第22話緑の末路

「いいよ。霞」


「ほんと?待たせすぎだよ」


零時が優しく声をかけると霞が声を大にして、目を輝かせた。

霞はずっとうずうずしていた。穂積がフォークで緑の目を刺した瞬間から。


「僕、いいなぁいいなぁって思ってたんだ。それにずるいなぁって」


霞は緑のもとに足取り軽く近づく。靴下に血がしみ込んでもまったく気にする素振りを見せない。緑は悶えながらも霞の言っている意味が分からず、困惑するように眉を動かす。


「穂積くん、いきなり刺しちゃうんだもん」


横目で穂積を見据えながら頬を膨らませる。


「でも、そろそろ僕にもやらせてよね」


「ひっ!!!」


緑はその意味をすぐに理解し、悲鳴を上げる。青ざめ、カタカタと歯を鳴らす。緑はハウスヘルパーとして雇われるため穂積から五月雨家の性格や性癖を事前に報告させていた。もちろん、霞も含めて。

だからこそ、緑は恐ろしかった。短い間だが、緑は霞の殺し屋の一面を目にしている。

無邪気な笑顔の下に狂気じみた一面があることを。


「最近、ぜんぜん僕にやらせてくれないんだもん。我慢できない僕が悪いのはわかってくけどさ」


「でも、今回は仕事とは関係ないからね」


「うん、僕の好きにしていいんだよね」


霞はやっかいな性癖を持つヘマトフィリア。その性癖のせいで情報を引き出すための尋問がまともにできずにいた。そのため、最近は霞には尋問を誰一人任せようとはしなかった。でも、今回は殺しの仕事とは関係ない内輪のこと。だから、霞を止める人間はここにはいない。


「あ、そうだ。あれ、使っていいかな?」


「あれって?」


「名前がわからないもの」


霞は小走りで台所に向かう。血がびっしょりと沁み込んだ靴下で駆けたため、くっきりとフローリングに足跡がつく。しかし、霞は意に返す暇もないようでごそごそと何かを探す手をやめない。


「あった。これこれ」


霞が手にしたものは『ハンディブレンダー』だった。そこについたカッターで食材を砕き、細かく混ぜ合わせる料理器具。コードレス式で霞がスイッチを入れるとステンレスのカッターが勢いよく回転する。


「これ、名前なんていうの?」


スイッチを入れたり切ったりしながら零時を横目で見る。


「ハンディブレンダーだよ」


「ハンディブレンダー………。これ、使っていい?」


ハンディブレンダーを握り締めながら零時に向かい合わせになる。


「それは料理で使うものだよ」


「だめ?」


零時は肩を竦めながら苦笑する。


「………新しいのを買うしかないね」


「やった」


「次のお小遣いからその分引くからね」


「うん!」


霞は嬉しそうに飛び跳ねる。


「じゃあ緑さん、地下に行こっか」


霞は再びハンドブレンダーのスイッチを入れたり切ったりしながら緑に近づく。


「いやっ、いやああああ!!」


『地下』という単語に緑は震え上がる。脂汗が全身の毛穴から噴き出す。しかし、動けない緑はただ壊れた玩具のようにガクンガクンと跳ね上がるだけだった。


「来ないで、来ないで、ひいいい!」


霞の足音ともにモーター音が緑の耳に響き、ますます恐怖を煽らせる。視覚を奪われた今、聴覚が普段よりも敏感に働きかけていた。


悪魔の足音だ。狂った子供が近づいてくる。笑いながら、嬉しそうに。

瞬間、霞ではない違う誰かの静かな足取りが傍に感じる。


「緑さん」


この場に似つかわしくない優しい声音が緑に降り注ぐ。


「緑さんの料理、美味しかったよ。だから―」


緑の傷ついた瞼の淵から涙のように血が次々と流れる。そのまま、声のするほうへ顔を動かす。

懇願するかのように。


「おつかれさま」


まるで、オフィスから部下を退出させるようなねぎらいの声がリビング内に響いた。

その声が、緑の運命の決定打をうった。


「よし、行こ行こ」


霞は声を弾ませながら緑の細い足首を掴み上げ、リビングから廊下へ引きずっていく。そのたびに、赤い血の引きずり跡が区切ることなく伸びていった。


「いやっ、殺すんだったら今殺して!地下には連れて行かないで!!」


緑は絶叫する。緑は必死に体に力を入れようとする。しかし、どうあっても体を動かすことはできない。抵抗のない緑の体は、ただずるずると容易に引きずられていくだけだった。


「よいしょ、よいしょ」


「やだっ、やっ!助けて!ねぇ、そこにいるんでしょ!?助けて!!」


緑は無我夢中で助けを求める。助けを求めている相手はずっと無表情で姉を眺めている弟、穂積。穂積は一瞬、その叫びにピクッと反応し、わずかに目を見開く。しかし、穂積は反応しただけで動く意志を見せなかった。


「あ、ああああああ、いやぁぁ!!」


涙と混じった血が止めどなく目から溢れ、フローリングに続いていく。緑は唯一、自由にできる顔を振り回しただ叫び声をあげ続ける。叫ぶしか緑にはできなかった。その声は廊下に出てもリビングに響き渡り、止むことはなかった。しかし、その声も廊下の奥に引きずられていくたび小さくなっていき、ついには聞こえなくなった。


「明日が休みでよかったよ」


零時が引きずられていった廊下を眺めながら呟いた。


「穂積くん、時間がかかると思うけどあの子の後始末、お願いしてもいいかな」


振り返ってきた零時に穂積は視線を合わせ、こくんと頷く。


「でも、まずはこの食事の片づけを任せるよ」


零時はテーブルの上に置かれたすっかり冷めてしまった料理の品々に目をやる。一見、普通の食卓に見えるがテーブルに用意されているすべての料理には毒が仕込まれている。そして、もう二度と誰の口にも入らない料理の数々。

再び、穂積は頷いた。


「僕ももう部屋に戻るよ。ごめんね、全部を任せちゃって」


零時は申し訳なさそうに笑う。


「穂積くん」


廊下を出ようとするとき、皿に手を付けようとしている穂積に声をかけた。


「おつかれさま」


零時は目を細めながら口角を上げる。

それはさきほど緑に対して向けたものと同じ言葉。しかし、意味はまったく違うもの。


「――っ」


その言葉に穂積は顔を緩ませ、満面の笑みを浮かべた。

嬉しそうな子供のような笑顔で。


「緑さんもあともう一年……いや、2、3年ほど我慢すれば、誰かの寝首くらいは掻けたかもしれないのに。ほんと、かわいそ」


雫はフローリングの血を眺めながら呟いた。


「かわいそう?」


隣に立つ玖月は、視線は正面のままで聞き返す。


「欲望に身を任せた霞の拷問はエグいから」


同情の言葉を吐露しつつ、口調は相変らず淡々としている。


「なんで、ここにやってくる人は皆、我慢ができないんだろうね。前の人は半年で自滅しちゃったから」


やれやれといった様子で首を振った。


「……かわいそう、じゃないですよ」


玖月はすっと目を細める。


「何か言った?」


「いえ、別に」


玖月のわずかに呟いた言葉には確かな感情の色がにじみ出ていた。

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