第50話激痛に耐えて
穂積は大量の洗濯物が入ったかごを腕に抱えながら扉を開けた。そして照明のスイッチを入れ、洗濯物を慣れた手つきで次々と乾燥機の中に入れていく。すべての洗濯物を乾燥機の中に入れ、照明のスイッチを入れようとした瞬間だった。
カタン。
「?」
後ろのほうから僅かだが音が聞こえた。穂積はスイッチを押す手を止め、振り返る。
しかし、誰もいないし脱衣所に何の変化もない。
音は確かに後ろから聞こえてきた。もしかして音がしたのは脱衣所ではなく、すぐ隣の浴室のほうからかもしれない。穂積は音の正体を確かめるため、警戒しながら浴室と脱衣所を隔てている浴室ドアを開いた。
浴室には何の変化もなかった。フックに掛けていたシャワーが落ちているわけではなく、コーナーラックからボトルが倒れているわけでもなく、浴槽の上に置かれた蓋がずれているわけでもなく、風で小石などが窓から入った形跡もまったくなかった。
穂積は首をかしげる。さきほど耳に入ったカタンとした音は聞き慣れたものだった。ドアを開ける前は、ラックに並べ置かれているボトルのどれかが倒れていると穂積は思い込んでいた。
しかし、何度確認してもボトルは一つも倒れていない。穂積は今一度きょろきょろと周りを見回し、浴槽の前まで足を進める。
「穂積くん、穂積くん」
その声に穂積は振り返った。脱衣所のドアから穂積の様子を窺うようにひょいと霞が顔を出している。
穂積はハッとする。霞は今さっき、トイレに入っていた。さきほどの音は脱衣所の隣のトイレのほうから出た、器具機能の物音だったかもしれない。きっとそれを脱衣所から出た音だと勘違いしたんだろう。
「どうしたの?なにしてんの?」
穂積は何でもないと意思表示するかのように首を振る。
「まぁ、いいや。僕、出すもん出しちゃったら一気に目が覚めちゃってさ。だから汚しちゃった地下の部屋、手伝えるよ」
霞は目を何度も瞬きをしながら、にっと笑顔を見せた。穂積は同意するかのようにこくんと頷いた。そして浴室を出ると乾燥機のスイッチを押し、かごを乾燥機の脇に置く。
「昨日はさぁ、ほんっとうに久しぶりだったからすっごい楽しかったんだよね。おかげで深夜3時くらいまでかかっちゃってさ。そのせいで今の今までずっと熟睡してたんだけど――」
霞は昨日の出来事を上機嫌に語り始める。穂積はそんな霞の話に相槌を打ちながら霞と共に脱衣所を出た。脱衣所から離れ、且つ穂積が相槌しか打つことができないと解っているにも関わらず、そんなことまったく構わないかのように一向に霞の話は止まる様子がない。
よっぽど昨日の夜の遊びに興奮したのだろう。
しかし、それはある意味好都合だった。意識をこっちに向けてくれないほうが浴室で多少音が響いても気づかれる可能性は低い。
そう、雫は水の中で考える。
「今、二人は玄関に置かれた荷物取りに行っています。どうやら、食材を冷蔵庫に閉まってから地下に向かうそうです」
玖月はこそっと蓋が置かれた浴室の中に話しかけた。
瞬間、ガタガタと蓋が動いた。蓋を押しのけようと、二つの手が浴槽から現れる。
「ぷはぁ、はぁ………はぁ………苦しっ」
呼吸を整えつため、何度も息を吸ったり吐いたりを繰り返す。そして音を立てないように立ち上がり、浴槽から飛び出た。
「うう、やっぱり沸かしていない風呂の水って冷たい」
寒さで体と声が震え、何度も濡れた体を掌でさすった。
「雫さん、急いで。あと3分で移動してください」
「わかってるよ」
蓋を元に戻し、未だに震える体を無理やり移動させる。しかし、早く動きたいのに寒さと久方ぶりの生身の体のせいで上手く動けない。
「ああ、寒いしなんか変な感じだし………ていうか、ほんっと藍って手足短いな」
まじまじと動かしている生身の体を見回す。見回しているのは雫で、見回されている体は藍。
雫は今、藍の体に入っている状態だった。
「早く、時間がありません」
「待って待って、急かさないでよ。さっきまで冷水に浸かってたんだから」
一見、身体を震わせながら玖月と応対しているのは藍だがその実、中身は雫。
窓の外に制服を脱ぎ捨て、下着だけを身に着けまま浴槽に潜っていたのだった。
久方ぶりの生身の体に感傷に浸る暇もなく、雫は慣れない体を引きずり窓のほうまで移動させる。
壁に寄り掛かり、何度も掌を握ったり開いたりを繰り返す。藍の体に入った矢先はスムーズに動かすことができなかったが、時間が経つにつれ体を動かすことに慣れていった。
まだ寒さの震えは残っているが、この家から脱出するのに対しての障害にはならない。
「今、二人は何してるの?」
雫は廊下の様子を窺っている玖月に声を潜ませながら尋ねる。
「穂積さんは今、食材を冷蔵庫に入れています。その穂積さんに霞さんは話しかけながらリビングの入り口で待っているみたいです」
2階への通り道には霞がいる。それは脱衣所の扉からの脱出は不可能ということを意味していた。
「そっか………やっぱり、ここからか」
雫は下方にある、唯一の脱出口の窓までしゃがみ込み、くぐろうと体を近づける。しかし案の定、小柄な藍の体格でも肩が引っかかり、通り抜けることができない。
「しかたがない」
雫は壁から少し離れ、右肩をぐっと掴み、一気に息を吐いた瞬間だった。
「ごめん、藍」
右肩を思いっきり壁に打ち付けた。ぐぎっと関節が外れた、雫にしか聞こえない音が耳に届く。
「っつ!」
右肩に激痛が走る。咄嗟に声が出そうになり必死に歯を食いしばる。
生前、関節を外し、嵌める行為は訓練や任務でよくやっていたことだった。日常茶飯事にその行為を繰り返していたため関節を外すことに対して抵抗がなく、痛みにも強い体になった。
しかし、今の体は「雫」の体ではなく「藍」の体。つまり、関節を外すことにまったく慣れていない体だ。関節を外したことのない体が故意に関節を外すと痛みで貧血を起こすこともあり、下手に外すと筋肉や靱帯が損傷する恐れがあると言われている。
痛みに一切訓練していない藍の体は、激痛という閃光が走った。
(やっぱり、自分の体じゃないからだな。関節外し慣れていない体はきつい)
この体を突き抜ける閃光のような痛みは久方ぶりでもある。6歳の頃、初めて訓練と称して何度も無理やり外されて以来のものだ。もし、今の意識が雫ではなく藍だったら声を出さずにはいられなかっただろう。激痛は日常的に訓練を受けていなければ、耐えられるものではない。
しかし雫は藍とは違い、感覚をコントロールすることに長けている。
雫は激痛に意を返さないように無理矢理に意識を右肩から左肩に逸らし続ける。油断すればすぐ痛みで微動だにできなくなるため、雫は息を抜くための時間を置こうとはしなかった。右肩が外れると、すぐさま同様に左肩も外そうと思い切り壁に打ち付けた。再度、ぐぎっとした音が耳に届く。
「っつ!!」
雫は歯を食いしばる。脂汗が滴り、床に落ちる。
常人なら痛みで気を失ってもおかしくないだろう。
しかし、雫は常人ではない。殺し屋ならではの激痛に意識を持って行かせないための訓練も受けている。雫はその感覚を思い出す。体は藍でも精神は雫。人間の肉体は精神に支配されている。雫は激痛もその支配下に置こうと意識を集中させる。
「雫さん、あと3分です」
「………はいはい」
雫は激痛には意を返さないように行動を開始させる。まず窓に向き直り、膝立ちになる。そのままゆっくりと倒れ、うつぶせの形になった。さきほど窓から通り抜けようとした時と同じ体勢になった。
雫は膝を動かし、頭から窓の外へぐいぐいと押し出す。両肩を外したおかげで今度は肩がつっかえることなく、難なく窓から通り抜けることができた。
やっと脱出への第一歩が叶った。
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