episode・41  松崎和多五郎


 増田蔵六の屋敷は、千人頭・窪田岩之丞の拝領地にある。茅葺き屋根の四間取り(よまどり)の、百姓家のような家だ。

 甲州道中をはさんで反対側の窪田の屋敷は、敷地が七千坪以上もあり、書院造りの屋敷に、威圧的な薬医門を構えていたのに対し、いたって質素な佇まいである。

 蔵六をはじめ、十家族が住む拝領地は、約三千九百坪ほどで、そこに小さな家が十軒だから、余った土地は、畑になっている。

 蔵六は、その片隅に道場を構えていた。道場は甲州道中沿いの表門の脇にあったが、まるで物置小屋のように質素な造りだ。

 玄関の脇には『天然理心流指南 増田蔵六』と、記された、うっかりすると、見過ごしてしまいそうな目立たない看板がかかっているだけで、その構えは、質素をとおり越して、無愛想ですらあった。


 道場では、多くの門弟が稽古している。

 この日、蔵六は、千人同心・組頭の会合があるとのことで、窪田の屋敷に出かけて留守だったが、かわりに師範代の原謙二郎が、門弟たちに稽古をつけていた。後に講武所砲術方の副長になった、窪田と同じく千人頭の原嘉藤次の親類である。

 原は指南免許。さすがに古参の門弟だけあって、新八も、まるで歯が立たない。


 下原刀で道場を開いている、山本満次郎が真っ正直で豪快な剣だったのに対して、じつに老獪な竹刀捌きで、どう攻めこんでも、のらりくらりと、かわされてしまう。

 新八は、原のうちこみを、下段から擦り上げるように弾き、そのまま竹刀をうち下ろす。

 が、原の竹刀は、ねっとりと粘りつくように、新八の竹刀から離れない。

 なにくそ! ――と思い、押せば、原の竹刀は、そのちからに逆らわず、すうーっと引かれる。

 ならばと、こちらが引けば、原の竹刀が、その引いたちからより僅かに強いちからで、新八の竹刀を抑えこみ、その絶妙な加減に、思わずバランスを崩したとたんに……。


「それ、お面!」

 原の竹刀が、新八の面にうちこまれた。

「はははっ、新八さん。これがです。まあ、馬庭念流のもの真似ですがね」

 原は、若いころ全国を武者修行して廻ったので、あらゆる流派に精通していた。

 新八が、ため息をつきながら一礼すると、先ほどから門弟に混ざり、稽古を見守っていた男が、無遠慮に声をかけた。


「やあ、原さん。そやつが、例の武者修行の男かい?」

 その四十年配の男は、新八を値踏みするような視線で、じろじろと眺め回し、

「なるほど。満次郎さんからきいたとおり、なかなかの面構えだ」

 にやりと笑った。


「戸吹の若先生……いらしてたんですか」

 原が驚いたのは無理もない。この男は千人同心・松崎和多五郎。

 蔵六の故郷である戸吹の地で、天然理心流の道場を開いている、つまり、天然理心流の故郷をまかされた、松崎正作の跡継ぎだった。


 戸吹は、天然理心流二代目・近藤三助の故郷であると同時に、増田蔵六の生地でもあった。

 蔵六は、千人同心・坂本重右衛門の子として、天明六年に生まれた。

 二十歳で近藤三助に入門。その後三沢家に養子に入るが、妻と死別し、乞われて組頭の増田家に養子に入り、八王子千人町に移り住んだ。


 蔵六のいなくなった戸吹の地で、天然理心流の道統を守ったのが、弟弟子の松崎正作で、和多五郎は、正作の嫡子である。

 天然理心流は、肉親に指南免許を与えることを禁止していたので、和多五郎は、父・正作ではなく、蔵六から免許をあたえられていた。

 正作は、戸吹の小天狗と呼ばれる達人だったが、息子の和多五郎もそれに劣らぬ腕前で、のちに、小手斬りの和多五郎などと呼ばれることになる。

 正作、和多五郎が親子二代で、戸吹において指導した門弟は、幕末から明治にかけて、千人におよんだという。

 ちなみに、近藤勇の養子・勇五郎は、勇が浪士組に参加して京に行ってしまったため、天然理心流を習うことができなかったので、この和多五郎から剣術を学んだ。


「あの満次郎さんが誉めるだけあって、いい剣筋をしている。 ――が、攻めが正直すぎるな」


(なんだ、このオヤジは。好き勝手ぬかしやがって)


 と、心のなかで新八が、つぶやいたとたん。

「なんだ、このオヤジ。好き勝手言いやがって。――って、つらしてるぜ。おまえさん、単純だねえ」

 和多五郎が、豪快に笑った。

 新八が真っ赤な顔で、怒りを抑えていると、和多五郎は、ニヤニヤ笑いながら、面、籠手をつけはじめる。

「さあ、俺のことが気に食わなかったら、思い切り、、いいんだぜ」

「では、一手ご指南のほど、お願いします」

 新八が憮然とした表情で、竹刀を構える。

「いいねぇ。若いやつは、そうでなくちゃ」

 和多五郎が、嬉しそうに笑った。


 竹刀をとった和多五郎は、初手から新八の意表を突いた。

 聖地、戸吹の天然理心流の跡取りのくせに、まるでないのである。

 向かいあったとたん、和多五郎は竹刀の先を、小刻みに震わせている。明らかに北辰一刀流の、鶺鴒の尾を模倣していた。

 新八が仕掛けると、和多五郎は、軽やかに竹刀を捌き、蔵六に感じたような重圧感を、一切感じることなく、器用に攻撃をかわす。

「やるな……さすが、撃剣館の免許だ」

 和多五郎は、次々と鋭い攻撃を仕掛けるが、竹刀のやり取りに慣れた新八は、危なげなくそれを捌く。が、しかし、反撃することができない。


(くそっ、なんてやりにくいオヤジだ……どうにも、つけ入る隙がねえ……)


 それでも新八が、和多五郎の攻撃を、上手にいなしていたのは、武者修行のおかげであった。

 武者修行に出て以来、増田蔵六、山本満次郎、松岡新三郎などとの出会いのおかげで、新八の腕前は、江戸にいたころよりも、確実に上がっていたからだ。

 しばらく竹刀の激しい応酬が続いたが、和多五朗は、大きく間合いをとると、

「新八さん。あんた、思ったよりやるなあ……うちの範之介と、いい勝負かも知れない」

 和多五郎は、大きく間合いをとり、試合のただ中に、緊張感のない声で、新八に話かけた。

「誰だい、その範之介ってのは?」

「俺の弟子の真田範之介ってやつのことさ。北辰一刀流を習いたいって、飛びだしたっきり、帰ってきやしねえ」

「でも、そういうあんたも、いま北辰一刀流を遣ったじゃねえか」

 新八が、苛立ちの声をあげる。

「はははっ、なあに、見よう見真似さ。原さんが馬庭念流の真似事をしたんで、俺にもちょっとは、芸があるところを見せとかねえとな」


 たったいま、新八が攻めあぐねていた竹刀捌きを、和多五朗は、もの真似と言いきった。

「ふん、――ならば、次は本気で来やがれ!」

 新八が声を荒げ、竹刀を構える。

「おお怖っ、おい、そんなに怒るなよ。ちょっとした冗談じゃねえか」

 新八は怒りと同時に、恐怖にも似た畏れを抱いた。この男が法螺を吹いているのでなければ、本気を出したら、どれほどのものなのか、想像もつかない。

 和多五朗は、不意に表情を引きしめ、

「じゃあ、お言葉どおり、遠慮なく本気でいくぜ」

 と、言った瞬間、その雰囲気が一変した。それまでの朗らかな様子が、嘘だったかのように、凄まじい剣気が吹きあがる。


「おもしれえ。こっちも本気で、いかせてもらうぜ!」

 歯を剥きだすように、新八が笑った。

 ふたりの試合を見守っていた、原や蔵六の門弟たちが、思わず固唾を飲む。

 和多五朗は平晴眼。新八は八双に構えて対峙する。

 それまで激しくうちあっていたのが、今度はふたりとも、竹刀を相手につけたまま、微動だにしない。

「ちょうどよいところに、戻ってきたようじゃな……」

「蔵六師範」

いつの間にか原の後ろに、蔵六が立っていた。

「さっき戸吹の若先生が来て、いきなり永倉さんに、喧嘩をふっかけるように試合を……」

「なあに心配はいらん。和多五朗は、わしが呼んだのじゃ」

 蔵六が、愉しそうに笑った。


「えっ、そうだったんですか。どうせ呼ぶなら山本さんを……」

 新八と山本が親しいことを知っている、原がつぶやいた。

「満次郎は、新八に似すぎておる……違った性質たちの相手と試合わねば、ちからはつかぬ」

「言われてみれば、ふたりとも、まっすぐなところが、そっくりですね」

「和多五朗は、ひねくれておるでな。新八もよい経験になるじゃろうて」

「師範もひとが悪い……」

「なにを言うか。これは師匠が弟子を想う親心じゃ」

 入門したわけでもない、武者修行で滞在しているだけの新八を、蔵六は、すっかり弟子のように思っていた。これは、新八の人柄のなせる技だろう。


(師範は、子宝に恵まれなかったからな……)


 原が、蔵六に視線を向けたとたん。

「むっ」

 新八が低い気合いをかけた。

 それに対抗するように、和多五郎は竹刀を平晴眼につけたまま、静かに対峙する。身体から、陽炎のように剣気が吹きあがり、見ている者は、思わず唾を飲みこんだ。

「ほう。新八め……またひと回り成長したようじゃな。しかし和多五郎は手強いぞ」

 蔵六の目が、嬉しそうに細められた。

 ふたりは向かいあったまま、まるで彫像のように動かない。

 こうして睨み合いが続くと、いかに相手に先に手をださせるか、またそれを、いかに早く察知するかが、勝負の行方を左右する。

 先に手をだしたほうが、圧倒的に不利なことは、言うまでもない。


 天然理心流の平晴眼は、剣先を相手の眼につけて、さらに刀を寝かせるように構える。

 一般的には、突きを入れやすく、また、突きを外された場合、速やかに斬撃に変化させるため……などと言われているが、天然理心流の技に、とくに突きというものは存在しない。

 この平晴眼は、先の先をとるための「先の事」。反対に、後の先をとる「応の事」。そのどちらにも対応するための構えであった。

 もちろん新八は、蔵六に教えを受けているので、そのことは百も承知だ。なにせ、この「先の事」「応の事」は、天然理心流において、最初に教える基本的な技なのだから。

 前にも述べたが、その流派で最初に教える基本の技は、その流派の奥義でもある。しかし、一見、単純で簡単に見える技こそが、もっとも難しく奥が深い。


 新八は、和多五郎の攻撃の起こりを読もうと、全神経を集中するが、その気配は、毛筋ほどもうかがえなかった。


(ならば、ここは俺が先の事で……)


 と、新八が思った刹那。

「むっ!」

 和多五郎の竹刀が新八の籠手に、鋭くうちこまれた。

「一本!!」

 蔵六が宣告する。門弟たちから、一斉にため息が漏れた。

「ふふっ、新八よ。見事に心の動きを読まれたな」

 ふたりは蔵六に気付き、あわてて一礼した。

「師匠、戻ってたんですか」


 和多五郎は、笑みを浮かべるが、新八は、不機嫌な顔をしている。

「新八……おぬし、最初は、和多五郎の起こりを捉えてを狙っていたのに、痺れをきらしてに、狙いを変えたな。その心の動きを、和多五郎に読まれたのじゃ」

「俺の心の動き……」

「応の事は、相手の攻撃に対する後の先……相手が動かねば意味がない。

和多五郎は、最初に激しくうちあい、おぬしを、速い試合運びに慣れさせ、しかるのちに、わざと持久戦に持ちこんだ……おぬしは、まんまとその戦略に乗ってしまったのじゃ」

「では、最初の北辰一刀流の真似事は……」

「あれは、おぬしを速い試合運びに慣れさせるための布石……

和多五郎は、はなっから持久戦を狙っておった。そして、試合中おぬしが苛立つように、わざと話かけ、煽ったのじゃ」


「俺は、まんまと乗せられた……と、いうわけか」

 憮然とする新八を見て、蔵六が愉しそうに笑った。

「新八よ……おぬしは、がむしゃらでな性格じゃ。それは、悪いことではない。だからといって、すべてに対して、まっすぐ付き合う必要はない。世の中には、和多五郎なぞより、卑劣なやからは、いくらでもおるでな」

「ひどいなあ。わざわざひとを呼び出しといて、いくらなんでも、卑劣はないでしょう。せめて、策士とか、老獪と言ってくださいよ!」

 和多五郎が大げさに嘆くと、門弟たちから一斉に笑いが起こった。

 新八は憮然としままだ。おそらく、まともに戦っても、和多五郎には敵わないであろう。


 思えば、江戸にいたころは、師範代として、常に自分より格下の相手に稽古をつける立場にいた。

 そうした環境では、稽古相手を引き上げるだけで、あまり自分の技の向上にはつながらない。

 もちろん、ひとに教えることによって、自分が学ぶことはあるが、格上の相手との稽古は、いままでとは逆に、自分が相手に引き上げてもらえるということに、あらためて新八は気づいた。


 和多五郎が防具を外していると、蔵六が新八に声をかけた。

「おぬしは、しばらく稽古を続けておれ。和多五郎。おまえは、ちょっとこっちへ……」

 蔵六は、奥の八畳へ和多五郎を誘った。道場では新八が、疲れも見せず、蔵六の門弟たちに混ざり、稽古を続けている。

 ふたりは、向かいあって茶をのみながら、しばらくその様子を見ていたが、

「若いねえ……」

 元気のいい新八を見て、和多五郎がため息をつく。

「おまえは、まだ不惑じゃろ。いまからそんな年寄り臭くてどうする」

「誰もが師匠のようなわけには、いきませんよ」

「ふん、それよりも新八を、どう見た?」

「ふふふ。わざわざ俺を呼びだした理由わけは、新八と試合わせるためでしょう」

 和多五郎が笑った。


「うむ。いま、うちにいる門弟で、新八より格上は、原しかおらぬからな」

「いまは、まだ粗削りですが、あれはになりますね。剣の才は、範之介といい勝負でしょう。あとは……周助さんのところの塾頭沖田。いや、事によると、沖田より上かもしれません」

「やはり、おまえもそう思うか」

「ええ。俺の弟子に、もらいたいぐらいです」

 この幕末期、天然理心流には、ふたりの天才が降臨した。ひとりは、言わずと知れた沖田総司、そして、もうひとりが、真田範之介である。範之介に関しては、いずれまた語る機会があるであろう。


「おまえのところには、範之介がおるではないか」

「あいつは、攘夷だかなんだか知らねえが、水戸の連中とつるんで、お玉ヶ池(千葉周作の玄武館)に行ったっきり、なしのつぶてです……まあ、いつか戻るだろうと、籍はそのままにしてありますが……」

 蔵六は、門弟と激しくうちあう新八に眼をやり、ため息をつく。

「海からこんなに離れた八王子にも、攘夷の波は押し寄せるか……」

「おかげで、門弟は増えましたけどね」

 ふたりはそれっきり、むっつりと口をつぐんだ。



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