それでもこの冷えた手が
無月兄
第1話
壁にかかっている時計を見ながら、私、
今私がいるのは学校の更衣室。体育の授業が終わってこれから教室に行かなきゃいけないんだけど、実はまだ着替えがまだ終わっていない。
スカートをはいてシャツを羽織って、あとはボタンを留めるだけ。だけどこれが問題だった。
「うぅ~っ、留まらない」
何度やっても掴んだボタンが滑るように手から零れてしまって、ちっとも思うように留まってくれない。なぜこんな事になっているのか、その原因は分かっている。全ては自分の冷え症のせいだ。
重度の冷え症である私は、ちょっと寒い所に行くと途端に手が悴んで上手く動かせなくなる。あと、手が痛くなる。冷たいなんて通り越して痛いんだ。
寒い季節になると、学校への登下校でさえそんな状態になってしまう。例え手袋なんてしたって、そんなの気休めにもなりはしなかった。
登下校でさえそうなんだから、今日みたいに外で体育なんてあるともう地獄だ。授業中は、ただ手の痛みに耐えながら過ごすだけ。だけど授業が終わっても、その瞬間痛みから解放されるなんてことは無い。どれだけ必死に手を擦り合わせても、それから30分くらいは痛みと冷たさが残っている。
それで困るのが、授業の後の着替えだ。こんな悴んだ手だと、まともに物を持つのも一苦労。中でも一番大変なのは、さっきから奮闘しているボタン留めだ。普段何気なくやっているこの作業が、とたんに高難易度のミッションに変わる。たった一個のボタンをつけるだけで、いったい何度失敗しただろう。
だけどいつまでも時間をかけてはいられない。このままだと、次の授業が始まっちゃう。
そんな事を考えている間にも時間は刻一刻と過ぎて行って、他の子達は次々に着替えをすませて出て行ってしまう。
「私達、先行くから~」
「あっ……うん」
一瞬、呼び止めてボタンをつけてほしいと頼もうかとも思った。だけどこんな事を頼むなんてと、恥ずかしさがそれを邪魔してしまう。いつの間にか、更衣室に残っているのは私だけ。これでもう、誰かに頼る事も出来なくなってしまった。
それでも、一個また一個とつけていって、ようやく終わりが見えてきた時、無情にも次の授業の始まりを告げるチャイムが校舎に響き渡った。
「ああ、もうっ!」
悲鳴にも似た声を上げながら、シャツの上にブレザーを羽織る。こんな格好で教室に戻るのは恥ずかしいけど、クラスのみんなの前で「ボタンが留められずに遅れました」なんて言うのはもっと嫌だ。
残酷な二者択一を迫られた私は、泣く泣く後者を選ぶしかなかった。
「冷え症なんて大嫌いだーっ!」
速足で教室へと急ぎながら、そう心の中で思い切り叫んでいた。
「セーフ」
教室に戻った私は、ひとまず安堵のため息をつく。私が来たのはチャイムが鳴ってから少し経ってからだったけど、幸いなことに先生も遅れていてまだ来ていない。
だけどホッとしたのも束の間、次に気になったのは、今の自分のこの格好。
シャツのボタンは一番上がまだ止まっていないし、その上に羽織ったブレザーに至っては全開の状態だ。
背中を丸めて身を屈め、できるだけ他の人から見えないようにしながら、なんとかボタンを留めようとする。だけどやっぱり、私の指はなかなか思うようには動いてくれない。未だ悴んだままのこの指は、大きくて留め易いはずのブレザーのボタンでさえも簡単には攻略させてくれなかった。
せめて誰にも気づかれませんように。
祈るような気持ちでますます体を丸めるけど、現実は残酷だった。うずくまる私に向かって、思いがけない声が飛んできた。
「日枝、何やってるんだ?」
「
声の主は、私の隣の席に座っている池面くん。彼は優しくてイケメンで紳士的で頭が良くてスポーツマンと言う、非の打ち所の無い人だ。クラスの女子の大半は彼に対して大なり小なり好意を懐いていて、何を隠そう私もその中の一人。そんな池面くんが、私に声を掛けてくれている。
「ブレザーのボタン全開だけど、寒くねえのか?あと、シャツの一番上も留まってねえよな?」
「――――っ!」
ああ、池面くんが隣の席になった時はラッキーだと神様に感謝したって言うのに、そのせいでまさかこんな所を見られるなんて。
そうですよね、やっぱりそこに目が行きますよね。こんな格好おかしいと思いますよね。露出狂の痴女だと思いますよね。
これをきっかけで池面くんの中には『私=痴女』で危ない奴と言う図式がインプットされて、隣の席にヤベー奴がいるって警戒されて嫌われて、挙句ファンの子達からも池面くんを誘惑しようとした不埒な奴として制裁を加えられ周りから孤立し、暗黒の高校生活を送る事になるんだ……
「日枝、おい日枝!大丈夫か、顔真っ青だぞ!」
「気にしないで。全部冷え症のせいだから。ボタンを留められなかったのも、痴女に成り下がったのも、池面くんに嫌われるのも、暗黒の高校生活を送るのも、みんなみーんな冷え症のせい……」
「いや、気にするだろ。よく分かんないけど、日枝ってそんなに冷え症なのか?」
なんだか興味深げにこっちを見てくる池面くん。冷え症の事、恥ずかしいからあんまり話したくは無いんだけど、どうせ全てが終わった身だ。この際だから全部話してもいいだろう。
「そうなの。特に手や足が酷くて、指なんて今もまともに動かせないくらい」
「ボタンも留められないくらいに?」
「……うん」
だけど、こんな事を言ってもきっと分かってくれないだろうな。実はこの冷え症の悩み、今まで何人かには相談したことがある。だけどいつも、そこまで酷いなんてありえないと笑われた。だから、いつの間にか誰にも言えなくなった。
「そうなのか。大変なんだな」
「えっ――――?」
一言呟いた池面くんは、決して笑ってなんかいなかった。ただ、困ったような顔で私を見ていた。
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