第13話 一面(2)

萌香は驚いてその声に振り向いた。


「今度の公演の段取りの書類、間違ってたぞ。 今日中にやらないと間に合わない。 ちょっと戻ってくれ、」



自分でも驚くくらい


ベラベラと言葉が出た。


「・・・」


萌香は呆然としている。



「早く、おまえが書類を回してくれないと、おれが仕事、できない。」


斯波は急かすようにそう言った。




萌香は男をチラっと見る。



「・・何時になっても。 待っている。」



彼はボソっとそう言った。


萌香は彼からUターンして会社に戻って行った。




何とも言えない


安堵の気持ちが


心に広がる。




「・・書類って、」


萌香はエレベーターホールまで斯波と歩きながら彼に言った。


「ああ・・ウソ。」



斯波はくるっと彼女に向き直った。



「ウソ・・?」


「ひょっとして・・行きたくなかった?」



ドキンとした。




「まあ・・誰かは知らんけど。 なんかそんな気がしたから、」



彼の言葉を聞いて、萌香は力が抜けたように壁にもたれた。



「どうした?」


斯波は彼女を見て怪訝な顔をする。


萌香はそのままその場にしゃがみこんでしまった。




「大丈夫か? また具合が悪いのか・・?」


驚いて彼女の腕を掴んだ。


「・・いいえ、」




萌香は


気持ちが


ガラガラと音を立てて崩れていきそうだった。





それから1時間ほど


二人は誰もいなくなった会社のロビーで何を話すわけでもなく座っていた。



「もう・・帰ったら? あの男、いないし。」


斯波は立ち上がる。


「きっと・・マンションの前で待ってる、」


萌香はうつむいてつぶやくように言った。



「まちぶせ?」



黙って頷いた。



「別にきみに深入りしたくないけど。 ・・まさか、ヤバイ人じゃないよね? 結構、紳士に見えたけど・・」



「ヤバイ人・・?」


萌香はようやく顔を上げた。


「ヤ、のつく人とか?」


と言う斯波に、ふっと笑って、


「違います。 あの人は・・大阪の大きな病院の理事長です、」


と言った。


「病院の?」


「私の・・後見人です、」




萌香はガラスの向こうの外の様子を見ながら


「・・私のほんとの・・パトロンです、」


小さな声でそう言った。







「んじゃあ・・こっからは栗栖にやってもらうか。」


志藤は斯波と打ち合わせをしながらそう言った。



「おれから彼女に話をしておきます、」


彼のほうからそう言ってきたので、


志藤はちょっと意外な気がした。


本当に


いつも寡黙で


クールで。


自分たちとうちとけてないわけではないけれど


いつもいつも


難しい顔をして何を考えているかわからないところがあって。



「この前のパーティーでオヤジさんに会ったよ、」


志藤がそう言うと、斯波は少しペンの動きを止めたが、すぐに気にもしないように


「そうですか。」


とだけ言った。


「ま・・けっこうキツイこと言われたけどな~。 北都フィルはまだまだだとか。 北都マサヒロもまだ半分シロウトみたいなピアノ弾いてるとか、」


「・・・」


まったくノーコメントだった。




彼がここに来た時から


もちろん父親のことは知っていたが


そのことを話すと怖い顔がいっそう怖くなって


こうして何も言わなくなってしまう。



彼が


両親の離婚で


父親方に残ったが


ほとんど父親と暮らすことはなく


祖母に育てられたと言っていた。


父親にも母親にも捨てられた、といつか話していたことがある。


そのことが彼に


暗い影を残しているのか。



志藤は冷静に仕事を続ける斯波を見た。

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