第2話少年の目的と少女の正体

「起きてください」


目を閉じた瞬間に真上から誰かの声が耳に入った。その声に導かれるように雫はゆっくり目を開く。雫の顔を見下ろしている少年が雫の頭の近くに立っている。少年は雫の次の反応を待っているかのようにずっと無言で見つめていた。


「誰?どこから現れたの?」


雫は周囲を見渡した後、仰向けのまま小さく呟いた。寝転がるまで近くに人影も人の気配もなかったはずだ。それなのに少年は一体どこから現れたんだ。


「とにかく、起きてください」


少年は雫の問いには答えず、淡々とした口調で返した。


「わかった」


雫は少年の言葉通りにゆっくりと体を起こし、少年と同じ目線に立った。


少女と見紛う中性的な顔立ちの少年だった。

少年はこの闇と一体化してもおかしくないほど暗い雰囲気を纏い、生気のない表情をしている。窪んだ物憂げな瞳、覇気のない声、全体的にやせ細った体。いかにも「病弱」という言葉が似合う印象だ。

少年は第一ボタンまでしっかりと留めた、灰色の学生服を着ている。


雫はもう一度、周囲を確認するかのように見回した。この少年が目の前に現れたこと以外はどこまでも同じような闇が広がっており、変わった要所が何もなかった。



「僕以外誰もいませんよ」


少年は雫の思考を汲み取ったかのように言葉を発する。

雫は少年も己と同じようにこの暗闇の中に迷い込み、状況がいまいち呑みこめていない同類かと思ったがすぐにその考えを打ち消した。少年はこの暗闇の正体を知っていると直感したからだ。


少年は何処からともなく現れ、雫に声をかけた。この暗闇を意に介さず、まるで雫に用向きがあるかのような声音だった。


「もしかして、あなたがここに私を連れてきたの?」


最初に打ち消した誘拐という言葉を少年にぶつけた。

雫は半歩下がり警戒を強める。


「僕はあなたを迎えに来たんですよ」


「迎え?」


言っている意味がわからず、雫はますます警戒心を顕わにする。そんな雫に少年は口調や表情を変えず、淡々とした態度を崩さない。


「ここがどこだか本当にわからないんですか?あなたはここに来るべき人だからここにいるんですよ」


「言っている意味がわからない。あなたはここがどこだか知っているんだよね。ここはどこなの?」


少年は雫の察しの悪さに辟易としたのか一瞬だけ目を伏せ、ふっと息を吐いた。


「ここは生と死の狭間、人間の魂が通る通過点です。あなたも含めて」


「生と、死の?」


耳にすべて届いてはいても聞き返さずにはいられなかった。訝しげに見つめる雫に対し、少年はゆっくりと聞こえるように告げる。


「あなたは死んだんですよ」


雫は呆然としながら顔色の悪い少年を見つめた。

一人の少女に残酷とも言える言葉を吐く少年の口調には悪意も敵意もなかった。平坦な態度を崩さない少年からは何の感情も感じられない。


ここは死後の世界。


私は死んだ。


死んだだからこの少年は迎えに来た。


「私が死んだ」


「はい」


独り言のつもりだったが、少年は聞き返されたと思ったのか言葉を返した。

雫は普段と変わらない己の姿を見回す。自分の手足を見つめ、頭をペタペタと掌で触った。


「足あるけど?」


「はい」


「頭に三角の白い布、ついてないけど?」


「はい」


「体、透明じゃないけど?」


「はい」


少年は適当な相槌ではなく雫の言葉を理解した上で返している。


「それでも私は死んだ」


「はい」


その返事は今までの返事よりも重くて低い声音のように感じた。

雫は腕組しながら天を仰いだ。天に何もないとわかってはいても顔が勝手に動く。


「へぇ、私死んだんだ。それは残念だ」


そしてそのまま深い息を吐きながら納得がいったという様子で受け入れた。

本来なら見ず知らずの人間に突然そんな言葉を投げつけられたら到底信じることができなかった。しかし、雫は少年の言葉が妙にしっくりときていた。ここが死後の世界だとしたらこの非科学的な現状にすべて納得ができてしまう。


「うわっ、何これ」


雫が己の死を意識した瞬間だった。

足元から己の体に向かって触手のような影が蛇のように伸びてきた。得体の知れなさにぞわりとした悪寒が走る。影は膝から上へ伸びてゆき、腰にゆっくりと到達し肩へと覆っていった。雫が着ていたセーラー服は見る見るうちに漆黒に染まっていく。奇妙なことに影は首や肘下には伸びなかった。正確には黒く覆われたにはセーラー服だけだった。

雫は己の手足をまじまじと見つめる。体全体の皮膚は影が伸びてくる前と同じ肌色のままだ。黒い影は雫の体全体を覆うのではなく服を黒く染めることを目的としていたらしい。

雫は黒く染められたスカーフやスカートを手でペタペタと触った。色が黒く一体化された制服はまるで喪服のようになった。


「あなたが己の死を意識したので、死の色に染まりました」


両手を広げて見せた雫に少年は解説を入れた。

雫は微動だにせず、己の姿を凝視した。理屈では説明できない現象が己の身に起きた。

自分が死んだと納得していたが、どうしても実感が湧かなかった。内心、片隅のほうでわずかな希望を抱いていた自分も確かにいた。しかし、まさに今起こった非現実的な現象は希望を抱くのを許さず、己の死の現実を突きつけている。


「死の色ねぇ、この制服気に入っていたのに」


雫はがっくりと項垂れて見せた。

ため息混じりに吐いた息には制服が真っ黒く染まっていてしまったことに対しての不満げな思いと生に対しての諦念が交じっている。しかし、雫は少年に絶望に打ちひしがれてもおかしくない宣告を告げられているにも関わらず、終始平淡な態度を崩さなかった。態度や言葉の端々から魂の存在となり気が滅入っているよう様子ではあったが、ひどく取り乱すことはなかった。少年は口には出さなかったがまるで、己の死を客観視している雫の態度に違和感を覚えた。


「ここが死後の世界か。本当にそういうのがあるんだ」


雫は改めて何もない暗闇を見回すため首をあちこちに回す。夜よりも暗く、気が狂いそうなほど静かで何もない虚無の世界。

しかし、まさに自分にはお似合いの場所だろう。


「違います」


少年は雫の『死後の世界』という言葉に反応したらしくきっぱりと否定した。


「え?だって私、死んだんでしょ」


「さきほども言いましたがここは生と死の狭間です。正確には通過点であり死者の着地点ではありません」


どうやら考えの相違があったらしい。ここは人間の魂が行き着く場所ではあるが、永劫に留まる場所ではなかったらしい。少年が言っていた『迎え』の意味をようやく理解した気がする。


「まぁ、確かにここにずっといたらいくら私でもどうにかなっちゃいそうだよ。それで、君は私をどこに連れて行ってくれるの?」


「あなたの行き先は、地獄ですよ」


「……」


雫はさきほどとは違い、聞き返すことはしなかった。

一瞬、空気が張り詰める。しかし、それは本当に一瞬だけだった。


「地獄か。まぁ、予想はしていたけど」


その空気を切り裂いたのは雫の緩い声音だった。雫は大きく肩を竦めて見せる。

少年の答えは予想の範囲だった。しかし、いざそれを示されると嘆息してしまう。


「あまり驚かないのですね。僕は少なからず驚きました。日本人の十代の女性が地獄逝きなんてなかなかないので」


驚いていると語っている少年の表情はやはり変わらないが、どこか口調に感情の色が混じっているように聞こえる。少なからず、雫の態度に動揺を感じているらしい。


「行く先が天国と地獄の二つしかないんだったら、私は地獄しかないでしょ」


「なぜ、地獄行きかはわかってるみたいですね」


「そんなの決まってる。だって私、殺し屋だからね」


そう言って雫は苦笑いを浮かべた。

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