第9話砂霧の日記
砂霧の部屋は霞の向かいの部屋。
扉の真ん中の上方辺りに、『SAGIRI』と書かれた四角いプレートが掛けられている。
「
雫は軽く説明した後、扉をすり抜けた。
砂霧の部屋は全体的に淡い色調の清潔感のある部屋だった。霞の部屋を出てすぐ砂霧の部屋に入ったためどうしても印象が地味めに感じてしまう。しかし、霞の部屋とは違い、色もインテリアもバランスよく整理されているため視覚的にだいぶ落ち着けて部屋を把握できる。砂霧の部屋には天井まである幅の広い収納棚が部屋の一面に置かれ、ほとんどが本で埋め尽くされている。几帳面に本はあいうえお順に並べられ、わかりやすい。本が置かれていないガラスキャビネットには液体が入ったガラス瓶がいくつも置かれていた。
窓のほうに目を向けると薄い緑のカーテンがゆらゆらと動いている。どうやら窓が少し開いているらしい。すぐ傍にあるスタンドライトの暖色系の淡い灯りが部屋を照らしている。
「特に変なものはないかな」
雫はきょろきょろと首を回す。霞の部屋以上に念入りにだ。
「玖月くん、砂霧姉さんについてどういう印象を抱いた?」
雫はスタンドライドのところまで歩き、振り返りざまに尋ねた。
「印象……真面目で潔癖な優等生で雫さんの死を悲しんでいる」
「……」
「ようには見えませんでした」
玖月は抑揚のない口調で迷いなく答える。
「言動にどこか違和感を感じました。悲しんでいるのではなく悲しんでいるように見せている、ように思えました」
「玖月くん、すごいね。私、見直しちゃったよ」
雫は少し目を見開きながら、視線を玖月に合わせる。
「私、姉さんが『かわいそう』とか『祈りましょう』とか言っているとき、思わず笑っちゃいそうになったんだよね」
雫は砂霧のさきほどの言動が可笑しかったのか、口元に手を当てながら口角を上げた。
砂霧は雫の遺体の前で、誠実で清廉とした態度を取り続けていた。端から見たら、砂霧の姿は折り目正しい優等生に見えただろう。
でも、彼女も雫と同じく殺し屋だ。殺し屋である彼女の言動はまるで一人の人間として模範的な姿だった。殺し屋であるにもかかわらず。
「姉さんのことをすぐ知れるいいものがあるよ」
雫は壁向きに置かれているデスクのほうを指差した。ラックが一体化したデザインでライトブラウンのシンプルなデスク。
その机の上に一冊の日記帳があった。茶色い無地の表紙で少し厚めの日記帳。閉じていた日記帳は窓からの風でぺらぺらとめくれていく。
「これ、見なよ」
風が弱まったおかげで、めくれていた日記帳はゆっくりと止まった。雫はその見開いたページに目を向けながら、玖月に覗くように促す。
『×月×日。今日も一人、人を殺した。殺すたびに私の手は血で汚れ、心まで淀んでいくのがわかる。殺しは罪悪だとわかっている。でも、私たちの仕事は誰かがやらなければいけないこと。私が今日殺した男は薬物を女性に乱用し、性的なことを強要させていた麻薬ディーラーだった。私があの男を殺したことでたくさんの人が救われたはず。この世界には誰かが手を血で染めなければ、不条理を正せないことがある。そのために、私は自分の意思で手を血に染めることを選ぶ。せめて、私は殺した人のことは忘れないようにしないといけない』
『×月×日。雫の今日の仕事は少し手こずったらしく、帰りはかなり遅かった。ちょうど、私と鉢合わせしたため話をしようと思った。雫は命を軽んじているところがある。このままではいつか、
『×月×日。明日の仕事は零時兄さんの指示で霞と二人での仕事。私一人でもできるけど零時兄さんのことだから何か考えがあるのね。霞はまだ未熟だから私がちゃんとサポートしないと。零時兄さんもきっと霞が心配だから私と組むように指示したんだわ。零時兄さんの信頼を裏切らないように明日は完璧にこなさないといけない』
『×月×日。あれほど言ったのに。絶対にボスの居所を吐かせるまで殺しちゃだめって言ったのに、何も情報を引き出せないままになった。なんで殺すのよ。捕まえた男は見るからに下っ端中の下っ端だったじゃない。それなのに自白剤を取りに部屋を出た間、勝手に尋問を初めて勝手に死なせちゃうなんて信じられない。本来なら1日で済ませられる仕事だったのに霞のせいで高い依頼料を使って情報屋を雇うはめになった。私が悪いわけじゃないのになんで私がお金を出さなければいけないの。こんな仕事早く終わらせて、零時兄さんに褒めてもらうはずだったのに。むかつく!むかつく!むかつく!!むかつく!!!むかつく!!!!なんで私があんなイカれた拷問狂の尻拭いみたいなことをしなくちゃいけないの!なんで私の言うことは聞けないの!?あのドーナツ女の言うことは妙に頷いているのに!!もう、やだ!!あんなガキと一緒の仕事なんてこれっきりにしたい!そもそも、なんであんなにあの子頭がおかしいのよ!?そんなに生き物殺すのが好きならそこら辺にいる野良犬か野良猫で性癖発散しろよ!私に迷惑かけるな!!』
『×月×日。零時兄さんがまた雫を褒めているところを見た。ふわりとした素敵な笑顔で頭を撫でていたわ。本来だったら、私があんな風に褒めてもらえるはずだったのに。この前の仕事のときは完璧にできなかったせいか零時兄さんに頭を撫でてもらえなかった。羨ましい。それなのに、せっかく零時兄さんに褒めてもらっているのに雫ったら気のない返事しかしていなかった。なんであんな態度が取れるのよ!もっと嬉しそうにしなさいよっ!なんで、いつも適当にドーナツをむしゃむしゃ食べているだけの子なのに仕事の要領はいいのよ!なんで、私よりあんな子のほうが腕が上なのよ!なんで、いつもあの子ばっかり褒められるのよ!私のほうががんばってるのに。死ね!死ね!!あんな女、ドーナツ食べ過ぎて糞詰まりになって死ね!!!』
「………」
「………」
「凄まじいでしょ」
「凄まじいですね」
「ああ、この日のこと覚えてる」
雫は見開いた文章を指差した。それは仕事帰りの雫と廊下で鉢合わせをしたという文章だった。
「普通、深夜12時までかかった殺しの仕事を終えたばかりの人間にいきなり命の尊さとか語る?私、すっごく眠くて疲れていたから、そのとき反応に困ったんだ」
「なるほど」
「姉さん、また自分に酔っちゃってるなっていうのはわかったけど」
日記帳には不自然なほど命に対しての潔癖さが理知的に綴られつつ、所々で兄弟への罵詈雑言が
砂霧はこうも日記帳の中で雫をわかりやすく罵っているにもかかわらず、さきほどの光景では雫の死を本気で嘆いているように見せていた。
「あれたぶん嘘泣きだろうな」
雫はくすっと噴出した。笑いが零れるほど姉の姿が滑稽に見えたのだろう。
「それほどまでに……」
玖月は嫌われていたのか、と問いかけの言葉を飲み込んだ。この日記帳には特に雫に対しての不満、嫉妬、人格否定が大半に記されていた。いちいち問いかけなくても理解できる。
日記帳のページがまた、めくれていった。
「おっと」
突然のことで雫は思わず、小さく声を出す。霊である雫には風を肌に感じることはできない。カーテンの
雫は最新のページの日付に目をやる。
「今日のだ」
今日。つまり、雫が死んだ日。内心嫌っていた妹が死んだときに綴ったページ。
『7月×日。雫が死んだ。突然のことだった。吹雪と虎次さんと穂積さんが車から動かなくなった雫を家の中に運び込んできたときはさすがに驚いた。なんでも待ち合わせ場所ではなく少し離れた街道で倒れていたらしい。襲撃犯はわからない。雫を回収するとき人の視線や気配はなかったと言っていた。一体誰なの?雫を殺すなんて。でも、私はこんな日がくることを心の中で覚悟はしていたわ。なにせ、私たちは殺し屋なんだから。私たち兄弟の中で一番最初にその死が来たのが雫だったのね。雫が死んだ。雫が死んだ?雫が、死んだ………雫が死んだ!そうよ!雫は死んだのよっ!!私ったらバカみたい、なんでこんなときまで几帳面に文字を並べてるのかしら。自分のこういう融通の利かないところがすごく嫌い。ま、いいわ。もう文字を消すなんて面倒だし。でも、もう我慢なんてしないわ。思う存分書いてやる!あはははははっ!!どうしよう、まだ愉快な気持ちがおさまらない。死体を見たとき思わず笑っちゃいそうになったわ。一体どれだけ嫌いなのかしら、私。でも、これで私の中のしがらみが少し和らいだはずだわ。だってとっても気持ちがいいもの。もうこれで雫に対してどうしようもない対抗心や劣等感は抱かなくて済むわ。零時兄さんだってもっと私を見てくれるはず。だって、もう雫はいなくなって兄弟で女は私一人になったんだから。ごめんなさいね雫、こんな姉で。でも、雫が悪いのよ、こんなに早く殺されちゃうんだから。どうせ、ドーナツのことを考えすぎて油断したんでしょ。ほんっとバカでどうしようもない可哀そうな妹。私があなたに今、言ってやりたいことはこれ「ざまあああああ!!!」あははははは!!!!』
「うわぁ、予想はしていたけどすごいな」
そのページは他の日録と比べると明らかに長々と書き連ねられ、右ページまで届いているほどだった。冒頭は達筆に綴られていたが、すぐに内心の鬱憤を晴らすかのように殴り書きに移されている。
「笑っちゃいそうになったって実際さっき笑ってたじゃんか。私には泣いて震えているんじゃなくて、笑いを堪えるのに必死に震えていたように見えたよ」
雫はそのページの内容を笑みを浮かべながら目で追っている。雫にとって砂霧が書き写した内容は期待を裏切らない予想の範囲内のものだった。砂霧は内心薄ら笑いを浮かべているにもかかわらず、表面上ではそれを必死で隠し周囲に繕っていた。この日記の内容を読みながらさきほどの砂霧の言動を思い出すとより滑稽に思えてくる。
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