ違ウ一人ノ見スボラシイ少年ハ、高地ノ陽ニ焼ケテ垢ト乾燥デ仕上ゲラレタ漆喰ノ顔デコチラヲ睨ミ、廻リ方ガ違ウト、言葉ハワカラナイガハッキリトシタ非難ノ意味ヲ伝エテキタ。粉雪ダ、乾イタ世界ニ存在スル湿リヲ持タナイ水ノ結晶ダ。冷タク、鋭ク、フイニ訪レル。ソレハコチラニ潤イヲ与エル存在ナノダ。


 竹箒が掃いているのはもう落ち葉ではなく砂埃だけだ。今日という日に落ちた色とりどりの葉はビニール袋に詰め込まれてまわりには見当たらない。それでも浅黒い肌の男達は竹箒を動かし続けている。男には見えない雪片を掃き続けているのではないだろうか。遠く風に乗って落ちてきたものを、乾きに耐え、疑うことなく、目を逸らすこともなく、古くからのしきたりに従って這いずり回るように、いつまでも箒を動かし続けるのだろうか。

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