第38話ベランダ登り
藍は体を屈みながら忍び足で雫の部屋のベランダ窓が真上にある一階の小窓付近まで移動する。
「この上が雫の部屋か?」
「うん、そうだよ」
「でもこれ………登れないと思うぞ」
藍は首を上方に向けたまま、言葉を濁す。雫の2階窓外にはベランダが設置され、外壁が出っ張った形になっている。そのため、見上げてもベランダの底部しか見えず、どう考えても登れそうにない。それに藍の小柄な体型ではベランダ箇所のどの部分でさえ、飛んでも届かないだろう。
雫はベランダ全体を把握するため、後退した。
「藍、懸垂ってできる?」
「懸垂?たぶんできると思う。でも、私の身長じゃ届かないぞ」
藍も雫と同じように後退する。
「裏手に空のゴミ箱が3つあるからそれを重ねて足場にすればいいよ。懸垂ができるならたぶん、イケるはず」
「でも、ゴミ箱があっても手すりにはまだ届かないと思うぞ」
「手をかけるのは手すりじゃなくてフェンスの縁部分だよ」
ベランダのフェンスは透明感のあるパネル型。
下部には手は入るほどの隙間があり、十分に指がかけられる幅があることを確認する。
「それでも部屋の中に入るのは厳しいと思います。たとえ、指をかけてもフェンスの手すりまで手はきっと届きません」
玖月はフェンスに目をやりながら言った。
玖月の言う通り、たとえ下部に指をかけ、懸垂ができたとしても次に手を置くべき手すり部分が離れているため、手をかけることができない。
「それ、傘を利用すればイケると思うよ」
「傘?」
藍は見上げたままでいる雫のほうに顔を動かす。
「傘の取っ手部分を手すりに引っ掛けて自分の身体を持ち上げれば、きっと届く。たしか使ってないビニール傘がゴミ箱と同じ裏手にあったはずだから」
「理屈はわかりましたが、それだと腕力がかなり必要ですよ」
玖月も藍と同じように顔を雫に向ける。雫のやり方で登るとするならまず、片腕で己の身体を持ち上げて、持っていた傘を手すりに引っ掛け、再度片腕で傘を掴みながら体を持ち上げなくてはいけない。
非力だと己の身体を持ち上げることすらできないだろう。
「イケる?藍」
ずっとフェンスに目を向けていた雫はちらりと横目で藍を見る。
藍はベランダを見ながら頭の中でシュミレーションする。ベランダに上手く指をかけるタイミングやぶら下がった時の力の分散の仕方を何度も計算する。
確実に1回で成功するために。
シュミレーションを終え、藍は雫に目線を合わせこくりと頷く。
「自主トレでよく腕立て伏せをやってるから。腕力には自信はあるつもりだ」
困難には違いないが登れる方法は確かにある。後は気合と根性だと藍は拳に力を込める。
「ゴミ箱と傘が裏手にあるんだよな」
「うん、案内するよ」
藍はできるだけ足音を立てないように雫に連れられ、裏手に回った。
◇◇◇
ゴミ箱は水色の丸型のもので大・中・小とあった。大のものは高さが50センチ、中が40センチ、小が30センチのもの。
これを重ねて足場にすれば、小柄な藍でもジャンプすればベランダの下部に手が届くだろう。その3つのゴミ箱の蓋をすべて外し、裏返しにして下から大・中・小という順で積み重ねてベランダ下に置いた。
藍は左手に傘を持ちぐっと首を上に向ける。
「藍、スポーツバックはベランダに投げておいたほうがいいよ」
「スポーツバックを投げる?庭の隅に隠しておいたほうがいいんじゃないか?」
藍は肩にかけていたスポーツバックを両手で抱える。
「いざがあるかもしれないよ」
「またいざ?………でも、投げたらバレるんじゃないか?」
「たぶん、大丈夫だと思う。今この家にいるのは3人だけど、3人のうち2人は寝てて一人は勉強に没頭しているから。ポンと乗せるように投げれば気づかれないよ」
「本当か?」
「大丈夫………………たぶん」
「たぶん?」
「安心して。万が一のことがあったときの逃亡計画はちゃんと考えてあるから」
今まさにこの時、藍が家の中に侵入しようしているのに雫は緊張感のない気の抜けた笑みを崩さない。その雫の笑みに思わず、力が抜けてしまいそうになる。
「雫ってほんと、マイペースだな。でも雫の言う通り、思いがけないいざがあるかもしれないな」
藍はスポーツバックを抱えた腕に力を入れ、ベランダの端目掛けて投げ入れた。慎重に投げたおかげかスポーツバックは音がさほど響かなかった。藍は投げ入れた後、物音に気付いて誰か雫の部屋を覗きに来るか様子を見る。
「よし」
しばらく経っても誰も来ないと見定め、藍は行動を開始しようと両手に力を込める。
「応援しかできなけど頑張ってねぇ」
「………登ってる間はその力が抜けるような応援はやめてほしい。たぶん、集中が切れるから」
「了解」
藍は左手で傘を持ちながらゴミ箱が倒れないように小のゴミ場まで登り、右手をまっすぐ伸ばしフェンスの底に指先がかするのを確かめる。
飛べば指にかかる。ガタガタと今にも崩れそうなゴミ箱を後目に藍は膝を曲げてポンと跳び、右手の指をかける。小のゴミ箱が崩れ落ちたのを意に返すことなく、傘を左手で持ったまま一気に力いっぱい腕を伸ばし、取っ手部分を手すりに掛けた。藍は腕に力を込めるために息を止め、そして思いっきり引き上げる。
「うぐ………ぐ………」
己の身体を片手で持ち上げるのは思った以上にきつく、藍はくぐもった声を漏らす。しかも体を引き上げるとき傘を握りながらであるため、腕だけではなく掌にも負担がかかり、少し力を抜いてしまったら簡単に離してしまいそうだった。しかし、引き上げる力をずっと込めているため徐々にだが、体が上げってきている。藍は左腕をゆっくりと曲げながら、右手に手すりがかかるように伸ばし続ける。
そしてやっとの思いで右手が手すりにかかることができた。
藍はその瞬間を見計らい傘を地面に落とし、素早く左手も腕を伸ばしながら手すりにかけた。両手で身体を支えると止めていた息を吐き出す。そして残りわずかな腕力が軽減しないうちに懸垂の要領でぐいっと腕を曲げ、体を引き上げた。
「よいしょ」
胸元まで引き上げたら次に肘、膝、足をフェンスの上に掛け、ガタンと体全部をベランダ内に入れた。
「ふぅ、腕しびれる」
「おつかれさん」
藍はフェンスに背中を預け、座りながら両手を振る。
藍ははっとし、背筋を伸ばす。
「音を出しちゃったけど、大丈夫かな」
「大丈夫です。誰も廊下に出てませんでしたから」
玖月が雫の部屋の壁から通り抜けながら言った。それを聞き、藍はほっと息をつく。
手のしびれがだいぶ和らぐと立ち上がり、ベランダ下を見下ろす。
2階なだけあって高さある。登っている途中、手を滑らせて落ちでもしたら体のどこかを痛めていたかもしれない。
「よく登れたな、私」
ふわりとした生暖かい風が頬を撫でた。庭でベランダ辺りを窺っていた時よりも四方に風が乱れているのを肌で感じ取る。周囲を一瞥すると、隣近所の屋根瓦や道路先の白線が目に付く。
登ってきた跡を辿って、覗いでみる。さきほどまで登るのに利用していた傘は真下に落ち、重なってあったゴミ箱の小が崩れ、離れた場所まで転がっているのが見える。
「………あつ」
体全体を使って、登ってきたため大量の汗が噴き出てくる。しかも、空気も湿っているため喉がより乾く。藍はスポーツバックからボトルに入ったスポーツドリンクを取り出し、ゴクンと喉を潤した。
一呼吸置いた後、顔や首筋に滴った汗をタオルで拭う。すでに部活で使用したためわずかに湿っていたタオルだが肌から滲み出した汗を吸収してくれるのを感じた。
そのタオルをスポーツバックの一番上に置き、フェンスから離れる。
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