第69話 ともしび(2)

そのとき、竜生が


「ねえ、しーちゃんはきょうはこないの?」


と絵梨沙に言った。


「しーちゃん?」


萌香が怪訝な顔をすると、


「斯波さんのことです。 私、真鈴を産んだのは日本なんですが、妊娠中はウイーンにいたので、公演前には斯波さんに来ていただいて竜生の面倒までみてもらってしまって。 一緒に散歩に行ったり、お風呂にも入れてもらったり。 本当に助かりました。」


絵梨沙が萌香に言う。


「そう・・なんですか。」


なんだか彼のそういう姿が


想像つかなかった。


「真尋より懐いてるもんなあ、」


南が言うと、


「竜生の寝かしつけもしてくれて。 子供の小さいベッドに一緒に眠ってしまったり。 私がつわりで具合が良くなかったので、なにからなにまで。 斯波さんって本当に無口で、ちょっと怖い感じですけど。 すごくすごく思いやりがあって優しい人なんだなあって。 言葉じゃなくて気持ちが伝わる、と言うか。」


絵梨沙の言葉に


萌香は胸が熱くなる。


「でもほんっと冗談のひとつも言わないんだぜ~。 おれが笑いをふってもしらんぷりだしさあ・・んっとにやりにくいったら、」


真尋はまだぶつくさ言っていた。



彼が


本当に一生懸命に


真尋やその家族までも支えていることが


手に取るようにわかってしまった。




「ハイ。 部屋着。 エリちゃんから借りてきたから。 お風呂ももう入れるよ。」


萌香は南の家に泊まることになり、ゲストルームに案内された。


「・・ありがとう、ございます・・」


萌香は彼女に頭を下げる。


「真尋がいるとうるさくって。 ごめんな。 ほんまアホやから、」


「いえ。 とても楽しかったです。」


萌香はニッコリと微笑む。




彼女が


『楽しかった』


という言葉を発したことに


小さな驚きを感じた。



「私・・友達とかもいなかったし。こうしてにぎやかにゴハン食べたこともなかったし。 なんかどうしていいのかわかんなかったですけど・・でも、ひとりでいることが当たり前だったので。 こうして人と関わることが、こんなに楽しいことなんだって。 初めてでした、」




南は


彼女が今まで


どれだけ寂しい人生を送ってきたのか


想像しただけで、胸がつまりそうだった。



「・・運命の導きで。 こうして萌ちゃんが事業部にやってきたんやから。 あたしたちの仲間やん。 一緒に頑張っていける仲間やんかあ。 志藤ちゃんも萌ちゃんのことほんま信頼してると思うし、なにより萌ちゃんは仕事がすごくできるし。 これからも一緒に頑張っていこうね。 ほら、あたし萌ちゃんよりはさあ、ちょっとだけ年食ってるから。 なんかあったら相談して。 これでも山あり谷ありの人生歩いてきたから。 ちょっとは相談にも乗ってあげられるかもしれないし。」




そんな言葉を


人からかけられたのも初めてで。



「はい、」


萌香は自分でも驚くくらい


素直な気持ちで頷いた。




東京に来て


こうして


温かい人たちに囲まれて




私は


少しずつ変わっていったように思える。


ううん


変わりたいって


ずっと


そう思っていた。




ひょっとして


もう一度新しい人生をやり直せるんじゃないかって


はかない期待をしてしまったり。





でも


それはきっと許されない。





十和田が萌香の元を訪ねたのはその翌日のことだった。



「いいかげんに合い鍵をくれないか、」


マンションのエントランスで待ち伏せをしていた彼はそう言った。


「・・・」


萌香はためらった。


「・・杉並に特養老人ホームを建設することになって。 その打ち合わせで1週間ほどこちらにいる。 その間、ここにいてもええか?」



十和田は


この前来たときよりも


さらに顔色が悪くなっているような気がした。



そう思いながらも萌香は


「・・いえ、ここは・・」



ここに彼を入れるのを


ためらった。


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