第2話 古風な名前の猫と、降ってわいた罰ゲーム?

 翌日の昼。まだ5月に入ったばかりだというのに、太陽が天井越しに部屋を焙る。

 そんな中、暑さと豊かな胸への圧迫感による寝苦しさで、穂奈美は眼を覚ました。

 昨夜飲んだアルコールが二日酔いとなり、彼女の頭を緊箍呪のように痛めつる。さらに胸への圧迫感が嘔吐を催させ、最悪の、爽やかとは程遠い目覚めだった。

「暑い……気持ちわる……」

 穂奈美は不機嫌さを低い唸り声に変えて口から吐き出し悪態をつくと、手櫛を使って顔にかかった黒髪をかき上げる。

飲んでいる時は美味しく気持ちいいのに、どうしてその後には不快な思いが待っているのか。楽と苦は表裏一体というような歌があったが、やはり釈然としない。

「あー……、もうお酒なんか飲まないわ……」

 二日酔いになった飲兵衛お決まりの台詞を呟き、眼を擦りつつ胸の不快さをこらえて身体を起こした。胸の谷間に顔を埋もれさせるようにして寝ていた猫が床へと飛び降り、こめかみを指で揉みながら頭痛と戦う穂奈美を見つめる。

猫の瞳には、安眠を妨害された事への抗議の光と、わずかに睡魔に引っ張られている様が見て取れた。

「あれ、……猫?」

 形の良い太目の眉を寄せこめかみを揉む。指の間から猫を目にし、穂奈美は怪訝そうに呟いた。動物は嫌いではない。むしろ好きな方なのだが、アパート住まいという立場上飼った事はなかった。

「あちゃー、今度は猫を拾ってきたのか……。薬局の象やカエルに比べればマシなほうだけど、大家さんに見つかったらえらいことになるな」

 酔って記憶をなくすと様々なものを持ち帰るのが彼女の癖だった。小さいものでは飲み屋にある爪楊枝や醤油射しの蓋。大きいものではカーネル・サンダースを持ち帰ろうとした事があった。その時は固定されていたために持ち帰らずにすんだのだが、かわりにカーネル人形の前に座り込んで説教をしているところを友人に見られ、後日しらふの時にネタにされたりもしている。

ふと、脳裏にその時の事が浮かび、苦笑しようと頬を緩めるが、その瞬間に嘔吐感がこみ上げて彼女の動きを停止させた。

「気持ち悪い時は吐いたほうが楽になるぞ?」

 パジャマ代わりに彼女が着ている大き目のシャツから覗く白い胸元を、名残惜しそうに見つめつつ流暢な日本語で猫が喋った。

「うぷ……そうする」

 顔色を青から紫へ変え、自分が誰に返事をしたかもわからないほど切羽詰った状況になった穂奈美は、口元を押さえながらよろける様にベッドを抜けてトイレへと消えた。

彼女の背中を見送った猫は、トイレから聞こえる音をよそにベッドへと飛び上がると、さもこの位置に寝そべる事が当然であるかのように枕にもたれて横になり、悠々とグルーミングを始めた。

 

「あんた、さっき喋らなかった!?」

 気分は一時的に良くなったが、ズキズキと疼く頭のほうは一向に治まっていない。だが、この部屋に一人しか人間がいないというのに、先ほど誰かと会話を交わした自分に気がついた穂奈美は、顔を洗うのも途中に、洗面所から転げ出るように駆け戻った。

 化粧台に置いてあるメガネをひったくる様に取り、レンズ越しに猫を凝視する。

「なんだ、今更。昨日の夜さんざん話したじゃないか」

 猫はグルーミングを途中で止め、大股開きにも似ただらしない格好で、呆れたとでも言うように肩をすくめて見せた。

「え……!」

 絶句し硬直する穂奈美の顔を、拭き残した水滴が流れ、顎の先から雫となって落下しフローリングを濡らす。

悪い夢でも見ているのか。いや、もしかしたらまだ酔っていて幻覚を見ているのかもしれない。これからはお酒を控えたほうが……等と半ば現実逃避の思考を始めつつ、

「えーと……あー、ごめん。昨日のこと覚えてない。酔うと記憶とんじゃうみたいで……」

と、頬を染め、バツの悪そうな表情で俯き気味に耳の後ろをかく。

「……じゃなくて!なに普通に猫と喋ってんのよ、あたし!でも……この猫喋ってるし……あれ……え?」

 職業柄、現実主義者である穂奈美の心が、目の前で起きている出来事を現実と認めるかどうかでせめぎ合っている。

首を振り、混乱した思考を拭うように、手にしたタオルで顔を擦るが、メガネを外さずに拭いたせいで、鼻あてがずれて眼に刺さり悶絶した。

「もしかして俺との約束も覚えてないのか!?」

 喋る猫は飛び跳ねるように枕から起き上がると、ベッド端に二本の脚で立った。そして、メガネをはずして顔を抑えもがいている穂奈美に向って指を突き出すと、ベッドから転げ落ちんばかりに身をのり出して叫ぶ。

「約束したのを忘れたのか!自分に任せろと言っておきながら忘れるとはどういう了見だ!?いたいけな猫を騙したのか!」

 翡翠色の瞳を見開いて、身体全体、尻尾と耳の先までも動かしたジェスチャーで怒りと非難と落胆を穂奈美へとぶつける。その姿は、誕生日のプレゼントが、期待していた約束の品とは違うものを送られた子供に似ていた。

「わかった!わかったから!ごめん、悪かったわよ。私に出来ることなら約束守るから。昨日話したこと、もう一度聞かせて。ね?」

 穂奈美は、猫の勢いに押される形で慌てて取り繕いながら、目の痛みに、どうやらこれは現実であるらしいことを認識した。

「よし、じゃあそこに座れ。もう一度だけ話してやろう」

 これだから人間は……とでも言わんばかりに鼻を鳴らし、ベッドの上から穂奈美にフローリングを指差すと、自分は枕を引っ張ってきてその上に埋もれるように座り込む。

「……なんであんたがベッドで、あたしが床に座らなきゃいけないのよ」

 非現実的な光景と、話を覚えていない事による負い目から気圧され気味の穂奈美だったが、猫の態度に持ち前の負けん気を刺激されたのか、腕を胸の下で持ち上げるように組み口を尖らせた。

「客を上座に座らせるのは当然だろう?」

 猫は手をヒラヒラさせながら早くしろと言わんばかりに顎で促す。先ほどまでの駄々をこねる子供といった態度とはうってかわって、あきらかに自分のほうが穂奈美より目上として振舞っている。

「誰が客よ!確かにあんたがうちにいるのは、私が連れて来たからみたいだけど……。それに、なんで猫が喋るのよ!?」

「だから!それもまとめて話してやると言っているだろうが!本当なら猫用ミルクとカリカリの一つも出して欲しいところだぞ」

 穂奈美の台詞が終わらないうちに、それにかぶせる様に猫が叫ぶ。髭がピンと立ち虹彩が細くなる。

「わかったわよ……」

 穂奈美は言葉を詰まらせ短く唸ると、しぶしぶといった様子でその場に胡坐をかいて座り込む。ダブついたシャツの裾からのびる白い太腿が眩しく悩ましい。

 顔はけして美女とは言えない造詣だが、切れ長で大きな二重の眼と長いまつげ、ぽってりした唇が色気と愛らしさをかもし出している。

 肩甲骨の中ほどまで届く、ゆるくウェーブのかかった黒髪を手櫛で撫でながら、不満丸出しの表情を浮かべて猫を睨みつける。

 が、改めて猫を見ると、これがなかなか愛嬌のある顔をしていることに穂奈美は気がついた。

 全身に黒い縞の走る雉猫なのだが、人間なら眉のある辺りに丁度太目の縞が走っており、それが眉間を頂点にハの字を描くようになっているものだから、普通にしていても困った顔に見えるのだ。

 思わず小さく噴出す穂奈美。

「なんだ?急に」

 話しだそうとした矢先に笑われた猫は、両手を腰に当て鼻を鳴らす。笑われるのは嫌いなのだろう、あからさまに不快の表情を浮かべた。

「ごめん。面白い毛並みだと思って」

 口に手を当てながら、肩を小刻みに震わせて笑う。

「失礼なやつだ。お前こそ乳も尻も無駄にでかいくせに、人の毛並みのことは言うな」

 尻尾を勢いよく左右に振り不機嫌さを表す。

「だからごめんって。でも可愛いわよ。すごくね」

 まだ小刻みに身体を震わし、笑いを堪えながら話を促す。

 猫は口をヘの字に曲げつつも、咳払いをすると話し始めた。

「まぁいい。覚えてないという事だし、まずは自己紹介をしよう。俺の名前は時宗。境界からきた者だ。境界というのは、多層世界における世界と世界の狭間の事なのだが、そのような事を言ってもわからないだろう?わかりやすく例えるなら、あっちの部屋とこっちの部屋を隔てる壁の中と言う感じだ」

「またえらく古風な名前ね。で、……簡単に言うと、あなたはこの世界の生き物じゃないってこと?」

 腕を組み頷く時宗。

「なるほど。ま、人間の言葉を話す猫が普通にいるとも思えないしね」

 妥当なところだろうと穂奈美は思った。世界中の猫が時宗のように人語を解すのであれば、とっくに人間との関係は違うものとなっているだろうからだ。

ふむ、と、穂奈美は観察するために身を乗り出し、好奇心に溢れた目で時宗を見つめまわす。どう見ても普通の、その辺にいる猫と変わらない。あえて違うところをと言えば、口の動きが人語を話しやすいように、まるでコンピューターグラフィックスでいじってあるかのように動くくらいだろうか。

「こうして見ると……普通の猫と変わらないように見えるわね。……ね、触ってもいい?」

 穂奈美は手を伸ばしつつ時宗と視線を合わせる。一瞬、時宗に戸惑いの表情が浮かぶ。それはそうだろう、普通の人間であれば気味悪がる事はあっても、触らせてくれなどと言いはしない。時宗はそう認識していた。

「かまわん。だが、パニックにならないとは驚いたな。」

 呆れたような、感心したような表情を浮かべつつ、穂奈美の手を受け入れ目を細める。

「まぁね。亡くなったお婆ちゃんに、どんなに奇妙なことでも、自分の目で見て経験したものは信じなさいって、小さかった頃によく言われたの」

 時宗の顎の下を撫で腹をモフる。艶やかで少し硬めの毛が気持ち良い。時宗もまんざらではない様子で、姿勢を僅かにくずすと、穂奈美が触りやすいようにしてやった。

「でも、逆にお爺さんのほうは、自分で見たものも信じられないって言ってたわ。すんごい飲兵衛でさ、しらふの時の方が少ない人だったんだけどね」

 時宗の腹を撫でながら、幼い頃を見ようとでもするかのように窓の外に視線を走らせるが、すぐに時宗へもどし、苦笑しつつ手を離す。

「モノのわかった祖母だな」

「徹底した現実主義者だったから。でも私はお爺さんの血の方が濃いみたい。お酒好きだし、喋る猫と会話してるもん」

 苦笑をニマっとばかりに笑みに変え、時宗に向けてウィンクしてみせる。

 時宗は笑うと、ひょいと枕から降りてベッドへ立ち穂奈美近くまで歩み寄る。

「それでな、穂奈美には俺を助けて欲しいのだ」

「助けって……うちアパートだから猫は飼えないわよ」

「違う!」

 尻尾を立て、牙をむき出して吠える時宗。

「なぜ俺が人間に飼われねばならんのだ!仕事だ仕事!俺の仕事を手助けして欲しいんだ!」

「仕事?何をすればいいの?」

 息を荒げ目を剥いている時宗を、穂奈美はキョトンとした顔で見つめる。猫の仕事、いや、猫ではないが、その仕事など想像がつかない。

いや、本当はネズミ捕りなどの当たり前すぎる事を思い浮かべたのだが、まさかそんな事を自分に頼むわけではないだろうと打ち消したのだ。それに、ネズミは好きではないが、率先して命を奪いたいとも思わなかった。

「俺達は、境界を越えて行き来するハグレ者を狩り、もとの世界へ連れ帰るのが仕事なのだ。だが、俺達は境界の外ではたいした力は出せない。だから、その世界の者に手助けしてもらわないとハグレ者を狩れないのだ」

「ずいぶん大変そうな仕事ね。で、その連れ戻す相手ってどんな奴なの?」

 非日常的なことに興味をそそられ、穂奈美はやぶさかではないといった面持ちで、目を輝かせながら身を乗り出した。

「虫だ。そうだな、穂奈美の小指くらいの大きさだ」

「それくらいなら時宗でも潰せそうじゃない?あたしの力なんか必要なさそうだけど……」

「それがな、その虫は他の者に寄生するのだ。そして、寄生された宿主は、自分の潜在的な欲求を満たすべく行動する」

「なんでそんなことを?」

 知らん。時宗は首を振って言い捨てる。

「それに興味も無い。おそらく虫が入ることによって、何かしらの刺激のようなものが脳にあたえられるのだろう」

「なんだか気持ち悪いな……」

 穂奈美は両手で自分の身体を抱きかかえるようにして身震いする。

「それで、私はどうやって時宗の手伝いをすればいいの?」

「虫に憑かれた者は、普段使っている限界以上の力に加えて、特殊な能力が使えるようになる。その能力は様々で、憑かれてみないとわからないのが正確なところだが、大まかに分けると、攻撃と防御の二種類に加えて、役に立たない能力の合計三種類のどれかが備わる」

「役に立たないって……ようは外れってことかしら?」

 メガネを指先で持ち上げながら苦笑し、膝を両手で抱えて座り直す。

「そんなところだ。だが、寄生された段階で、その宿主は肉体的な潜在能力を引き出す事ができるようになる。特殊能力はプラスアルファといったところか」

 時宗は一呼吸置き、穂奈美が会話についてきている事を確認すると言葉を続けた。

「そこで、こちら側の人間に協力してもらう必要があるわけだ。俺達は知性も知能も有り余るほどあるが、身体が小さく力が無いからな。協力者に宿主を行動不能の状態にしてもらい、そこを俺達が虫を抽出して確保する」

 時宗はベッドの上を二本足で器用に歩きながら説明を続ける。穂奈美はその様子を見ながら、ふとハリウッド映画のワンシーンを思い出した。軍隊モノなどで、出撃前のブリーフィングシーンがこんな感じだったか等と思いながら、目の前の小さな上官に質問をぶつけた。

「話はわかったけど、そんな変な力を使える奴を相手にして、あたしじゃどうしようもないわよ。それこそ警察でも呼ばないと手に負えないんじゃない?」

 興味はあるが、なんの対策もないままそんな変な奴を相手にするのはごめんだと女教師の表情が物語っている。

「大丈夫だ。俺達には力はないが、協力者にそれを与えることができる。それはな……」

 時宗はもったいぶった言い回しで間をつくると、人差し指を立て、ゆっくり左右に振りつつ言った。

「魔法少女へ変身するための魔器だ」

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