第20話誤算とマゾヒズム
「……な……さい」
緑は俯いたまま呟く。わずかにしか聞き取れないが声音が震えているとわかる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな――」
「そうきたの?」
やっとの思いで保っていた平静さが完全に崩れ、緑はがぐがぐと震えながら命乞いし始める。身動きが取れない自分にはそれしかないと察したのだろう。
「それって何に対しての謝罪なの?」
長々と話したせいなのか吹雪の声に毒気が抜かれたかのように力がない。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめ」
「………ねぇ、この人どうするの?僕は長々と話をしたせいで疲れちゃった」
吹雪は辟易をしながら呟く。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな―」
緑は息継ぎする暇もなくただただ謝罪を繰り返し問答に応じようとはしない。同情を買おうとしているのか己の処遇について決定づけないようにしているのか、時間稼ぎをしているのか判断がつかない。
少なくても心からの謝罪ではないことだけは判断できる。ここにいる誰もが緑の上辺だけの謝罪の言葉に答えようとは思わなかった。
「ねぇ、私から一ついいかしら」
ただ一人を除いては。
声を上げたのは砂霧だった。手を上げながら緑を庇うように前に出る。
「緑さんと話し合うことはできないかしら?」
「……何言ってんのよ、砂霧」
この状況に場違いな発言に吹雪は眉を顰める。
「私にはやっぱり、緑さんがこんなことを自分から計画するなんてどうしても思えないの。私たちはずっと緑さんを追い込むようなことを言っているだけで緑さんの弁明も何も話させていない」
「あなた、この状況わかっているの?今さっきのこと忘れたわけじゃないわよね?この人のこと穂積さんから聞き出したりさんざん調べたりしたじゃない」
「もしかして、緑さんは誰かに操られているのかもしれないわ。緑さんも洗脳されているのかも」
砂霧は真剣そのものの表情で緑を振り返る。
「…………………何言ってんのよ、砂霧」
「吹雪、あなただって少しの間だったけど緑さんの料理を食べてきたでしょ?あんなに美味しい料理を作る人が非道な人間だなんて私にはどうしてもて思えない。やっぱり、話し合うことは必要よ。この人の処遇はそれからでも遅くはないはず」
砂霧は聞こえの良い偽善的な言葉を次々と並べてくる。吹雪はそんな砂霧は不快な表情を浮かべながら見据えた。緑に向ける表情よりもずっときつく。
吹雪は砂霧のこういう部分をかなり嫌っていた。
「あんたって、ほんと―」
「砂霧」
苛立ち混じりに言葉を綴ろうとした吹雪を零時の声が遮った。
「前よりも効き目の効力が早くなってるね」
零時は場に似合わぬおっとりとした口調で話しながらテーブルに置かれていた毒針を手に取った。
「え?は、はい。兄さんの言われた通り改良してみました。即効性で体の自由を奪いつつ、言葉は話せるように調合してみました」
「うん、向上心が高いことはいいことだよ」
砂霧は慕っている零時が己を褒めてくれていると感じ、表情が一気に明るくなる。
「君ならもっとできるんじゃないかな」
「え?」
零時は指先で針を軽く弄んだ後、砂霧に差し出した。
「今度は今回の反対のものをお願いできるかな。それにもっと改良もできるはずだよ」
「反対……遅効性ということですか?もっと改良ということは………手足を動かなくさせるのは同じで今度は口も効けなくさせ、意識だけはっきりさせるということですか?」
零時は返事の代わりに口角を上げた。
「できる?」
「はい、できます!」
尊敬している零士が自分に期待している、そう考えるだけで砂霧の胸は高鳴った。砂霧は零時から針を受け取り、じっと針を見つめた。そして、意を決したかのように口を開く。
「今から調合してみます」
そう言って砂霧は緑のほうには目もくれず、毒針を握ったままリビングを出て階段を駆け上がっていった。緑はそれを呆けながら眺めていた。
「もしかして、あの子が助けてくれるって期待していたのかしら。同情を誘うような言動をしたら見逃してくれるって思ったの?生憎だったわね、あの子あなたを助ける自分に酔っていただけで本気で助けようとは思ってなかったみたいよ。ちょっと零時兄さんが口を挟んだだけでああだもの」
吹雪は砂霧が出て言った方向を見ながら、皮肉交じりに吐き捨てた。
「それで、次はどうするの?」
吹雪は少し屈みながら緑の次の反応を待つ。
「……るさい」
「ん?」
まるで地の底から這うような低く呻くような声が聞こえた。それはまぎれもない緑の声だった。
「うるさい、うるさいうるさいうるっさい!!」
顔を勢いよく上げた緑の顔は見たこともないほど歪んでいた。怒りと憎悪と狂気が混じったまさに緑の本性と捉える表情。緑は目を血走らせながら、リビングにいる全員を睨みつけている。穂積も含めてだ。
「さっきから寄ってたかって人でなし呼ばわりしやがって!あんたたちにだけは言われたくないわよ!ていうかさっきからあんた、気持ち悪いのよ!男のくせに女みたいな口調でほんっと気色が悪い!吐き気がする!!私、ずっとあんたのこと変態の化け物だって思ってたんだから!あんたみたいな気持ち悪いオカマ、私が一番嫌いな生きものなのよ!あんたみたいな気持ちの悪い化け物が私にこんなことしていいって思ってるの!?死ねっ、死んじまえ」
緑の罵声はリビング中に響き渡った。悪意を真っ直ぐに向けられた吹雪は呆気に囚われ、微動だにしない。
そしてふるふると震えだす。顔を引きつらせ胸元に手をやり、ぎりりと強く拳を握り締めている。吹雪は緑との距離を縮め、ゆっくりと口を開いた。
「もう一回言って、変態って」
吹雪は緑の罵倒の憤慨することも激昂することもなかった。むしろ、罵倒を浴びせられて悦んでいる。吹雪の呼吸はいつのまにか荒くなっており、頬も上気させていた。
「変態の化け物だって思ってたんだったら……言ってくれればよかったのに。言って、ほしかったわ。ああ、どうしよう………興奮がとまらない。こんな直球で、しかも憎しみがこもった瞳で罵倒されるなんて久しぶりだから………ゾクゾクしちゃう!」
吹雪は心の臓を鷲掴みするように左胸を強く押さえつけている。そしてふらふらとよろめき、壁に身体を預けた。興奮を抑え込むようにして置かれた右手の隙間から熱い息が漏れる。その吹雪の顔は愉悦に浸っている表情そのものだった。
「ねぇ、もっと言って。気持ち悪いって、変態だって」
吹雪は己の愉悦を求めるように緑に一歩一歩近づく。
緑はそれを汚物を見るような目で蔑視する。その視線で緑が吹雪のことを本当に心の底から嫌悪していたのが手に取るように分かる。
「限界だ」
そう気だるげに発したのは出雲だった。出雲はふらりと椅子から立ち上がり、あくびをする。
「眠い。茶番には十分付き合った」
出雲は感情のない目で緑を見据える。それは「人間」を見る目ではなくまさに「下等動物」を見下ろしている目だった。もうすでに出雲は緑に何の関心も向けていなかった。
「……勝手にやればいい」
出雲は視線を穂積に移す。穂積は緑の本性を前にしても表情も変わらず、感情も露わしなかった。穂積は今まで実の姉に奴隷のように扱われていた。自由と思考を奪われ続け、人間の尊厳というものを踏みにじられる日々を送っていた。感情を切り離さないと生きていけないほどだったろう。
しかし、穂積は感情のあるれっきとした人間だった。感情があるからこそ、姉を裏切った。穂積は姉に一歩一歩近づき、見下ろす。
近づいてくる穂積を緑は五月雨家の人間に向けているものと同じ不快な感情を乗せながら見上げる。緑の一番の誤算は穂積だった。穂積に反骨精神が芽生えるなんて全く予想していなかった。こんな状態に陥らないために緑は幼少期から己に逆らう意識を意図的に殺し続けてきた。暴力という絶対的な服従と姉がいないと生きていけないという洗脳というやり方で。
感情を殺させたと思い込んでいた。
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