夢の中の真実

シュート

第1話 妹の部屋

 街の喧騒を抜け、住宅街に入る。木々の合間からは、わきあがるように蝉の声が響いている。乾いた風が肌の熱を幾分冷ます。まっすぐ延びる道を進むと、細い川が見える。音もなく川は静かに流れている。ふと顔を上げると、雲は刷毛で塗ったように高い空を淡くぼかしていた。小さな橋を渡り、道なりに歩いて行くと、実家が見えてきた。築20年以上経つけれど、父が折に触れ手を入れてきたせいか端正な表情を保ったままだ。

 大山亜香里は、そんな実家を見ただけで安心感と喜びと哀しさが混じった複雑な思いに駆られた。

 亜香里が実家に戻って来たのはおよそ一年ぶりになる。母親のケアのため大学を半年ほど休学していたことが思い出される。

 玄関のチャイムを鳴らすと母の声が聞こえる。

「はい」

「亜香里」

「ちょっと待ってね」

 ドアが開き、母が姿を現した。その顔には薄い笑いがあり、亜香里は少し安心する。母に生気が戻ったことを実感できたからだ。リビングに入り、荷物をソファーに置き横に座る。母が冷たいウーロン茶を出してくれた。

「亜香里のほうは変わりない?」

 こちらを向いて静かに言う母の表情を見て涙が零れそうになる。

「うん。変わりないよ」

「そう。良かった」

「お母さんとお父さんも少しは落ち着いた?」

「なんとかね。前を向いて歩かないと亜香里に怒られちゃうしね…。だから頑張ってるわ」  

 自分に言い聞かせるように、言葉に力を込めている。そんな母を見ると、人間は流れるように生きるのが正しいのかもしれないなどと思う。いつも答えを知っているのは時間だけだ。

「そうよ。私にはお母さんとお父さんがまだまだ必要なんだから」

「そうよね。とにかく、ゆっくりしていってね」

「ありがとう。じゃあ、部屋に上がるね」 

 二階にある自分の部屋に入る。隣には妹の佳奈美の部屋があるが、どうしてもあの日のことを思い出してしまい胸のあたりが重くなる。妹の部屋には一切手を触れてないと母が言っていたのを思い出す。今回亜香里が戻って来た理由のひとつが、妹に貸したCDを見つけ出して東京に持って帰ることだった。   

 しばらく自分の部屋で過ごした後、覚悟を決めて妹の部屋に入ることにする。何せ妹の部屋に入るのは初めてのことだった。一時は鍵がかけられていたが、今は外されている。

 そっとドアを開けると、そこは不思議な空間だった。若い女の子の部屋と思わせるものは、わずかに残った化粧品と洋服以外ほとんどなかったからだ。身体のどこか奥のほうで鈍い痛みが始まる。妹の反抗的で強い意志に満ちた目に見つめられているような感覚になる。 

 窓側に置かれたベッドの寝具は黒一色だった。カーテンはグレー。学習机の上には高校生の時に使っていたとみられる教科書が並んでいる。本棚には小説や文学関係の本、彼女が好きだった宇宙に関する本などがぎっしり収まっている。その隣にCDラックがあった。

 寝具やカーテンの色などに違和感を持ったものの、他に特別なものは見当たらない。それなのに、この部屋には、過去、現在、未来が渦巻いているような不可解な空気が流れていた。ただし、それは気味が悪いとか怖いといったものではなく人間が本来持っている清々しいほどの精神の高みのようなものだった。佳奈美が秘密基地と言ったのは、物質的なものではなく、この空気のことだったのではないかと、亜香里は思った。

 他人が入ることをあれほど拒んでいた佳奈美のことを思えば、この場所に長くいてはいけないのだろう。それに、このままいると人の運命をも吸い込んでしまうような強い力に引きずり込まれそうだった。亜香里自身にとっても、佳奈美を感じてしまい辛いことだったので、急いでCDラックへ近づく。だが、なぜかそこに目的のCDは見つからなかった。おかしい。あのCDは妹にとっても特別なものだったはずなのだ。

 いろいろ探してみたが、なかなか見つからない。しかし、亜香里はベッドの下にA4サイズの箱があることに気づく。なぜだか、その箱の中に目的のCDがあるに違いないと思われ、亜香里は箱を取り出す。震える手で箱を開けると、やはりそこには目的のCDがあった。それは、半田薫子というシンガーソングライターのファーストアルバム。

 しかも、その上に『お姉ちゃんへ』とだけ書かれた便箋が一枚置かれていた。何か本文を書く前だったように思える。亜香里がその便箋とCDを取り出すと、その下に原稿用紙の束があった。表紙には、小説『夢の中の真実』と書かれていた。佳奈美が小説家志望であることは知っていたが、実際に佳奈美が書いたものは読んだことがなかった。佳奈美はどんなものを書いたのだろうか。すでに遺品のひとつになっていたその原稿用紙をそっと取り上げると、その下に一枚の絵があった。中学一年大山佳奈美『夢』と右下に小さくタイトルが書かれている。その絵を見た瞬間、亜香里は戦慄で身体の震えが止まらなくなった。

 ガラスの向こうの蒸れた景色がゆらりゆらりと白く光っている。

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