第14話長男、零時

部屋をすり抜け廊下に出ると、ずっと微動だにしない穂積が扉の前にいた。


「あとは」


もうこの階に部屋はない。雫は上の階に続く階段に視線をやった。


「たしか6人兄弟ですよね。なら、あと一人」


「うん。兄さんの部屋は3階にある」


「そうですか。では行きましょう」


「…………ん~」


「雫さん?」


雫はなぜかその場から動こうとはせず、腕組みをしながら唸る。


「ない」


しばらく唸った後、何かに思い至ったのか少し首を振った。


「?」


「兄さんはない」


雫の口から出たのは否定の言葉。それもきっぱりとしたものだった。


「それは犯人であるはずがないという意味ですか?根拠は?」


さきほどの否定の言葉は吹雪のときのような曖昧とした返事ではなく、はっきりとしたものだった。これほどきっぱりとした言葉で否定するなんて、よっぽどの根拠があるのか。


「なんとなく」


「………は?」


「だからなんとなく、ない」


「行きましょう」


玖月は雫を置いて、一人で3階に向かおうとする。


「待って待って」


「ふざけてます?」


「ふざけてないって。でも、やっぱり兄さんはない」


「なんとなく」という漠然な言葉を使っているくせに、雫の口調や態度に迷いはなかった。


「ない………と思う」


「やっぱりふざけてます?」


玖月の視線により冷たさが込められた時だった。トントン、と階段からゆっくりとした足音が聞こえてくる。誰かが階段を上ってきているようだ。


二人は2階の廊下に踏み入れた人物を捉える。


零時れいじ兄さん」


話題に出していたその人が目の前にいた。


顔立ち、仕草、佇まいが静謐で穏やかさを纏った20代の青年。柔らかな髪質に全体を公正に見通すような優しげ光をたたえた翠眼、心地よい言葉を紡ぎそうな口元。清潔感のある部屋着のシャツを羽織り、背筋を伸ばして歩く姿はどこか紳士的だった。


「彼が長男の?」


「そう。………ああ、じゃあシャワーは兄さんか」


髪の毛先は拭き残った水滴や汗で湿った肌に張り付いていた。零時はゆったりとした足取りで壁際に立っている二人を素通りした。しかし、一瞬だけピタッと立ち止まって振り返り、ふっと柔らかい笑みを見えた。


「「!?」」


二人は狼狽える。見えているのか。

違う。見えるはずがない。微笑まれるはずがない。


二人ははっとする。ここにはもう一人いる。振り返るとシャツを持ったままの穂積がそこにいた。


零時は穂積に笑みを浮かべたのだろう。穂積はそれに答えるかのようにペコリと軽く、会釈した。


「びっくりした。見えてるのかと思った」


「ええ、僕も」


「でも、兄さんならもしかして」


「何ですか?」


「いや、なんでもない」


零時が向かった先は雫の部屋の扉の前だった。零時はコンコンと軽く叩いた後、扉をゆっくりと開けた。


「わぁぁぁん!!おねえちゃ~~ん!!!」


開けた瞬間、けたたましい霞の泣き声が廊下中に響いた。

しかし、零時はそれにまったく動揺することなく雫の部屋に踏み入れる。


「零時兄さんっ」


砂霧が零時に気づいた。零時が微笑を浮かべると、砂霧は折り目正しく背筋をすっと伸ばして見せた。


「あらっ」


砂霧の次に吹雪が気づき、髪を整えていた手を止める。


「いやだ~~~!!!おねえちゃ~~~ん!!!」


しかし、霞は気づかない。吹雪はそんな霞の頭をパチンとはたく。


「いたっ!?………あ」


霞もようやく零時に気づき、泣き叫ぶのを一旦やめる。


「清拭はもう終わったかな」


「ええ、一通り終えたわ」


吹雪は雫の髪を整えた櫛と身体を清めたタオルを抱えながら立ち上がった。


「もうすぐ夕食ができるらしいよ、下りたほうがいい」


ゆっくりとした口調の穏やかな声音だ。


「はい、兄さん」


砂霧は最初に応じ、素直に頷いた。零時は霞に近づき、涙で腫れた目尻にそっと触れた。


「あまりこすっちゃだめだよ、後で痛くなるからね。落ち着いたら、目元を冷やしなさい」


零時は宥めるように霞の頭を撫でた。


「ん」


零時の優しい手つきに、霞はしゃくりあげながらも少し落ち着いたようだ。

3人は零時に促され、階段を下りて行った。


そして、その場には横たわった物言わぬ死体と零時だけの状態になった。


「あの人も殺し屋なんですよね」


「そうだよ。私たち兄弟の中で一番腕が立ち、天才的な才能を持った人ね」


二人は壁をすり抜けて部屋に入ってきた。


五月雨さみだれ零時れいじ、23歳。普段は役所で働いている公務員。父さんが家にいないとき、代わってクライアントから依頼を受け取り、私たちに指示を出すの」


「どういう人なんですか?」


柔らかな雰囲気を纏っている目の前の青年から一切の残虐性と凶暴性を感じさせなかった。

殺し屋であることを疑ってしまうほど。


「どういうって……見たまんまの人だよ」


零時はベッドの横たわる雫を静かに見据えている。


「すっごく優しくてすっごく恐い人」


雫はそんな零時の背中に向けて言い放った。


「兄さんは私に殺しのイロハを教え込んだ人だよ」


零時はしばらく雫の顔をじっと見つめたままだった。

清拭をしたすぐ後だからか血色が良いように見え、まるで眠っているような死に顔だ。零時はそんな雫の頬にすっと手を伸ばし、慈しむように何度も撫でる。そして、顎、首筋、鎖骨を繊細な手つきでなぞっていく。


「お~い、私見てるんだけど?」


冷淡な口調を聞こえるはずのない零時に向ける。雫たちの位置からでは零時の後ろ姿しか見えず、どんな表情をしているのかわからない。肩峰辺りまで手を滑らせると、零時の息を吐く音が耳に入る。そしてゆっくりと体を離し、最後に手の甲で頬をなぞった。


零時が体を離すと同時に雫は安堵するかのように息を吐き出し、扉付近にいる二人を横切るようにして部屋を出て行った。


「ここはいいから、君は緑さんを手伝ってあげて」


扉の前で微動だにしなかった穂積に零時は声をかけた。穂積は少し考える素振りをした後こくりと小さく頷き、シャツを抱えたまま階段を下りて行く。そして、何の躊躇もなく出雲の部屋の扉をたたく。


バン!


寝起きが著しく悪い出雲は再び壊れそうになるほど乱暴に戸を開け、姿を見せる。まどろみを邪魔されて出雲の表情はさきほどより、不機嫌で目が据わっていた。もちろん、片手にはさきほどのフォークが握られている。


「夕食の時間だよ。皆、リビングに集まっているから出雲も下りなさい」


そんな出雲に零時は変わらぬ微笑で対応した。


「………」


出雲はわずかに目を見開き、しばし沈黙した。そして、無言のままのっそりと部屋から出た。


「あんまり乱暴に戸を開けちゃだめだよ?壊れちゃうからね」


零時はフォークを持ったままの凶暴な獣と向かい合っているというのに、慣れた感じで接した。そしてくすっと笑った後、踵を返し階段を下りて行った。対し、出雲はおとなしく後を付いていくように下りていく。


「てっきりさっきと同じようにフォークを突き付けると思ったのですが」


二人の姿が完全に二階から消えた後、玖月が話し出した。


「基本、みんな兄さんの言うことは聞くんだよ。出雲さん含めてね」


「雫さんもですか?」


「一応は、ね」


「怒らせると怖い人なんですか?」


「怒ったことはないよ、一度もね。だからみんな兄さんの前ではおとなしくなるの」


雫は零時が激情に駆られている姿を一度も見たことがなかった。おそらく他の兄弟も同じだろう。

穏やかで常に微笑んでいる男。それが五月雨家の長男、零時。


「やっぱり兄さんはないと思う」


雫は改めて言い切る。


「さっきはなんとなくって言ったけど、兄さんの職場って少し距離あるんだ。車で30分くらい。急な仕事が入ってたりしていたら間に合わないと思うし」


「入ったらの場合ですよね。つまり、定時退社の場合なら十分間に合うということですね」


「まぁ、たしかに状況的にできなくはないと思うけど」


雫は視線を階段に向けた。階段の先には零時の部屋ある。客観的から見て、零時も容疑者の中に入っている。犯人であってほしくないと思っていた吹雪の部屋も調べたのだから、ここは当然零時の部屋も調べるべきだろう。


しかし、雫は3階に行く意志を示そうとしない。


「それでも兄さんはないと思う。それに」


「それに?」


「私、死んでまで兄さんの部屋には行きたくないんだよねぇ」


軽い口調で腕を抱えながら肩を揺らす。


「そこまで言うのなら」


玖月はそんな雫に表情を変えずに視線だけを動かした。


「意外だね、納得してくれた?」


「してませんよ」


「ごめんね。駄々っ子で」


玖月はあからさまなため息を吐いた。


「零時兄さんの部屋の代わりって………って言うのは変か。最後に調べよっか」


「そうですね」


はっきり言葉にしなくても雫がどこを指しているのか理解できる。

雫の部屋であり、雫の亡骸だ。

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