二〇〇(トゥー・ハンドレッド)

大弥次郎

全1話


 リリィがその街に着いたのは午後のまだ浅い時間だった。

 玄関前のポーチにいたジョーに声をかけた。

「ねぇ、歌いたいの。どこかいいとこない?」

 白のボディ、オレンジ色の皮シートのオープンカーの後席には黒いギターケースが見える。

「それなら、青星亭(ブルー・スター)だな」

「オーナーは?」

「街外れに住んでる。案内しようか?」

「お願いするわ。乗って。」

助手席に座って、横顔を見る。

「いい女だ…」

 その瞬間、ジョーの体はシートに押し付けられていた。

 

 オーナーの家に着いたとき、ジョーの顔面は蒼白で、額には脂汗、目には涙さえ浮かんでいた。

 這いずるように玄関に上がったジョーをみるなりオーナーは

「どうした?幽霊でも見たか?」

「…あんたにお客だ…」

 やっとの思いでジョーは声を絞り出した。背後でリリィが微笑んでいる。

「上玉だ。稼げるぞ」

 オーナーは思った。

 町に戻ったほらふき(ビッグ・トーク)ジョーは、こう触れ回った。

「間違いない、200マイルはでていた。」

 リリィに、あだ名がついた。

 「200マイルのリリィ(リリィ・ザ・トゥーハンドレッド)」

 その晩の青星亭(ブルー・スター)は大盛況だった。

 街中の野郎どもが

 「200マイルのリリィ(リリィ・ザ・トゥーハンドレッド)」を一目見ようと集まった。…一人を除いて。

 リリィの声はややかすれていたが、十分セクシーだった。

 そして歌が最高潮に達したとき、野郎どもの間に紳士協定が生まれた。

 続く一週間でオーナーは三カ月分以上の稼ぎを手にしていた。


 ベンはあまりパッとしないセールスマンだった。

しかし、車を操る腕は巧みで、スピードこそ出さないもののどんな隙間でも1インチの余裕があれば通り抜けた。

 「1インチもあるのに、こするなんて信じられない。」がベンの口癖だ。

 

 きっかけは駐めたリリィの車の前に大型のトレーラーが斜めに駐車したことだった。運転手の姿は見えない。クラクションの音にも誰も応えない。ステージの時間は迫っていた。

 無理すれば出られそうだったが、不安が先に立った。

ベンが声をかけた。

「ハンドルを右に半分回して、2インチ前に出る。そしてそのまま真直ぐバック。」

「2インチって、何なのよ?そんなことできっこないでしょ?」リリィは思ったが口に出さなかった。

半べそで操作を続けるうち、何とかクリアした。

「普通なら替わってくれるわよ、変なやつ…」


 二回目にリリィがベンを見たのは峠道だった。いつものように飛ばしているリリィの前にやけにゆっくり走っている車があった。

「邪魔ね」リリィは思ってパッシングをした。前の車のミラーにはあの憎たらしい顔があった。ベンだった。

 ベンは左手を挙げた。

 普通なら車を右に寄せて抜かせてくれる筈だ。そう思った時ベンの車は目前から消えた。加速したのだ。

「あたしと張り合うつもり?面白いじゃない」

 しかしベンの車はどんどん遠ざかっていく。「え、マジで?」

リリィは混乱した。初めての経験だった。カーブを数回通り過ぎると、完全にベンの車は視界から消えた。

打ちひしがれた心地でリリィが走っていくとベンの車が見えた。道端に停車してタバコを吸っている。かなり短くなっているところをずいぶん前に着いたのだろう。


「あなた、何者?」リリィは聞いた。

ベンは

「バカな運転してると死ぬぞ。」とだけ言った。

リリィの訝しげな表情に、

「昔、そんな奴がいた」

「車ってやつは、車自体の性能と、クソ度胸さえあればそこそこ速く走れるもんさ。それを自分の技術と運だと勘違いしちまう。でも本当の技術はあらゆる速度域で完璧に車を操れるってことなんだよ。技術がないと運だっていつかは離れる。余計なことかもしれんが。」

リリィは何も言い返せなかった。その言葉の裏にある悲痛な音色がリリィの胸に谺していた。


 遠ざかっていくベンの車のエンジン音をリリィは音楽のように聴き惚れていた。「何だろう?少しも無理していないようだけれど・・・」

エンジン音は滑らかに一定のリズムで高低を繰り返し、タイヤのきしみ音すら聞こえない。

車の走行にかかるすべての物理法則に逆らうどころかむしろ味方につけているようだった。

 リリィには一つだけ気づいたことがあった。

ベンの車は絶対にセンターラインを越えるどころか踏んですらいない。まさに完璧なライン取りだった。

「本当に何者なの?」

 しかしベンはその問いについに答えることはなかった。


 ベンの正体は分からずじまいだった。

なんでも5年ほど前にこの街に流れてきて住みついたということだった。

しかもベンのドライブテクニックを寸止め以外にを知っているものは誰一人いなかった。

話しても誰も信用しないどころか笑い飛ばす始末だった。

「夢でも見たんじゃないの?」


リリィとベンの仲は、程なく街中のうわさになった。

野郎どもは落胆し、女房連中は安堵した。

「リリィが惚れたんならしょうがない…それに奴はあの時にはいなかったんだし。」

なんとなくそういう空気になっていった。

おかげでベンはたいした嫌がらせを受けずにすんだ。

 リリィは歌うのをやめ、ベンはセールスマンを辞めて街外れに小さな修理工場(ガレージ)を持った。

 街中の興味は違う方向に向いた。

「だって、200マイルのリリィ(リリィ・ザ・トゥーハンドレッド)と寸止めのベン(ベン・フォー・ワンインチ)だぜ。二人でドライブしたら、どうなるんだか。」


10年経った。二人は相変わらずうまくやっているらしい。

リリィの運転はおとなしくなったが、ベンは相変わらずだ。

「200マイルより結婚生活のほうがスリリングだからね」

やや、ふっくらとした顔でリリィは笑った。

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二〇〇(トゥー・ハンドレッド) 大弥次郎 @ooya-jirou

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