第60話 扉(3)

「あれ? まだいたの? 全く、レックスの専務が帰ってくるのが遅くてさあ。 この時間になってもーた、」


志藤は事業部に戻ってきて、まだ斯波がひとり仕事をしていたので少し驚いた。


「ちょっと調べ物をしていて、」


タバコを手にそう言った。


「もう帰れば? 9時やん、」


志藤は時計を見る。



その問いかけに全く関係なく、


「栗栖を秘書にするって話、本当なんですか?」


斯波は志藤に言った。


「え? もう聞いたの? いや、まだ栗栖にお願いしてる状態なんやけど。 彼女も忙しいし、」


軽く返したが、


「どういう、つもりで?」



すっごい


真面目な顔で


そんなことを言われて、



「・・こっわい顔して、もー、」


志藤は思わず言ってしまった。


「え?」


斯波はそんなつもりはなかったので、自分の顔に手をやった。


「どういうつもりって。 まあ、彼女がええかなあと、」


志藤はデスクについて、ネクタイをちょっと緩めた。


斯波の顔はまだまだ怖かった。



志藤は彼の顔をジーっと見て、


「え? なんか不満?」


逆に言った。


「ふ、不満なんか・・。」


慌てて視線を外した。


「別に。 下心とかないから。 安心せえって、」


志藤もタバコを取り出して、ふっと笑う。


「べ、別に! おれは・・」


斯波は本当にわかりやすく動揺していた。



いつもは冷静で


何言ってもマイペースで、どーんとしてる彼が。



そう思ったら


何だかおかしくなってきて、志藤は笑いを堪えた。


「・・彼女はね。 信頼すれば、きちんと応えてくれる子やなあって思ったから。」


志藤は優しくそう言った。


「え・・」


「信じてやれば。 きちんと向いてくれる。 まあ・・不倫したりとか? 愛人やってたりとか。 いろいろあったと思うけど。 素顔の彼女はもう、ほんまに物静かで頭が良くて。 気が利いて。 女性らしくて。 秘書として仕事してくれたら、おれも助かるかなあって。 そう思ったから。」


その言葉を聞いた瞬間。


斯波は


彼女が作ってくれた手料理を思い出してしまった。



本当に


美味しかった。


一人暮らしが長かったので、あんなに美味しい手料理を食べたのも久しぶりだった。


愛人なんかして


楽して


暮らしてた人間が


作れるような


料理じゃない気がした。



「人、信じるって。 なんか自分も幸せになるって言うか。 おれもさあ、人のこと言えなかったけど。 他人なんかどうでもよかったし。 でも。 今は、信じて、信じられて。 そういう関係ってええなあって心の底から思えるし。」


志藤の言葉が


カラカラの心に


どんどん水が吸い込まれていくような


澱みなく


ものすごく素直に


身体に染み込んでいく。




「それに・・何より・・」


志藤はライターでタバコに火をつけた。


斯波は彼を見やる。


「・・もう、よだれがでそうなほどいい女やし、」


志藤はそう言って


いつもの


人懐っこい笑顔を斯波に向けた。


「はっ・・」


斯波はいきなり絆されそうになった気持ちが現実に引き戻された。


「また、も~。 こっわい顔になってるで~、」


志藤はおかしそうに指をさして大笑いした。


「なっ・・何をっ! ほんっと、いっつもいっつも本気なのか冗談なのか区別つかなくて! 真剣に聞いてしまってる自分が本当に恥ずかしい!!」


斯波はキレそうになるほど恥ずかしかった。


「アハハ、まあそう怒るなって、」


志藤は斯波があまりにもからかい甲斐がありすぎて、おもしろくて仕方がなかった。


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