第49話次善の策

ドアが開かれ、雨音とともに足を踏み入れる乱雑な音が玄関から近い脱衣所からも聞こえてくる。玄関脇にドサッとした荷物が置かれる音が二つ聞こえた後、足音は急ぎ足で廊下に入り、脱衣所前を素通りしていく。穂積はリビングを通って、ベランダに干している洗濯物を取り込もうと急いでいる様子。


「あっ、バケ」


ハッとした藍は声を少し漏らした。庭には3つのバケツが倒されている。もし、そのバケツを穂積が見つけでもしたら確実に不審に思うだろう。


「大丈夫だよ、藍。あのバケツはベランダと反対方向にあるからすぐには気づかれないはず」


雫は藍の不安を取り除くように、落ち着いた口調で声をかけた。


「そ、そっか」


雫の言葉に藍はほっと胸をなでおろす。


「でもそんなの、いつ気づかれるかわからないしね」


雫は小さく呟くと扉を通り抜け、穂積の様子を窺う。穂積はベランダで洗濯物を取り込むのに夢中で一切廊下側を気にしていない。


「藍、今だよ今。早く立って、扉開けて」


雫は首だけにょきっとドアからすり抜けさせながら、捲し立てる。


「え、今って」


「穂積さん、今大きなシーツを取り込むのにちょっともたついてるから、早く」


「あ………う、うん」


藍は雫の言葉に頷き、ドアノブに手をかけようとする。


「だめです。今出るのは」


玖月は言葉で藍を制した。穂積の様子を窺っていた雫に対し、玖月はずっと階段方向に目をやっていた。


「え、どうし………っもしかして」


雫は急いで玖月と同じ方向に目を向ける。


「うわ、最悪のタイミング」


雫は辟易としながら頭に手をやった。


「ふあぁ、眠い」


二人が目をやった先にはあくびをしながら2階からダンダンダンとゆっくり且つはっきりとした足音を鳴らす霞の姿があった。


「ど、どうしよう」


容赦のない霞の足音に藍は声を震わせながら雫を見る。


「落ち着いて。たぶんトイレのために起きてきたんだと思う。こっちには来ないはずだよ」


雫は震える雫の傍によるため、一歩後ろに下がった。


遠慮のない足音が近づいてくる。

それは脱衣所に侵入者がいるとは露ほども思っていない足音だった。

藍は息を殺し続けた。ドアから離れ、隅で縮こまり両手で口を塞ぎ、霞が脱衣所を通り過ぎるのを待つ。足音が近づくたびに心臓の鼓動が早くなるのを藍は感じた。この心臓のドクンドクンとした音も届いているのではないかと心配になるほどはっきりとうるさく耳に響いている。


寝起きの霞は意識をぼんやりとさせながらも、目線はしっかりとさせていた。霞の目線の先にあるのは脱衣所ではなく、脱衣所の先にあるトイレだった。


霞は脱衣所を通り過ぎようと足を進ませていたが、なぜか脱衣所の前でピタリと足を止めた。


(ひっ)


霞が脱衣所のドアの前で止まったことを藍は感じ取り、びくりと肩を震わした。小さな悲鳴を口の中に含み、漏らさないように手で懸命に抑える。


「あれ?穂積くん、帰ってたんだ」


霞は脱衣所ではなくベランダのほうに意識を向けていた。


(私じゃなかったんだ)


藍は心の底から安堵した。


「おかえり、穂積くん」


霞はベランダにいる穂積に気づかせるため、声を張って呼びかけた。シーツを洗濯かごに取り込んでいた穂積は霞の声に反応し、顔を上げる。

霞は穂積に笑顔で手を振った。


「ごめんね、穂積くん。昨日は久方ぶりのせいか、じっくりと時間をかけちゃったからさ。ちょっと片付け手こずるかも」


霞は声を張り上げなくてもいい距離まで穂積に近づき、申し訳なさそうに苦笑する。そんな霞に穂積は相槌するように頷く。


「僕もあとで手伝うから」


許して、と軽く片手を立てるとリビングを出て、廊下に出た。


「藍、霞がトイレのドアを閉めたのと同時にここを出て。私が合図するから」


しゃがみ込んでいる藍に雫はドアに目を向けながら話しかける。


(同時?)


藍は視線だけで疑問を投げかける。

同時ではなく、霞が扉の中に入ってしばらくしてから出たほうがいいのではないか。

雫は藍の視線の意味をすぐに察し、答えた。


「ドアの開け閉めって思いのほか響く。それに霞ってけっこう耳が良いほうなんだ。だから、同時のほうがいいの」


雫は藍にゆっくり立つように手招きする。扉の開け閉めを同時なんて簡単そうに思えて、難易度が高い。音が少しでもずれたら脱衣所に人がいると気づかれるし、扉を開けるタイミングが少しでも早くなったら、姿を見られてしまう可能性が大いにある。

幸いなのはこの家のトイレのドアは外開きでしかもドアノブは右側にあることだった。開けたとき左側の脱衣所は完全に死角になる。


練習なしの1回勝負。自信はないがやるしかない。

藍は静かに歩き、ドアノブに手をかけ雫の合図を待つ。


しかし、藍が待っていた言葉は合図ではなかった。


「やばいやばい」


廊下に出ていた雫が焦りながら急いで脱衣所に入った。


(な、何?)


「穂積さんがこっちに来る。洗濯かごを持って」


(え?嘘だろ!?)


藍は体を強張らせた。ドアノブにかけていた手が小刻みに震え、止まらない。青ざめる時間も許さないように脱衣所に向かってくる穂積の足音が容赦なくやってくる。

その足音から逃れようと藍は後ずさる。


藍は逃げ道を探そうと首を動かす。この脱衣所は浴室と隣接している。窓が一つもない脱衣所ではどうすることもできないため、浴室に目を向けるしかなかった。


浴室には窓が一つあった。しかし、その窓は横幅が40センチ、縦幅が30センチ程度の小さい窓だった。小柄な藍でも肩が引っかかって通れないだろう。唯一の窓が逃げ道になれないという事実は藍を絶望に打ちのめさせるのに十分だった。


(どうしようどうしようどうしよう)


地下のあの光景が藍の脳裏によぎる。

血まみれの作業台、バラバラに切断された女の身体、床に転げ落ちていた首。


この扉を開けられたら私は――。


「玖月くん、あれやろうあれ」


気持ちが深いところまで沈もうとしていた時、雫の力のある声が藍を現実に引き戻した。その声にずっと下を向いていた藍は促されるように顔を上に向ける。


「玖月くん、あれやるしかないよ」


雫は真剣味を帯びた表情で玖月の腕を引っ張る。


「あれって」


「あれだよ。送り人の能力の」


玖月は言葉の意味を察し、目を少し見開く。


「ほら、はやく」


玖月は一瞬だけ考え込んだが、それはほんの一瞬のことでしかなかった。


「仕方がないですね。ですが、大丈夫なんですか?本当に任せていいんですね」


「任せて」


「な、何?」


藍は訳が分からず、二人を交互に見る。


雫は一呼吸を置くと、藍に向き合った。


「藍、立って。背を向けて」


「え?」


「早く、穂積さんが来る」


「う、うん」


急かす雫に促されるように藍はすっと立ち上がり、雫に背を向ける。


「一体何を………」


藍は不安と緊張が混じった声で雫をちらりと見た。後ろを振り向くとなぜか隣にいた玖月が雫の背中に回っていた。


「藍、ちょっとの間借りるよっ」


雫がそう言葉を発すると玖月は雫の背中をぐっと押した。しかし、ただ押したのではなかった。玖月は藍の体に重なるように押していた。霊体である雫の身体はまるで藍の体に引き寄せられるように重なっていく。


「………っ!」


声を上げる間もなかった。

雫の身体がすっぽりと藍の体に重なると藍の意識はぷつっとそこで切れた。

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