第3話思い出せない
雫は幾人の命を屠ってきた殺し屋だった。一見、凶悪な顔立ちでも殺伐とした雰囲気も纏っていない普通の少女。それでも、殺し屋であることはまごうことなき事実だった。
地獄逝きを決定付けられたはずなのに、雫はほとんど狼狽することはなかった。それは決して強がりでも自棄になっているわけでもなかった。
「『私』って言うよりも『私の家』って感じかな。今まで百人以上は殺しているのに天国なんて行けたら逆に怖いよ。だからって地獄なんて自分から行きたいってわけでもないけど」
雫はまるで世間話をしているかのような口調で緩く笑った。通常だったら『殺し屋』と告げられても真に受けることはできないだろう。
でも、雫は地獄に落ちる。これは決定付けられた現実だった。
「さてと。早く私を送ってくれる?地獄ってところに」
雫は両手を広げて見せた。
「最後に何か言っておきたいことはありますか?」
窪んだ黒い瞳の少年はじっと雫を見据えた。
それはまるで、看守が処刑台の階段を上る罪人に告げる言葉だった。雫は少し考える素振りをした後、すっと顔を上げた。
「ドーナツ、もっとたくさん食べておけばよかった」
それは人生の嘆きの言葉でも地獄への恐怖でもなかった。
ましてや、命を屠ってきたことに対しての悔悟の言葉でもない。
ただ、雫は残念そうに軽く笑っただけだった。
「……それだけですか?」
「うん、それだけだけど」
少年は雫から視線をはずした。
「さっきは驚いたって言いましたけどたまにいるんですよ、あなたのように10代で地獄逝きになる人間が。だいたい、あちらに送る前は泣くか喚くか縋りつくかされるので……まぁ、こちらとしては長々と時間を引き延ばされるよりはいいんですけど」
「そんなに意外だった?泣いたほうがよかった?」
「そういうわけではないですが」
最後の言葉を促したくせに、少年の声音はどこか固い。表情筋が動かなくても雫の最後の言葉が気に入らないことが伝わってくる。その理由が雫のあっけらかんとしたような態度なのか罪の意識を吐露しないことなのか判断がつかない。少なくても雫に対して憐れみは抱いていないことは伝わってくる。
少年はふっと息を吐き、ゆっくりと視線を雫に合わせてきた。
瞬間、その場の空気が変わった。今までとは違う面持ちで少年は雫を見据える。
その黒い瞳はより暗く、緊張を孕んでいる。
雫はすぐに察した。
自分はこれから地獄に行くんだと。見苦しい悪あがきはする気はないがやっぱり気が重い。
「私、痛いの嫌いなんだよな」
雫は深いため息とともに呟いた。
少年は雫の言葉を聞き流し、右腕を持ち上げゆっくりと掌を上向きに広げた。広げたと同時に掌の上に白く光る球体が現れた。球体の光は眩く、少年は掌の上でふわふわと浮かんでいる。
雫はそれが何なのかわからず、首をかしげる。
少年が掌を少しずらすとその球体は徐々に形を変えていき、目を凝らすとそれは平べったくなっていった。最終的に球体だったものは一枚の紙に変形した。
少年は角が少し丸まった紙を片手に取り、雫に掲げるように持ち上げる。紙に何か文字が書いてあるのか少年は目を何回も追うように横に動かしている。何が書いているのかは雫のほうからは見えない。しかし、地獄に送るための重要なものだと察することができる。
少年は紙を掲げたまま、言葉を発さず微動だにしなかった。
暗闇の中で沈黙が流れる。
「…………なんで?」
やっと少年が発した言葉は疑問の声だった。
しかも、表情がないのが常だった少年はわずかに眉根も寄せている。どうやら、予想外の事が起こっているらしい。
「どうしたの?」
雫は少年の様子に違和感を感じ、問いかけた。
「…………反応しない」
少年は雫の問いかけに気づかなかったのか、苛立って零したかのように呟く。
少年は掲げた腕を少し下に下げ、目線を雫に合わせてきた。
「あなた、もしかしてなぜ自分が死んだか思い出してないのですか?」
「うん、まったく。それがどうかした?」
雫は自分が死んだということは理解はしているが、実感はまったく感じていなかった。そもそも、なぜ自分が死んだのかわかっていなかった。事故で死んだのか、誰かに殺されたのか、今に至るまでまったく思い出せていない。しかし、雫は死んだ理由なんてこれから地獄に行くのにさほど重要ではないと判断し、特に気には留めていなかった。
「これを見てください」
少年は雫に見せるため、紙をくるりと回し近づけた。
「これは黄泉への送検確定書です。これにはあなたの記憶を元に必要事項が自動的に記載されます」
紙には横文字でいくつかの項目が書かれている。
死亡日時 2018年 7月5日
死亡場所 東京都××市×××区×××××
死亡時刻 18時35分
送り先 地獄
etc ・・・・・・
現世で言うところの死亡診断書のようなものだった。
雫は項目を目で追っていると一つ空欄があることに気づく。
その項目名は『死因』だった。
「すべての項目が埋まらないとあなたをあちら側に送ることができません。あなたのように自分が死んだことに気づかないままこの狭間に迷い込む魂もいます。しかし、己の死を自覚し、服が死の色に染まれば、死んだ理由を思い出せるはずなんです。今までの霊はそうでした」
「そうは言われても、思い出せないんだからしょうがないと思うけど」
「思い出してください。困ります」
少年は空欄部分が雫の目線に合わせるように紙を持ち上げた。
「本当にわからないの。記憶がぷつっと切れてるんだよね」
雫は記憶の糸を辿り始める。
◇◇◇
今日は殺しの仕事のない平日だった。休日はともかく、平日にある仕事は授業が終わった後、急いで現地に直行することが多々ある。仕事日は放課後遊ぶことも買い食いする暇もまったくなく、基本一日で終えることを求められるので、かなり忙しない日になる。そのため仕事のない平日は授業が終わった後、のんびりと家路につくことができるのでかなりありがたい。
雫は今日、クラスが上がって仲良くなった藍の家にお邪魔をしにいった。好物のドーナツをご馳走になりつつ、おしゃべりを楽しんだ。夕方までおしゃべりを楽しんだ後、帰路に付いている。
夏は日が長い。
夕刻だというのに日没が遅いため、まだ明るい。見上げると空を覆っている雲の峰から薄い青がぼんやりと見える。日中は熱い日差しが肌を照らし拭き取っても汗が止まらなかった。しかし、日が沈みかけている夕刻は比較的過ごしやすい。生ぬるい風は吹いているが、紫外線の量は少ないため日中ほど外を歩くのに抵抗はない。
雫は一本の街道を歩いていた。清閑な住宅地で車が通ることも人とすれ違うこともなかった。ただ、雫一人の影が動いている。通りすぎる家々から時折生活音が耳に入る。
ぼんやりと歩いているとカバンの中に入っている携帯からピコンとした通知音が聞こえた。
雫は歩きながらスマートフォンを取り出し、メッセージを確認する。
『雫がカバンに付けているキーホルダーが家に落ちていた』
『学校で渡すから』
すぐにカバンの脇のファスナー部分を確認するとメッセージ通り、いつも付けていたボールチェーンのドーナッツのキーホルダーが取れていた。
「あ、本当だ。取れてる」
おそらく、チェーンの留め具が外れたんだろう。
雫はさっそく返信する。
『ありがとう』
『じゃあ、学校で』
メッセージを送信した後スマートフォンをカバンにしまい、家へ歩き出した。
◇◇◇
「・・・・・・そこだけしか思い出せない」
雫は手を顎につけながら、この狭間にくる直前のことを少年に説明した。
やっぱり、事故にあった記憶も誰かに刺された記憶もない。いつのまにかこの暗闇に迷い込んだ感覚だった。
「思い出せるはずです。思い出してください」
淡々と捲くし立てるような口調で雫を急かす。
少年は雫が嘘を付いていると疑っているわけではない。雫が死んだ理由を思い出せないことが思いのほか驚いている様子だった。それほど雫のケースは稀だった。
「そんなこといわれても」
思い出せないのだからしかたがない。いや、思い出せないは少し語弊がある。そこの部分だけぽっかり穴が開いたように欠落しているといったほうが正しいのかもしれない。そう思ってしまうほど死んだ理由に対して、記憶がかすりもしない状態だった。まるで、切り取られたように記憶が抜けている感覚に雫も違和感を感じていた。
「事故にあった可能性は?」
「いいや、車とかの気配なんてなかった。後ろから近づいてきたらすぐ気づくから」
「重い持病は?」
「ないよ。至って健康」
「襲撃された可能性は?」
「ない……と言いたいところだけど」
少年の問いの即答していた雫が最後の問いにははっきりとしない口調で答えた。
「私、別に自分を過信しているわけじゃないけどこれでも一応殺しのプロなんだよね、それなりの。はした金で雇われたチンピラや刺客には負けない自信はあるつもり」
雫は表の世界では女子高校生として学校に通い。裏の世界では殺し屋として仕事をこなしている。仕事を完璧にこなしているということは、幾人の恨みも買っていることでもある。いつ、表の世界の日常を壊されてもおかしくはなかった。
雫も十分それを理解している。別段、長生きにこだわっていたわけではなかったが、薄々命を投げ出そうとも思っていなかった。表の世界でも不審な気配や殺気が向けられていたらすぐに周囲を警戒し、人知れず対処していた。しかし、今日の夕方の帰り際にもそんな気配は微塵も感じなかった。家々に人の気配はしても己に向ける不審な視線はなかった。
「では、自分が殺される可能性は絶対にありえないということ言うことですか?」
「そういうわけじゃない。たしかに殺しの腕はそれなりだって言ったけど、あくまでそれなり。私よりも腕の立つ殺し屋はたくさんいる、例えば兄や父みたいにね」
雫は己の実力を客観的する。
凡庸というわけではないが父や兄のように天賦の才は決してない。そう思ったからこそ、雫は口篭った。
「誰か思い当たる人物はいますか?」
「やっぱり、同業者なのかな」
雫は軽く唸った。
自分を殺したいと思っている人間は腐るほどいるが、己を仕留める実力者は早々はいないだろう。
16歳まで生きてこられたことがなによりもの証拠だ。
「私と同等もしくはそれ以上の殺しの腕を持ち、私を殺したいって思っている人間といえば……私の家族だろうな」
雫は迷いも躊躇いもないきっぱりとした口調で言い放った。
すぐに思いつく容疑者はまさしく同業者である家族だった。
「家族ですか?」
「皆、現役のプロだからね。私を本気で殺そうと思えば殺せると思う。なにより私の家族皆、頭がおかしい人間ばかりだから」
殺し屋なんて大概ろくなものではないが、特に五月雨家の人間は典型的の部類に入る。到底一般人には理解できない性癖を持つ異常者が寄せ集まった一族。雫はその家族に育てられ、死ぬ間際まで一緒に住んでいた。
「私も大概普通じゃないけど、あの人たちよりはマシだと思ってる。私はおかしな性癖は持ってないし」
雫も五月雨家の人間。普通ではない価値観を持ち合わせている。
そんな雫でも理解できない性癖を持った雫の家族。
だからこそ、考えてしまう。到底理解できない自分を殺す理由付けを作り、実行に移した人物が五月家の中にいるのではないか。
「何にしても、一番良いのは戻って色々調べることなんだよね」
あれこれ推測を立てても、それを確かめるすべはここにはない。真実を確かめる方法は「戻る」ことだ。雫の記憶や目線だけでは可能性の枠からはみ出すことが出来ず、限界がある。なにより、肝心の殺された記憶だけが欠落しているのだ。もし、戻ることができれば今よりもより多くの情報や真実を得られることができる。それに死体の確認や使用された凶器が判明できれば容疑者を絞り込めることもできる。雫の予測しなかったところから犯人が出てくる可能性も十分あるだろう。
「それができればいいんだけどね」
雫は肩をすくめる。魂の存在となった今ではもう戻ることができない。
できることといえば考えられるあらゆる可能性を出し、そこから現実的かつ合理的に推測を立てて、答えを導くしかなかった。
なんて、非効率的なんだろう。
「戻りましょう」
「え?」
少年の言葉に雫は驚きの声を上げた。それは雫にとって予想だにしなかった提案だったからだ。
「戻れるの?」
「はい。というか、戻るしかないでしょう」
そう言いながら少年は手に持っていた紙を最初に見た光る球体に戻し、ポンと消した。
「このままでは埒が明きません。正直僕も困るんです。僕はまだ新人なので一回に一人の魂しか送ることができないので、あなたを送らないと次の仕事ができません。本来はこの狭間に迷い込んだ魂は原則として戻ったらいけないんですが、今回は特例中の特例なのでしかたがありません。多少の罰則は覚悟の上です」
業務に忠実そうな少年がルールを破ろうとしている。少年も雫を現世に戻し、調査するしかないと判断したらしい。
「最初に言っておきます。「戻る」というのは魂のまま現世に戻るということです。決して生き返るという意味ではないので、くれぐれも誤解なきように」
「大丈夫、そんな期待まったくしてないから安心して」
雫は軽く笑って見せた。
本来なら雫はこのまま地獄逝きの魂。何人もの命をその手で奪ってきた罪人。
そんな雫が死んだ記憶がないというだけで一時的に現世に戻り、留まる事ができる。生き返りたいなんて僅かでも思ってしまったら、すぐにでも地獄に引きずられてしまうかもしれない。
一時的とはいえ現世に戻してくれる。それだけでもありがたいことだ。
「私が戻ってやることはわかってる。自分が死んだ理由の究明だよね」
「そうです。あなたにその記憶がなくても死んだ経緯を解き明かせば、確定書もすべて埋まるはずです」
「私もさ、やっぱり気になるんだよね。自分がどうして死んだのか」
雫は生きている間、それほど自分の命に頓着していなかった。魂だけになった今でもそれは変わらない。
だからなのか、自分が死んだことを突きつけられてもそこまで悲観できなかった。雫は常にいつ、殺されてもおかしくないと心得ていたからだ。
しかし、こうも死因もなにもわからないとどうもすっきりしない後味の悪さのようなものを感じてしまっていた。さすがの雫もこんな不完全なままでは地獄には行きたくないと考えていた。どうせ、自分は地獄逝きだ。せめて自分の死の真相をしっかりと心に刻み込んでから地獄に行きたい。
「あ、そうだ」
暗闇の虚空を見つめていた雫はある事に気づいた。
声を上げた後、少年に向き合った。
「君の名前は?まだ聞いてなかったよね」
少年に対して警戒心がだいぶ緩くなった雫は少年に気安い態度で接する。
少年は雫の味方ではないが敵でもない。雫を地獄へ連れて行こうとするが、それは己の仕事を全うしようとしているからだ。敵意を向かれていないなら、地獄に行く前までの話し相手になってもらいたい。
「言う必要があるんですか?」
急に馴れ馴れしく名前を聞こうとする雫に訝しげな視線を送ってくる。
「だって不便じゃない?話すとき『君』とか『死神くん』呼びになっちゃうけど」
「……」
少年は雫から目をそらし、黙り込んだ。
雫は現世に留まることになった。しかし、それは一時的なものだ。雫が死んだ原因を突き止めたら、この暗闇の狭間に戻り地獄に送られる。
雫は現世に留まる間、少年のご機嫌を取り地獄逝きをやめさせてもらおうなんて姑息ことまったく考えていない。少年だって十分それを理解しているはずなのに、名前を教えるのをどこか躊躇しているようだ。
「まぁ、無理には聞かないけど」
なぜか口ごもっている少年に雫は肩を少し揺らして嘆息した。
「……死神ではありません」
名前を聞き出すのを諦めた雫に少年はゆっくりと視線を合わせ淡々とした口調で話しだした。
「勘違いしているようですが僕たちは死神ではありません。僕たちは送り人です」
「送り人?」
「死んだ魂をあの世に送る役割を持った存在です」
少年は一度言葉を区切った後、少し息を吐き出した。
「僕は送り人、
「玖月くんね。もうわかってると思うけど礼儀として私も名乗るね、私は
同じ目線に立つ玖月と名乗った送り人の黒い瞳を見つめながら雫は微笑んだ。玖月はそれを沈黙をもって返した。和やかなあいさつを交わしていてもどこか二人の間には緊張感が漂っている。
雫は玖月に対して、当初と比べ態度が緩くはなっても完全に警戒心を解くことはなかった。
玖月は何かを隠している。
雫は玖月の雰囲気から何かを感じ取る。
玖月も雫の笑顔の下にある猜疑心を感じ取ったのか、表情と態度をまったく緩めなかった。
これからは互いの得体の知れなさに手探り状態で様子を見続けるようだ。
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