〇5月23日(水)

 あれ? 僕は今、用を足し終えて、流して立ち上がってパンツズボンを穿こうとしているところだよね? 何でこのタイミングで、ぽちゃんという水音がなるのだろう、と自問自答している瞬間瞬間にも、豊かな尻肉の圧力を受けて尻ポケットからこんにちはそしてさようならした彼の大事な携帯は、ダイブをかました便器内に再度湛えられていく水に侵食されていっているのであった。


 音の主を探ろうと、悠長に振り向いた途端、自分の見慣れた携帯が、見慣れない場所で、見慣れない質感のものに包まれて、向きだけは何故かかっちりと自分と相対しているのを見て取る。


 トイレの、奥底に、僕の携帯が、滑り落ちた、との認識が遅れ遅れで大脳に駆け上がってくるまで数秒を要した彼は、一瞬の躊躇の後、水中でその姿だけは優雅に揺らめいて見える黄色い非防水ボディを掴み上げるのであった。


 やばいやばいやびあ、と慌てて手拭きタオルで巻いて水滴を全て吸収させようとするも、開いた画面には何も映っておらず、待受しているというよりは、完全に沈黙しているように見える。いや沈黙というよりは何か縁起でもないことが起こりかけているようにも映るのであった。


 触ってわかるほどに冷たくなっているその物言わぬ携帯を、タオルで包み両手で抱きかかえながら洗面所に急ぐ。ドライヤーで乾かせば何とかなるのではないか、とバッテリーパックを取り出してぶおーぶおーと熱風を当て続けること五分。今度は素手で触りづらくなるほどに熱を帯びたボディに何とかバッテリーを元通り収めると、固唾を飲んで電源ボタンを長押しする。一瞬後、久我の祈りが通じたのか、電気も通じたようで、うすぼんやりとした光が、暗かった画面に灯った。


 ついた、と一気に安堵感が体中を巡り巡ってくる。懸命の蘇生活動のかいあって立ち上がった画面は、見慣れたいつもの愛する人のはにかんだ笑顔のアップであり、その上にはデジタル時計を利便性のため表示させているものの、時間によってはその両目の上に数字が被って面白い事になったりするが、とにかく通常通りということが久我をほっとさせるのであった。洗面所の床にへたり込んだまま、大きく息をつく。


 メールの着信通知も表示されていたので確認すると、これまたいつものオンラインゲーム仲間からの戯言であり、早速この顛末を報告してやろうと妙なテンションで返信画面に文字を打ち込もうとする。しかし意気込んで「いやー、実はいま携帯水に落としちゃって」みたいな文面を書いたつもりが、


 「やー、しはけすにしや」


 との暗号が表示されていくのを見て、また不穏感がじわりと湧き上がってくるのであった。


 えーと「た」を抜けば正解が浮かび上がるのかなと、なぞなぞクイズえほんの初級問題を解くようなメンタルにまで追い込まれている久我だが、そのくらい動転していると見ることも出来る。そもそも抜くべき「た」が見当たらない。


 真顔になっていろいろ操作するうちに、左の列のボタンが全て押しても反応していないことに気付くのであった。


 「履歴」「メール起動」「通話」「あ」「た」「ま」「*」。計七つのボタンが使えないことによる弊害は計り知れないということに、遅まきながら実感させられていく久我。


 幸い真ん中の「決定」ボタンは生きていて、その周囲の十字に配置されたカーソルを動かすものも作動している。メニューに入りメールや通話を行うことは取り敢えずは可能。しかし、まともなメール文面を作成することは到底不可能。それがこの数十分で久我の出した結論なのであった。


 追い打ちをかけるようにこの後、オートロックが掛かってしまって、その解除番号も押せないボタンだった、というスパイラルな不運が久我を見舞うことは、彼を知る者にとっては納得に近い心証を抱かせるものの、当の本人にとっては、結婚式間近のこの時期に連絡手段が制限されるということは、とめどない不便を強要される一大窮地であるわけで。


 くしくもその結婚式まであと一か月、という日の出来事なのであった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る