episode・26 決闘・前 八王子横山宿
八郎は彦五郎に、かなり飲まされたので、夜四つ半には、早々と上段の間で床についた。
佐藤家は脇本陣(幕末期は、本陣兼任)なので、参勤交代の大名家の者、知行地や甲府にゆく幕臣、あるいは、関東取締出役など、武家が宿泊するため、上段の間がもうけられていた。
そして伊庭家は、二百石の直参旗本である。
「たまたまとはいえ、上段の資格は、じゅうぶんってわけだ」
歳三は、そうつぶやくと、いつも寝泊まりしている、上段の間とは廊下をはさんだ六畳間には向かわず、屋敷を出て、長屋門の戸を叩いた。
「兼助さん……トシだ。まだ起きてるかい?」
彦五郎は長屋門に、関東取締出役の捕物に協力する道案内(十手持ち)の山崎兼助を住まわせ、用心棒がわりにしていた。
兼助は砂川村の出身で、天然理心流の門人である。ただし、近藤周助の弟子ではなく、地元の砂川村で師範をしていた増田蔵六の弟子、井滝伊勢五郎に剣術を習っていた。侠気あふれる気っ風のいい男で、日野宿のものたちからも、かわいがられていた。
もっとも、この侠気が仇となり、八王子壺伊勢屋事件において、非業の最後を遂げるが、それはまだ、のちの話である。
兼助は宵っ張りで、たいてい遅くまで起きていたが、部屋は真っ暗で、ひと気がなかった。
歳三は「ははあ」と、ひとり合点し、長屋門の潜り戸を抜けて、甲州道中に出て、向かいにある問屋場の先の路地の『丁字屋』という居酒屋に向かう。
日野宿は、小さな宿場のわりには、やけに酒屋と居酒屋が多い町であった。
この当時、食物屋が二十軒ほどあったのに対して、酒屋が五軒、居酒屋は、なんと十八軒もあり、なかでも丁字屋は、宿場町にはめずらしく、夜九つごろまで店を開けており、とても繁盛していた。
宿場町は江戸とは違い、夜になると常夜灯を別にすると、真っ暗といってよかったので、丁字屋の灯りは、誘蛾灯のように、多くの客を惹き寄せた。
「ごめんよっ」
歳三が、縄暖簾をかきわける。
店のなかから、ざわめきと居酒屋特有の、酒と煮炊きをする匂いが鼻をついた。
真夜中にも関わらず、席は八割がた埋まっている。
馬丁や人足などの肉体労働者が、客の大半を占めているが、隅の席で井上松五郎と飲んでいる兼助が目に入った。
「よお、トシ坊。こんな遅い刻限に、めずらしいな」
松五郎が、歳三に気付いて、笑顔を浮かべた。かなり出来あがっているようだ。
トシ坊は、幼いころの歳三のあだ名だが、いまもって、そうよぶのは松五郎、源三郎の井上兄弟だけである。
「いや、ちょっと兼助さんに、たのみごとでね」
「なんだいトシさん。俺に、たのみごとだって?」
兼助は酒に強い。松五郎に比べると、まだ、あまり酔っている雰囲気ではなかった。
「じつは朝いちばんで、手下の誰かを、八王子の先の川原宿の小田野に、使いにやってもらいてえんだ」
「小田野? ずいぶん遠いな。じゃあ、飛脚上がりの達次に行かせよう。小田野といえば……あっ、峯吉か!――て、ことは、荒っぽい話だな」
「さすが兼助さんだ。察しがいいや。佐藤の客人が、ちょっと祐天一家に用事があるんだ。俺もついてゆくが、念のためだ」
「だったら、八幡の伊之助どんに、話を通したほうがいいかもな」
八幡の伊之助は、兼助の知り合いで、八王子横山宿で十手を預かる道案内である。
「ああ、八幡の親分さんか……できれば、あまりおおごとに、したくなくてね。客人は、直参旗本なんだ」
「しかし、直参が祐天に用事とは、穏やかじゃねえな」
「ちょいとわけありでね」
「わかった。他ならぬトシさんのたのみだ。引き受けた」
「すまねえ。ありがとよ」
「まあ、それよりも、トシ坊も一杯どうだい」
松五郎が、歳三に酒をすすめる。
「いや、七つごろには起きるんで、遠慮しておきます。じゃあ兼助さん、悪いけどこの手紙を、朝のうちに峯吉に、届けておいてください」
ひき止めようとする松五郎を振りきって、歳三は頭を下げ、手紙をあずけると、佐藤家に戻った。
――翌朝。
浅川をわたり、竹の鼻の一里塚をすぎて、永福稲荷の先の曲尺手を曲がると、そこは八王子横山宿である。
朝もやのなか、歳三は、八郎と連れだち、横山宿に足を踏みいれた。
「朝っぱらから、ずいぶんひとが出ていますね」
八郎がいぶかしむ。甲州道中は、早い時刻にも関わらず、かなりのひとが歩いている。
「ああ、今日は八の日。八幡宿で市が立つんです。四の日は、横山で市が立ちます」
八王子横山宿では、四の日、つまり四、十四、二十四日は横山で、八、十八、二十八日は八幡で市が立ち、近隣の人びとが集まり、大変なにぎわいであった。
その様子を描いた当時の絵を見ると、広い甲州道中に、身動きとれないほどの人びとが群がっている。
「なるほど……では、祐天一家も、とりこんでいるかもしれませんね」
歳三が、八郎と連れだち、市守神社の鳥居をくぐる。
八幡宿の市が立つ日なので、参道や境内も、なかなかのにぎわいで、多くの人びとが行き交っていた。
参道を歩きながら、歳三があたりを見回していると……。
「トシさん! こっち、こっち」
茶店から、人懐こい峯吉の声がきこえた。
「わざわざ呼びだしてすまねえ。待たせちまったかな……」
「なあに、ちょっと前に、きたばかりですよ。あっ、そちらのお方が、伊庭八郎殿ですか?」
峯吉が目を輝かせる。伊庭八郎の名前は、八王子にもきこえていた。
「はじめまして。中島峯吉さんですね。わたしが伊庭八郎です」
八郎が、丁寧に頭を下げる。
「あっ、いや……こ、こちらこそ、お初にお目めにかかります。中島峯吉と申します」
腰が低い上に、爽やかな笑顔で接する八郎に、峯吉が、しどろもどろにこたえた。
伊庭八郎といえば、地獄のように厳しいといわれた、伊庭道場の跡取りで、天才剣士という噂がきこえていた。
その噂と、八郎の柔らかい印象の落差に、峯吉は、意表をつかれた。
「ははは、峯吉。そんなに固くならなくても八郎さんは、とって食ったりしねえさ」
「さすがトシさんだ。これから祐天一家に、殴りこみをかけるってのに、余裕綽々ですね」
「早合点するんじゃねえ。誰が喧嘩するなんて言った。ちょっと話をしに行くだけだ」
歳三は、峯吉が調子に乗らないように、おそらく荒事になる……とは、口にださなかった。
「えっ、そうなんですか。俺は、てっきり、殴りこみかと思って、すっかり喧嘩支度しちゃいましたよ」
そう言いながら、峯吉が着物をはだけると、刃物が通らないように、カチカチに晒しを巻いていた。
「ほら、見てくださいよ。せっかく
「わっ、馬鹿野郎! こんなところで、ダンビラ抜くやつがあるか!」
腰のものを抜こうとする峯吉を、歳三が、あわてて抑えると、そのやり取りを見ていた八郎が、声をたてて笑った。
「ほら見ろ、八郎さんが、あきれて笑ってるじゃねえか」
「なあんだ。つまらねえなあ……せっかく久しぶりに、トシさんと、大暴れできると思ったのに」
「おめえなあ……こんど嫁さんをもらうんだろ。いい加減大人になりやがれ」
「ひどいなあトシさん。それ、満次郎師範のセリフじゃないですか……」
峯吉が、ふくれっ面になる。
「俺は、ようやく山本師範の気持ちがわかったよ……おめえは、惣次郎といっしょで、子どものまんまだ」
「えっ、沖田さんといっしょですか! それは嬉しいなあ。俺の剣術も捨てたもんじゃ……」
「馬鹿野郎。いっしょなのは、剣術じゃなくて、子どものほうだ」
ふたりのやり取りを、笑いながら眺めていた八郎が、いつの間にか、まぶしいものでも見るように、目を細めた。
「ほら、見やがれ。八郎さんが、あきれ果ててるじゃねえか」
「いや、あきれるなんて、とんでもない。仲がよくて、うらやましいです。わたしには、こんな馬鹿を言いあえる友達なんて、ひとりもいなかった……」
寂しげな八郎の表情に、歳三は、胸を衝かれた。
伊庭家は、禄高こそ二百石と低いが、先代は、将軍にも目をかけられ、側近く仕えたときく。
そんな名家の跡取りに生まれた八郎には、自分や峯吉のように、自由に遊ぶ機会などは、ほとんどなかったに、ちがいないからだ。
「八郎さん……」
なにかしら、言葉をかけたいが、なにを言っても、自分の気持ちが伝わりそうもないことが、歳三にはもどかしかった。
「なに言ってるんですか。八郎さんは、トシさんの友達じゃないですか。だったら、それは、俺の友達ですよ」
峯吉が、なんのためらいもなく口にする。
ふしぎなことに、この男が口にすると、世辞や社交辞令には、きこえない。だがそれは、もっともなことだった。
峯吉は、思ったことを、素直に口にしただけに、すぎなかったからだ。
「ありがとう」
八郎が微笑むと、歳三が照れくさそうに言う。
「さあ、ぐずぐずしてないで、大和屋に急ごう」
口入れ屋の大和屋は、甲州道中に面した、意外なほど立派な商家で、仕事を探す人びとが、ひっきりなしに出入りしている。
甲州道中は、参勤交代に利用する大名家が三藩しかなく、中間、小者など、武家に関わる仕事が少ないかわりに、女なら女中奉公や針子、男なら荷担ぎに馬丁、下男や人足仕事などは、いくらでもあった。
この三年後、横浜が開港すると、絹の価格が暴騰をはじめるが、八王子は、それ以前から甲州、武州、上州の絹の集散地として、非常に栄えた町で、絹にちなんで桑都と呼ばれていた。
したがって、そこには、多くの金が集まり、仕事を求めてひとも集まってくる。
ここ近年の八王子は、空前の好景気に沸いており、安政年間から慶応までの、わずか十年足らずで、人口が千人も増えたほどであった。
歳三と八郎は、大和屋の暖簾をくぐると、素早く店内の様子を探った。
帳場の前には、仕事の口を探す人びとが群れをなし、手代が手際よく、それぞれに仕事を斡旋している。
どうやら、浅川の、土手普請工事の仕事の給金が高いらしく、柄の悪そうな連中が並んでいた。
人足などの力仕事をするような連中は、荒っぽいのが多いため、喧嘩口論が絶えず、そのため、屈強な用心棒が雇われており、行列の整理をしていた。
もちろん、八王子の地回りのことも警戒しているのだろう。
八王子には、一家を構える博徒がいくつかあり、それぞれが相手を牽制しあい、危ういバランスの上に成り立っていたことは、以前のべたとおりである。
そこに、祐天一家が居を構えれば、摩擦は必至だった。
まだ事を起こしたくない祐天一家は、あからさまに看板を掲げたりせず、大和屋という、堅気に見せかけた出城を築くことで、なし崩し的に足場を築こうとしていた。
「いらっしゃいませ。お武家様……本日は、小者でもおさがしでございましょうか」
手代らしき若者が、八郎に声をかけた。
りゅうとした身なりをした八郎は、どう見ても、仕事を探しにきた浪人者には見えず、立派な旗本そのものだ。
と、なると、仕事を探しにきたのではなく、臨時の小者を探しにきたものと判断したのだ。
大名家や旗本が、登城や公用で旅をする場合、家格にみあった供を従えねばならなかった。
伊庭家は、二百石。最低限でも、槍持、草履取の二名が必要だ。
しかし、どこの家にも、普段から、そうした人数を養うほどの余裕はなく、必要に応じて、こういった口入れ屋で、臨時にひとを雇っていた。
「いや、今日きたのは、別の要件だ。いますぐ主人に、目通り願いたい」
手代は、八郎の言葉に怪訝な表情を浮かべたが、そこは如才なく、
「かしこまりました。少々お待ちください」
と、愛想をふりまきながら、帳場の奥に座る主人らしき男に耳打ちする。
その狸のような男の脇には、いかにも剣客らしい、たくましい男が控えていた。
店のなかには、帳場の外に、もうひとり浪人がいたが、歳三は、八郎の供のようなふりをして、その男と八郎のあいだを、ふさぐような場所に立つ。
峯吉は、いざというときの切り札として、店の外で待たせてあった。
「お待たせいたしました。手前が、主人の嘉兵衛でございます。さて……本日は、どういったご用件でしょうか」
「うむ。じつは、当家の家来が、逐電いたしてな……
それが、この店の用心棒のようなことをしているのを、当家出入りの商人が見かけたと申しておる」
八郎が、いかにも旗本らしい、尊大な口調で言った。
「はあ……それは、光岡さまでごさいましょうか?」
「そうだ。光岡又三郎だ」
「それでしたら、残念ながらご期待には添えかねます。光岡さまは、昨日、いきなり辞めるといって、当店を出奔いたしました」
「なにっ、出奔しただと! 偽りを申すと、ただではおかぬぞ」
八郎が柄に手をかけた。それまでの穏やかな印象は消え去り、凄まじい殺気だ。
主人の横に座っていた浪人者が、あわてて腰を浮かせるが、心形刀流の天才児、伊庭八郎の相手としては、明らかに貫目不足で、完全に気圧されている。
「お武家様。ご無体は困ります。光岡さまは、すでに出奔しており、手前供とは無関係……手前が、お武家様に、嘘を申す理由がございません」
主人が落ち着きはらった態度で言った。何度も修羅場をくぐっているらしく、用心棒などより、よほど度胸が座っている。
「では、行き先を申せ!」
「申し訳ございませんが、いきなりの出奔でございましたので、手前供には、わかりかねます」
主人の態度はあくまでも誠実そうで、嘘をついているようには、思えなかった。
歳三は、さりげなく店内の隅々まで、油断なく観察する。
相変わらず訪れる客は、ひっきりなしで、手代が忙しそうに対応している。
店内の用心棒は、口論になった人足の仲裁で、こちらをかまっている余裕がなさそうだった。
(ふん、祐天め。さすがに、やくざ者に見えるようなやつは、店には関わらせていないようだな……)
歳三は、祐天仙之介の油断のなさに、感心しながら、帳場と奥の境に目をやると……。
(――あいつは、シゲ)
日野宿で痛めつけてやったシゲが、歳三に気付き、あわてて引っ込むのが眼の隅に入った。
歳三が八郎に近づき、耳打ちすると、八郎がうなずいた。
「そうか……あいわかった。邪魔したな」
最後まで尊大な態度を崩さず、八郎が胸を反りかえらせた。
いままでの行動は、すべて歳三の指図だった。
ふたりは、店を出ると、峯吉には、ちらりとも視線を向けず、市森神社のほうに歩きだす。
峯吉が、ふたりを尾行する者がいないか見張っていると、シゲが、あたりを見回しながら、距離をあけて、歳三たちと同じ方向に歩きはじめた。
峯吉は、にやりと笑い、そのあとを追った。
歳三と八郎のふたりは、市森神社の裏手の空き地の隅まで歩くと、ぴたりと立ち止まった。
「八郎さん……いい芝居でしたよ。どうやら、獲物が餌に食いついたようです」
歳三が、不敵な笑みを浮かべた。
その空き地は、ネギ坊主が並ぶ畑の畦の外れにあった。
空き地の北側には、浅川の土手がせまり、東側には雑木林がひろがっている。
八郎が雑木林に眼を向けると、手に手に得物を持ったやくざ者が、次々と雑木林から姿をあらわした。
やくざ者は、全部で八人。その先頭に立つのは、シゲである。
「代貸。こいつらが、いろいろ探りを入れてやがったんでさ」
「シゲ。よくやった。このお兄さんには、ちょっとばかり借りがあってな……」
代貸とよばれた男の顔を見て、歳三が、挑発するような笑い声をあげた。
「おお、誰かと思ったら、いつぞや小仏峠で、竹刀でぶっ叩かれて、白眼を剥いてたお人じゃねえか。まだ首筋は痛むかい?」
「おい、薬売り。今度は、こないだみてえなわけには、いかねえぞ。ここが、てめえの墓場だ!」
代貸が、憎々しげに言い放ち、
「先生! お願いします」
と、場所をあけると、六尺豊かな熊のような浪人者が前に進みでた。
その男は、身体が大きいだけでなく、野生の獣のような精気を、全身からみなぎらさせながら、腰にした、三尺あまりもある大刀を抜き放った。
残りの六人も、それぞれ長脇差を抜き放ち、ギラギラと眼を光らせ、殺気だった空気を放っている。
歳三は、嬉しくてたまらない。といった表情で長脇差を、すらりと抜いた。
ふと、隣を見ると、八郎が、背筋も凍るような、凄艷な微笑を浮かべていた。
「さて、おもしろくなってきたぜ……おう、今日は手加減なしだ。死にてえやつから、順番にかかってきな!」
歳三が言い放つと、叫び声をあげながら、やくざ者が、一斉に襲いかかった。
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