第2章 魔女の集会①
翌朝、私は鶏の鳴き声で目覚めた。
見知らぬ天井、見知らぬ部屋も相変わらずであり、昨日までの体験が夢の中の出来事でなかったのは確かだった。
私は全身の鈍痛に耐えながらもベッドの上で身を起こした。ダボついた袖で目をこすりながら周囲を見回すと、柔らかな陽光が部屋の中を満たしていた。枕元の椅子の上には、洗濯され、丁寧にたたまれた私の服が置かれていた。私は寝間着代わりに着せられていた女性用の寝具を脱ぐと、全身に巻かれた包帯に動きづらさを感じながら、すぐに自分の服に着替えた。そして、次の行動に考えを巡らせるために、ベッドの上に座り込んだ。
自分の身に起きたことはすでに理解していた。その上で、これからのことを考えるために子供ながらに頭を働かせる努力をした。だが、子供の思考とは時に単純なものだった。理性よりも先に空腹を感じ、私の脳内にはいつもの朝食の景色がよみがえっていた。
昨日のように、エルザが部屋に入ってくるかと思ったが、その気配はなかった。声をあげて呼ぼうかと思ったが、静けさに沈むこの家屋の中で大声を出すのは憚られた。
少し悩んだ末、私は部屋から出ることに決めた。この部屋唯一の出口にはカギはかかっておらず、私は物音を立てないよう慎重に扉を開けた。
扉の外は、自分が寝ていた部屋よりも一回り大きな部屋だった。部屋の中央には食卓と思われる大きめのテーブルが置かれ、背もたれ付きの椅子が一脚だけ置かれていた。壁際には火の消えた暖炉が配置されていた。カーテンが開かれた窓からは朝陽が差し込み、テーブルの上に陽だまりを作っていた。
玄関と思しき扉を除いて、自分が寝ていた部屋への扉のほかに、二つ扉があった。一見すると普通の家庭の茶の間と変わらないように見えたが、大きく異なる点があった。それは、洋服棚や、ソファ、化粧机といった基本的な家具が置かれている以外、壁のほとんどを本棚が埋めているということだった。天井まで届くほどの本棚の中は、分厚く大きな辞典のようなものから、文庫本程度の大きさの小型のものまで、書物で隙間なく埋められていた。
私はこの風変わりな茶の間を見回しながら、この家の主について思いを巡らせた。この家に私を連れ込んで介抱したのは、エルザという女性だった。食卓に椅子が一脚しかないということは、この家には彼女しか住んでいないということだろうか。
私は手持ち無沙汰に食卓の周りをゆっくりと一周した。たまに聞こえる鶏の鳴き声や、小鳥の囀り以外には物音一つ聞こえなかった。私は寝室と思われる二つの扉のうち、青く塗られた方の前に立った。扉には大人の目線ほどの高さの位置に、金色の文字で何かしらの一文が書かれていた。私はその扉を二回叩いた。返事はなかった。私はもう一つの扉のほうを叩くよりも、その青く装飾された扉を開くことを選んだ。その時の気持ちは単純な好奇心からだった。青く、金文字で装飾されたその扉は、子供の目にとって、地味な茶の間の中で唯一輝いて見えたからだ。扉には鍵はかかっていなかった。私は慎重に部屋の中を覗き見た。部屋の中は薄暗く、壁にいくつか開けられた小さな窓からの日光が唯一の光源だった。
私は部屋の中に足を踏み入れた。眼が慣れないうちはひどく狭い部屋だと感じたが実際には違った。壁だと思ったものは本棚であり、右にも、左にも、部屋の壁際まで本棚が並んでいた。中には茶の間に置いてあるものと同様に、大小様々な本が隙間なく整列していた。私は本の森に囲まれながら、部屋の中を探索した。所狭しと並べられた本棚のせいで迷路に踏み込んだような錯覚に陥るが、部屋の大きさとしては茶の間の二倍ほどだった。おそらく元は倉庫として作られたものらしく、部屋の壁は石積みの武骨なものだった。
ふと、部屋の角に、唯一机が置かれている場所を見つけた。机が寄せられている壁には、小さなはめ込み窓があった。机の上には書きかけの文章のようなものが書かれた紙と羽ペン、インクのほかに、二股に分かれた金属棒の先に針がついたものや、半円状の金属板にたくさんの線や数字が刻まれたものなど、今まで見たことのない道具が置かれていた。机を囲む壁には点と線で構成された様々な模様や、記号らしきものが描かれた紙が貼られていた。
だが、何よりも私が目を奪われたのは、ガラス細工で作られた球状の置物だった。ガラス球は中心を貫く細い金属棒で、弧を描く台座に固定されていた。どのように加工したのか、ガラス球は二重構造になっており、内側の球には美しい青ガラスが使われていた。外側を構成する透明なガラスの表面には、壁に貼られた紙と同様に点と線で描かれた模様が刻まれていた。また、台座からはもう一つ枝分かれした腕が伸びており、その先端には緑色のガラスで作られた小型の球体が固定されていた。私はその美しい置物を眺めながら、我知らず手を伸ばしていた。大きい球体の表面に触れると、固定している金属棒を中心に、ガラス球が回転した。それに合わせて、枝分かれした腕も球体の動きに追従するように回転した。よく見ると、小型の緑色球体も連動して回転していた。窓からの陽光を受けながら、ガラス球の表面に描かれた模様が美しく輝いた。私は新しいおもちゃを見つけた気分で、その置物にすっかり心を奪われていた。
しばらく、そのガラス球を回転させて遊んでいたが、ふと、窓の外から、空気を切るような、鋭く、低い音が聞こえることに気が付いた。窓は開閉できず、ガラスはくすんで外の景色はぼやけていた。だが何かが動いており、その動きにあわせて空気の切り裂き音が聞こえた。
私は「本の森」から茶の間に戻ると、玄関から外に出た。春先の心地よい風が頬をなで、柔らかな陽光に私はわずかに目を細めた。目の前に広がる景色は、なだらかな丘陵地だった。背の低い草木が生えた緑色の景色は、故郷の村の周辺によく似ていた。見える範囲に家はなく、どこかの村というわけでもないようだった。振り返ると、自分が連れてこられた家屋の外観が分かった。石積みと漆喰の粗末な壁に、木張り屋根の一軒家だった。大きさとしては四人家族で住んでも大きいと感じるほどだが、見た目は完全にぼろ屋だった。周囲を見渡しても、家を囲む粗末な木組みの塀以外になにもなかった。私は家屋の外周を左周りに家の裏側に向かった。ほどなくして、四羽の鶏を囲んだ檻(これも木組みの簡素なものだった)と、一頭の馬を収めた厩舎を発見した。農夫の家庭に生まれた私からすれば、どこの家庭にもあるありふれた景色だった。私は厩舎の中の馬に近づいた。厩舎の住人は私が近づくと、鼻面を近づけてきた。私は背伸びをしながら、彼女の顔を優しくなでた(雌馬だった)。濃い茶色の毛並みは丁寧にブラシがかけられ、朝日の中で輝いていた。その間も空気を切る低い音は断続的に聞こえていた。家の裏側に近づくほどにその音は大きくなり、私は石壁の角から、音をたてないようにそっと裏庭の景色を覗き見た。
音の正体を見たとき、私は思わず息をのんだ。最初は、彼女が踊っているのだと思った。朝日の中で長い銀髪がひらめき、すらりと伸びた肢体が描く円弧は滑らかで柔らかいものだった。だが、もっとも目を奪われたのは、彼女の手に握られた白銀の刃だった。エルザが剣を一閃する度に先ほどから聞こえていた風切り音が響いた。直接目の当たりにすると、耳で触れる音だけではなく、肌で空気の震えを感じた。エルザが披露しているものはまさしく剣舞だった。虚空の相手に向けて振るわれる剣は力強くしなやかで、その動きは彼女の体の動作に完璧に連動していた。昨年の暮れに父にせがんで王都の催し物に連れて行ってもらった時にも、剣舞を見たことがあった。煌びやかな銀色の鎧に身をかため、白刃を閃かせる騎士たちの演舞に、幼い私はひどく興奮したものだった。しかし、エルザが披露する舞は、王都の騎士たちのものよりも洗練され、ともすれば美しいとさえ感じた。
私は家の陰から身じろぎ一つせず、ただエルザの動きを目で追っていた。最初に受けた衝撃の次に、心に浮かんだ気持ちはあこがれだった。自分もあのように素早く動けたら、あのように滑らかな線を描けたら、と。少年にとって、強さと美しさを両立させている象徴こそもっともあこがれるものであり、そのときのエルザは私にとって魅力的な存在だった。
やがて、大きく横一文字に一閃した動きで、エルザはピタリと剣を止めた。そのまま空気の流れまでもが止まったかのような時間が訪れた。のちに知る、”残滓”と呼ばれるその一瞬は、私にとってひどく長い時間に感じられた。ゆっくりとした速度でエルザは剣を腰に収める動作をとると、だれもいない空間に向けて一礼をした。彼女の背筋はまっすぐにのび、見ている私の姿勢も正される思いがした。
エルザが顔をあげ、青い瞳がこちらを向いた。私は緊張のあまり体が固まってしまった。私が家の陰から覗いていたことに気づくと、彼女は体ごとこちらに向き直った。エルザは地面に置いていた鞘に剣を収め、長い銀髪をまとめて青いひもで縛った。昨日のエルザは、町娘が着ているような地味な風合いのドレスを着用していたが、今朝は動きやすそうな膝丈のズボンとシャツにベストを着けていた。袖は肘まで捲りあげ、まるで男性のような出で立ちだった。
「驚かせたか。」
「え?」
ふいの質問に私はとっさに答えられなかった。
エルザはわずかに剣を持ち上げてみせた。
「私の日課でな。だが誰かを傷つけるためのものじゃない。あくまで、肉体の鍛錬として行っているだけだ。」
そういうと、エルザは私のすぐそばまで歩み寄り、しゃがんでみせた。彼女の長いまつげがはっきり見えるほどの距離から、エルザは私の顔をのぞき込んできた。
「怖がらなくていい」
どうやら、彼女は私が怯えていると思ったらしい。
私は大きく首を横に振ると、胸の興奮を抑えながら、精いっぱいの賛辞を送ろうとした。
「いいえ、その…とても、かっこよかった…です。」
最後のほうは消え入りそうなほど小さな声だった。
それを聞いたエルザは少し驚いたように眉根を上げて瞬きした。長いまつげが蝶のように羽ばたいた。
「そうか」
それだけ言うと、エルザは立ち上がって玄関のほうに向かって歩いていった。彼女の歩き姿は姿勢がよく、きびきびとした動きだった。
私はあわてて彼女の後を追った。自分の心臓の鼓動が痛いほど強く響いていた。
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