第2章 魔女の集会③

 雪解け直後の霧降山のすそ野は新緑に染まっていた。季節の変わり目を表す色彩に彩られた山嶺を右目に、私とエルザを乗せた馬は早駆けで草を蹴っていた。黒いマントに覆われたエルザの腕に掴まれながら、私は命の恩人であるこの女性について想像を巡らせていた。出発前にエルザの言ったことが事実ならば、私は文字通り「魔女」の腕の中に捕らわれていることになる。


「魔女の集会?」

 私はエルザの口から出た耳慣れない単語を繰り返した。

「そうだ。開催日まで時間がない。すぐにでも出発するぞ。」

 言うが早いか、エルザはあわただしく旅支度に取り掛かりだした。

 私はエルザの言う「魔女の集会」なるものの内容も知らされないまま、忙しく動き出した彼女を眺めているだけだった。

 エルザは水と食料、着替えと毛布を簡単にまとめると、古びた革製の肩掛け鞄に押し込んだ。準備の手際のよさを見ると旅慣れているようだった。一通り準備を終えたエルザは私の方に向き直ると、私の足先から頭頂まで観察するように眺めた。

「春先の気候だから、お前の服装はそれで十分だろう。私は旅装に着替えるから、先に外に出て厩舎から馬を出しておいてくれ。鞍と手綱は厩舎横の納屋に置いてある。」 

 私は頷くと玄関の方を向いた。だが、唐突に告げられた旅への出発の前に、やはり疑問を明らかにしておきたかった。

「あの…魔女の集会ってなんですか?何をするための寄合ですか?」

「文字通りの意味、魔女達が集まる集会だ。何を話し合うかは主催者が決めることだ。」 

 エルザは洋服箪笥を開けながら、私の行動を催促するようにひらひらと手を振った。

「時間がないと言ったはずだ。馬の支度をしておいてくれ。」

 私の動きも確認しないまま、エルザは胸ボタンをはずしだした。

 私はあわてて玄関から外に出ると、厩舎の方に向かって歩き出した。言われた通り、納屋から鞍と手綱を取り出し、厩舎の柵を開けた。厩舎の住人は、ゆったりとした足取りで出てくると、静かに首を垂れた。私は手綱を装着し、次に鞍を馬の背中に乗せようと力を込めた。日頃から父のやり方を見て鞍の乗せ方を知ってはいたが、幼い力では押し上げることができず、私は鞍を頭上に担いだまま、後ろ向きに転倒しそうになった。慌てて体制を立て直そうとしたところで、誰かが背後から支えてくれた。

「無理をするな。できないと思ったことはやらなくていい。」

 背後からの声に振り返った私は、鞍を頭上に掲げたまま固まった。エルザは片手で軽々と鞍を持ち上げると馬の背に乗せ、荷物を括り付けた。私はその場に立ち尽くしながら、改めて彼女の全身を眺めた。

 つばの広い三角形のとんがり帽子。滑らかな光沢を放つ黒いマントに、つま先の長いブーツ。そして、右手に握られた、長い杖。彼女の姿はまさしく、古い絵本の挿絵に登場する存在そのものだった。

「エルザさん…あなたは…」

 その先は声がかすれて言葉にならなかった。

 エルザは愛馬を引きながら、肩越しに青い瞳をこちらに向けた。

「何を呆けている。行くぞ。」


 周囲の景色は丘陵地から、次第に湿地帯へと変化してきた。エルザは街道の近くを流れる小川の側で馬を停めた。

「ここらで一息いれるとしよう。」

 エルザはそう言って馬から降りると、私と荷物を地面に下ろした。エルザの愛馬アンナは荷から放たれると、小川に近づき、水面にそっと口をつけた。

 雪解けの時期の川の水は底まで透き通っており、手がしびれるほど冷たかった。私はすくった水で喉を潤すと、エルザが差し出した布の包みを受け取った。中には子供の掌ほどの大きさの丸い焼き菓子が二枚と、干し肉が一切れ包まれていた。

 エルザは道端の倒木に腰を下ろすと、簡単に食事前のお祈りを済ませ、焼き菓子をかじりだした。道端での食事でも、エルザの座り姿勢は綺麗だった。

 私も彼女に習って手を合わせて祈ると、焼き菓子から手を付けた。思ったほど甘くはなく、しっとりとした食感だった。生地の中には炒った木の実や穀類が練りこまれており、一枚だけでも十分食べ応えがあった。

「立ったままの食事とは行儀が悪いぞ。こちらに来て座りなさい。」

 エルザはそう言うと、自分が座っている倒木を叩いた。

 私は素直にその言葉に従い、彼女の隣に腰を下ろした。焼き菓子も干し肉も味は悪くなかったが、この時の私には食事を楽しむ余裕はなかった。私はうつむいたまま、ひたすら昼食を咀嚼することに専念した。

「…私が怖いか。」

 エルザがぽつりとつぶやいた。

 私は食事の手を止めて、横に座る黒衣の女性を見上げた。彼女の表情からはこれといった感情は読み取れなかったが、青い目が、私の回答を促すように瞬きした。

 素直に心情を口にすべきか迷ったが、結局、自分の気持ちを言葉にすることができなかった。エルザへの恐れは確かにあった。だが、その気持ちを言葉にすれば、彼女を傷つけるのではないかという予感もあった。

 エルザは視線を遠くにやると、独り言のようにつぶやいた。

「無理もない。古くから物語に語られる私たちは、恐れられ、忌み嫌われる存在だからな。お前が私に抱く恐怖心は至極まっとうなものだ。」

 彼女の言葉は諦観に満ちながらも、わずかに寂しさを感じさせるものがあった。

「エルザさん…あなたは、本当に『魔女』なのですか。」

 古くからの物語に曰く、魔女とは魔法と呼ばれる神秘の力を使い、人を惑わし、子供をさらい、怪しい儀式を執り行う悪魔のような存在として語られていた。就寝前に母から読み聞かせられた絵本の中にも、魔女にまつわる物語がいくつかあった。中には、恵まれない生まれの主人公を導く善人として描かれる魔女もいたが、多くの物語では魔女は悪役として登場することが多かった。とある国の姫君の美貌に嫉妬して悪事を働く魔女。一国の王を惑わし、国を乗っ取ろうと暗躍する魔女。子供をさらい、儀式への供物とする魔女。中には子供を食材として料理しようとする魔女もいた。いずれの絵本でも、挿絵に描かれる魔女とは、つばの広い三角形の帽子を被り、黒衣のローブやマントを身に纏い、手には魔法を行使するための杖を持っていた。誰もが魔女というものに抱く想像は悪いものであり、夜になかなか寝付かない私に対して、母はよく「寝ない子は悪い魔女にさらわれちゃうよ」などと脅したものだった。

 子供とはいえ、魔女が実在すると単純に信じていたわけではないが、それでも、昔話に登場する存在には、元になった事実があるという認識はあった。もし目の前にいる女性が本物の魔女だとしたら、これから連れていかれる「魔女の集会」なるものにおいて、私の命運はどうなるのか。私の脳裏に浮かぶのは、恐怖に染まった想像ばかりだった。

 エルザは遠くに視線を投げたまま、何気ない口調で答えた。

「そうだ。私は、人々が魔女と呼ぶ存在に他ならない。」

「だったら…貴女は…僕を…」

 その先は唇が震えて言葉にならなかった。

 エルザはため息をつくと、食べかけの昼食を見下ろした。

「心配するな。お前をとって食おうなどとは考えていない。ましてや、お前を贄として儀式を執り行おうとも思っていない。そもそも、人々が語り継いできた魔女への風評は、大半が間違いや誤解ばかりだ。」

「…本当に?」

 エルザは干し肉にかじりつきながら頷いた。

「魔女の食事は普通の人間と同じだ。暮らし方そのものも、人間のものとたいして変わらない。」

 それを聞いて、私はエルザの自宅を思い出した。本棚ばかりの風変わりなあの部屋をのぞけば、あの家には特段変わったものはなかった。

 私は少しばかり安心すると、今度は単純な好奇心から質問してみた。

「じゃあ、魔法は?エルザさんも魔法が使えるのでしょう?」

「ああ、使えるとも。」

「だったら…見せてください。魔法を見てみたいです。」

 エルザは私に視線を戻した。今思い返しても、この時のエルザは怒っていたのだと思う。眉間にしわを寄せ、口元を引き結び、私をにらみつけていた。私が悪事を働いたときに、母も同じ表情をしていた。

「坊や。軽々しく魔法を見たいなどと口にするんじゃない。あれはお前が想像するほど、容易に扱って良いものではない。」

 エルザの口調はいつもと同じ単調なものだったが、明らかに怒気を含んでいた。

「でも…」

「ダメなものはダメだ。それより、さっさと食事を摂ってしまえ。今日中に鶯谷手前の見張り台跡に着かなければ、野営できるところはないのだからな。」

 エルザは昼食の布を丸めて片付けると立ち上がった。

「その焼き菓子は私の自信作だ。食べ残しは許さん。」

 そう言い残すと、彼女は馬の方に荷物を運んでいった。その後ろ姿は自分が絵本で見てきた魔女そのものだった。いまだに彼女の言葉のすべてを信じたわけではないが、少なくとも、この時の私はエルザという女性に好感を持ち始めていたのは確かだった。私は残った焼き菓子と干し肉を大急ぎで頬張った。


 野営場所に到着するまでの間、馬上で揺られながら、私は魔女についてエルザにいくつか質問した。聞いたことについて大体は答えてくれたと記憶しているが、この時点では、エルザ個人のことについてはあまり聞かされなかった。

 エルザ曰く、魔女とは、「神様に力を分け与えられた人達」ということだった。彼女たちはこの世の創成期から存在し、時代に応じてその振る舞いを変えてきたという。時に人間と協力して国を栄えさせ、時に人間に迫害され隠れ潜み、そして、時代と共に忘れ去られてきた。

「迫害の時代を超えた魔女たちは皆、人目を避け、できるだけ人間と関わらないようにして生きている。この時代に私たちの存在を認知している人間はほぼいないだろう。」

 エルザの腕の中で、私は魔女についての説明を聞いていた。

「だが、私たちもこの世界で生きていくうえで、世の中の出来事に無関係ではいられない。それぞれの魔女には役割があり、この世界においてそれぞれに与えられた仕事をこなしている。」

 私たちを乗せた馬は湿地帯を越え、川沿いに南下していた。すでに霧降山は後方に小さくなり、前方には背の低い山岳地帯が広がり始めていた。太陽は西の方に大きく傾き始め、街道沿いの草地に伸びる私たちの影が長くなっていった。

「魔女の集会とは、ある意味、私たちの成果報告の場だ。私たちは互いに自分たちが行った仕事を報告し、意見を交換している。時に、議論を必要とする議題があるときは、集会を主催する長が会議を取り持つようになっている。」

「おさ、っていうのは?」

「私たちの中で一番偉い魔女のことだ。」

 そこまで説明すると、エルザは前方に目を凝らした。

「正面の二つの山に挟まれた谷の入り口に遺跡が見えるか。今夜の宿はあそこだ。」

 エルザが指さす方角に目をやると、山岳地帯を背に、石壁の砦が居座っていた。近づいていくほどに、壁はくずれ、苔むしているのがわかった。使われなくなってから、かなり時間がたっているようだった。

 私たちは砦の正門前で馬を降りた。エルザは勝手知ったる様子でアンナを引きながら門をくぐった。黄昏時に沈む砦はすでに薄暗く、不気味な景色を作り出していた。私は足早にエルザの近くに寄ると、彼女のマントのすそをつかんだ。

 砦内の家屋は多くが朽ち果て、屋根もなくなっていた。エルザは見張り塔の下にある手ごろな柵に馬をつなぐと、少し離れた位置にある家屋跡に荷物を置いた。

「ここは兵の屯所だったところだ。屋根はないが、四方は壁で遮られているし、風はしのげる。今夜はここで休むとしよう。」

 そう言うと、周囲に散らばった木枝や、木製家具の残骸を集め始めた。私はエルザの近くから離れないようにしながら、薪集めを手伝った。

 エルザは集めた薪を古い囲炉裏跡に投げ込むと、火打ち石と黒硝草を取り出して、火種を作った。小さな火種は薪の中で大きくなり、屯所跡の中を明るく照らした。

「魔法、使わないんですか。」

 火おこしを終えたエルザに私は尋ねた。

「ああ、これくらい魔法など使わなくてもできるからな。」

 そういいながら、エルザは夕食の準備にとりかかった。旅先で使用するための小型の鍋を取り出すと、水を入れて火にかけた。水が沸騰してきたところで、油紙に包んでいた乾燥野菜と、今朝の朝食にも出していた鶏肉の燻製を鍋に入れしばらく煮込んだ。最後に、調味瓶から、茶色の粉末を鍋の中に振りかけた。料理匙で軽く味見をすると、エルザは満足そうに頷いた。

「その粉はなんですか。」

 エルザは私の鼻先に瓶を近づけてきた。食欲をそそる、香辛料の香りがした。

「これは乾燥させた牛骨の粉末に、塩や香草を混ぜたものだ。スープや煮込み料理の味付けに重宝している。」

 私はエルザからスープの入った器と、黒麦パンを受け取った。スープは牛骨と、鳥の燻製から出た出汁が効いており、移動による疲れを忘れさせてくれた。

 食事を終えた私たちは、毛布にくるまりながら、囲炉裏の中の炎を眺めていた。周囲は夜の闇に沈み、薪がはぜる音だけが砦の廃墟に微かに響いていた。夜空を見上げると、砂をちりばめたかのような星空が頭上を覆っていた。

「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。」

 エルザの言葉に、自分が彼女と出会ってから、まだ一度も名乗っていないことを思い出した。

「ラルフです。ラルフ・ラングレン。」

「そうか、年はいくつだ。」

「四歳です。」

 それだけ聞くと、エルザはじっと私を見つめた。彼女の瞳の中で、薪の炎が揺らめいていた。

「すまなかった。」

「え?」

 唐突な謝罪な言葉に、私は何に対して謝られたのか分からなかった。

 エルザは炎に視線を落とすと、毛布の端を胸にかき寄せた。

「お前の両親のことだ。もう少し早く私があの村に到着していれば、救えたかもしれなかったのだがな。」

 私は何も言うことができなかった。エルザは見ず知らずの私の両親の死に責任を感じているようだった。私は、出発前に彼女に聞きそびれたことを質問することにした。

「エルザさんは、どうしてあの『渡り烏』を追っているんですか。」

「それが私に与えられた仕事だからだ。」

 そう言うと、エルザは炎の中に木の枝をくべた。

「五年前に王都の東にある村が焼かれたとき、最初に焼け跡を訪れた魔女は私だった。その時にも何人か生存者を助け出したが、ほどなくして皆死んだよ。自分たちの村を襲った、死神のことを言い残してな。」

 パチパチと薪の音がはぜた。

「たった一人で村を消すなど、常人の技ではない。魔女集会の長は緊急を要する事態だと判断し、私に犯人の調査と捜索を命じた。それ以来、私は国中を旅して情報を集めた。だが、結果としては二つ目の村が襲われるまで、やつにつながる情報は何一つ得られなかった。」

「二つ目の村が焼かれたと聞いて、私は現場に急行した。私が到着した時にはすでに周辺の村の自警団が調査しているところだった。その中で、自警団の一員が妙なものを見つけたと騒いでいた。」

 エルザは私に視線を戻すと目を細めた。

「黒い槍だ。」

 それを聞いた瞬間、私の心臓が跳ねた。父の胸を貫いた槍。母の背中を刺した槍。村人を引き裂き、串刺しにしていった槍。

「私はすぐさまその槍を回収しようとした。だが、血に染まった黒い槍は、私が触れると砂が崩れるように溶けて消えてしまった。その時、私は自分が追っている者の正体について手掛かりを得た。わずかではあったが、その槍には魔法が使われた痕跡があった。」

 エルザが言わんとしていることが分かった。

「渡り烏、やつの正体は…」

 その時だった。砦から見て谷の方角から、高く、長い遠吠えが聞こえた。

「山犬か…近いな。」

 獣の声が聞こえた方角をにらみながらエルザがつぶやいた。

 一つ目の咆哮が聞こえて間もなく、今度は少し離れた別の方角からまた獣の声が上がった。

「どうやら、この辺りはやつらの縄張りらしいな。」

 エルザは杖を手に立ち上がった。

「私は馬の様子を見てくる。炎の側を離れるな。」

 そう言い残すと、彼女は廃墟の闇の中に消えていった。

 一人残された私は、毛布にくるまりながら、しきりにあたりを見回した。屯所跡の壁に焚き火の陰が踊り、炎の届かない暗闇の奥から獣の息遣いが聞こえてくるような気がした。

 しばらくたってもエルザは戻ってこなかった。薪をくべようと、木枝に手を伸ばした時、私は暗闇の中に光る小さな点を見つけた。目が合ったと感じた時には私の体は恐怖で凍り付いていた。影の中からぬるりと姿を現した山犬は低いうなり声をあげながら、ゆっくりと私に近づいてきた。以前にも山犬を見たことはあった。山に餌がなかったのか、村に迷い込んだ一頭の山犬は、村の羊たちを襲っていた。半日かけて村の大人たちは死に物狂いで犯人の獣を追い立てた。死骸で見た時にも、その体は大の大人よりも大きく、村で飼っている牧羊犬とはまったく別の生き物だと感じた。

 最初の恐怖を乗り越えた私は、立ち上がると火のついた薪を手に取り、山犬に向けた。山犬は炎を向けられたことで、ますます敵意をむき出しにするようにうなり声をあげた。目の前の獣は完全に私を狩りの対象とみなしたようだった。

 私は大声でエルザの名を呼んだ。返事はなかった。私は唯一の武器を両手に持ち、相手をけん制することに必死だった。私たちは焚き火の周りをぐるぐると回りながら、お互いの距離を測りあっていた。山犬は炎を警戒しながらもじりじりと私との距離を縮めてきた。そうしているうちに、別の方向からうなり声が重なってきた。気が付くと、さらに二頭の山犬が廃墟の暗闇から滑り出てきた。私は焚き火を挟んで、三頭の山犬と対峙することになった。山犬達は私を囲い込むように回り込んできた。私は背後を取られまいと、盾にしていた焚き火を離れ、壁際に追い詰められる形になった。

 私はエルザの名前を叫びながら、無我夢中で炎を振り回した。やがて先頭の一頭が身を低くした。相手が飛び掛かってくると予見した私だったが、どうすることもできないまま、壁に背を強く押し当てた。

 跳躍しようとしたまさにその時、何事かを感じたのか、山犬たちは突然注意を背後の闇に向けた。廃墟の影には一つの灯りが浮かび上がっていた。ブーツの音を響かせながら、黒衣の魔女はゆっくりとした動作で私たちの前に姿を現した。彼女は右手の掌の上に、一つの焔を捧げ持っていた。エルザの手の上で踊る炎を眺めて私は呆気にとられていたが、それ以上に、山犬たちはエルザをひどく警戒しているようだった。

 「疾く去ね、山の住民達よ。お前たちにその子を殺させはしない。」

 エルザの右手の焔が大きく燃え上がった。エルザは鋭く右腕を振りぬき、手の中の炎を文字通りまき散らした。魔女の手から解き放たれた炎の飛沫、いや、火球ともいえる熱の塊は、緩やかな放物線を描いて山犬たちの周囲に降り注いだ。屯所跡の中は真昼のように照らされ、燃え上がった炎の熱に私の肌までジリジリと焼けるようだった。

 先ほどまで恐ろしいうなり声をあげていた山犬たちは、炎に巻かれた瞬間に弱々しい鳴き声をあげ、踊り狂ったような動きで走り去っていった。

「けがはないか?」

 緊張から解放され、座り込んだ私をのぞき込みながらエルザが訊ねてきた。私は震えながら、かすかに首を縦に動かした。

「アンナの周りから山犬たちを追い払うのに手間取ってしまってな、戻りが遅くなってすまな…」

 エルザが言い終える前に、私は立ち上がると、彼女の腹部に顔を押し当てた。彼女の衣服のはじをにぎる私の手は震え、固く閉じた瞼の隙間からは涙が溢れだした。エルザは言葉を切ったきり、何も言わなかった。私はエルザの体に無遠慮にしがみついたまま、しばらく感情にまかせて泣き続けていた。


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