第145話 遡る(3)

真尋は起き上がってピアノが置いてある部屋にぼうっとやってきた。


斯波が奏でているピアノだった。


真尋に気づいて


「・・ああ、寝てた?」


斯波はふっと笑ってピアノを辞めた。


「斯波っちってピアノ、上手いよな。 なんで辞めたの?」


ボソっとそう言った。


「ぜんっぜん。 上手くねえって、」


斯波は照れてピアノのフタを閉じてしまった。


「そんなことないよ。 やっぱりオヤジさんが音大のエライ人だったから?」



その言葉に


ちょっと動揺して



「まあ。 親の影響って言われたらそうなのかもしれないけど。 結局、自分がやってた時はピアノが好きになれなくて。 無理やりやらされてたって感じで。 音高行ってたけど、なんか先見えない感じもしたし。 ここまでかなあって。」


「おれんちなんかさあ、別にオヤジもオフクロもピアノやってたわけじゃないし。 なんか普通の習い事みたいな感じで始めてさあ。 気づいたらここまで来てた感じ。」


真尋は明るく笑った。



そして


ふっと真面目な顔になって


「・・ずっとね。 ピアノは趣味って感じだった。」


ポツリと言った。


「だけど。 ジイさんがそれじゃダメだって・・言ってくれてた気がして。 言葉にはしなかったけど。 人から金取れるピアニストになれって言いたかったのかも。 ほんっと、実際。 学校を中退して、いきなり世間に出てみたけど結局甘えてたんだよな。 オヤジの会社に所属させてもらって。 日本ではデビューさせてもらったけど。 おれが一番やる気なかった。 そんなおれの背中をピシっと奮い立たせてくれたのは・・ジイさんだった。」



シェーンベルグ氏のことを


『ジイさん』


と呼ぶ時の真尋の顔は本当に優しかった。



「ジイさんさあ、おれはやりたいことはすべてやって来たからもう思い残すことはない、とか言っておきながら。最期は・・もっとおれのピアノを聴いていたかった、なんて。 言うから。」


真尋はタバコに火をつけた。


「もう80過ぎてたし。 人生には悔いはなかったんだろうけど。 でも。 もっともっと教えてほしいことはたくさんあった。 ジイさんが死んで、おれ一人でどうやってやっていこうかって、不安ばっかりで。 志藤さんのおかげで、何とか希望も持てたし。 絵梨沙や子供たちがいてくれて・・おれは幸せだったし。」


その顔は


本当に嬉しそうだった。


「おまえって・・人を呼び込む力、あるよな。」


斯波はポツリとそう言った。


「え、なにそれ、」


「そうやって・・周りに人があつまる。 それは神様がおまえに与えてくれた宝だな。」



いつもいつも


怖い顔で


怒られてばかりの斯波から


こんなに優しい言葉をかけてもらったことはなかった。


「・・『キエフの大門』・・ジイさんの前で初めて弾いた曲なんだ。」


真尋はピアノのフタをちょっと開けて人差し指でポーンとAの音を鳴らした。


「え、」


そんなエピソードは全く知らなかった斯波は少し驚いた。



「フェルナンド先生の紹介ではあったけど、気難しい人でさあ。 おれのピアノなんかいっこも聴いてくれようとしなくって。 無理やり聴かせたのが・・・」


真尋はピアノの前に座り、バーンと鍵盤を叩いた。



鐘の音・・



さっき


自分が弾いたのとは


明らかに


音が


違う



斯波はその『展覧会の絵』に


鳥肌が立ちそうなほどの感覚を覚えた。




きっと


シェーンベルグ氏も


今のおれと同じような気持ちになったに違いない。



この音に


一発で


参ってしまったんだろう



その日から


真尋の


苦悩は


水の泡のように


静かに消えていった。


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