第192話 審判

 

「ぃや、氷雨ッ!!」


 泣き出しそうな顔で手を握ってくれる友達がいる。


「氷雨さん!!」


 黒い翼で抱き締めてくれる友達がいる。


「ッ、氷雨」


 大きな手で背中を支えてくれる友達がいる。


「氷雨ちゃん……」


 小さな声で名前を呼んでくれる友達がいる。


 それが嬉しくて、私は奥歯を噛み締めてしまうのだ。


 翠ちゃんが私の手をこれでもかと強く握ってくれる。


 祈君はルタさんとの同化を解いて抱き締め続けてくれる。


 梵さんは倍増化の力を使って傷を癒してくれる。


 帳君は膝を着いて私を黙って見つめている。


「おい、光!!」


 早蕨さんを抱き締めてくれた人がいる。


「光はん!!」


 早蕨さんの頬に手を添えてくれた人がいる。


「光、おま、どうしたんだ!!」


 早蕨さんの頭を勢いよく叩いてしまった人がいる。


 あぁ、ほらね。貴方を心配する人はいてくれる。貴方だけが想っているわけではない。ちゃんと貴方の事を大事に想う人達がいる。


 梵さんから与えられる治癒力の倍増化のお陰で体の痛みが引いていく。浅くなっていた呼吸は深く出来るようになり、眩暈や頭痛も治まっていった。


「どういうことだ」


「メシアに何をした」


 兄さんと泣語さんの声がする。


 見ると、ユピテルさん達と対峙している兄の背中があった。尾を揺らしている白玉さんや、その背中に乗ってる屍さん。闇雲さんに、時沼さんの背中も見えた。


 泣語さんの足元からはリフカが咲いて、鋭利な切っ先はユピテルさんの方を向いている。


 喋らないといけない。早蕨さんと私が死ねば、競争が終わるらしいと。それで悶着していたと。


 梵さんの片手を掴んでしまう。無表情の彼は「まだ、治って、」と続けようとして、私は口角を上げてしまったのだ。


 彼の片手を早蕨さんの方に向ける。それに梵さんは頷いてくれて、淡雪さんが早蕨さんを動かしてくれた。


 体に上手く力が入らないのだと分かる早蕨さん。彼の肩に手を置いた梵さんは、私達二人の怪我を治していってくれた。


「ありがとう、ございます、梵さん」


「いい。氷雨、今は、喋るな。喋っては、いけ、ない」


 梵さんの手に頭を撫でられ、ひぃちゃんとりず君を翠ちゃんが抱き締めてくれる。私は目を閉じそうになり、震える祈君の腕がそれを止めてくれた。


 不安そうな顔がある。


 祈君と梵さん、帳君と直接顔を合わせたのは三週間ぶりだね。元気そうで良かった。怪我がちゃんと治ってて良かった。


 そう言いたいのに、喉が痛くて上手く喋れない。ちゃんと後で言おう。今は安心させる為に笑っていよう。


「何をしていたかと言われれば、最後の審判ですよ」


「……最後の?」


 サンダルフォンさんの声がする。顔を上げると、ユピテルさんの後ろに控えているサンダルフォンさんとメタトロンさんがいて、私はまた呼吸が浅くなりそうだった。


 いぶかしんだ声を出した兄さん。サンダルフォンさんは首を少しだけ傾けて、その奥にはシュリーカーさんとぺリさん、ガルムさんがそれぞれ一体ずつ跪いていた。


「アルフヘイムに七日七晩の鉱石の雨が降りました。それがこの地面であり木々です。住人が作った為まだ純度は劣りますが、量は申し分ない。だから私は提案したのです」


 サンダルフォンさんの掌が指すのは鉱石で埋まった地面と木々。私は地面を指先で引っ掻いて、小瓶が揺れた。


「早蕨光、凩氷雨。二人の総血液及び肉体を材料に差し出せば競争を終わりにしますと。二人分あれば暫くの間、アルフヘイムの平穏が保たれるでしょうから」


 空気が張り詰める。


 それが分かった。


 肌を刺す感覚に、自然と息を詰めそうになる空気。


 私の肩を抱き締めてくれた祈君と、翼を広げてくれたルタさん。帳君は私の前で片手を広げて、翠ちゃんは手を握り締めてくれた。


 雷鳴が聞こえる。


 一瞬白んだ視界と、それが戻ればサンダルフォンさんの片袖が焼け焦げた光景がある。


 白い長は静かな動作で少し赤くなった腕を見て、メタトロンさんは笑いをこらえているようだ。


「ふざけんな、お前が死ね」


 地を這うような兄さんの声がする。彼の腕からは雷電がほとばしり、サンダルフォンさんが息を吐いた。


「早蕨光は自分一人で良いならばと了承してくれましたよ。自分が死んで仲間を救えるなら本望だと。拒絶したのは凩氷雨です。自分が死んで仲間を救っても、癒えない傷を残すだけだと」


「メシアが正しい」


 泣語さんの肯定の言葉が降ってくる。私の肩は震え、隣から固いものを殴る音と早蕨さんの呻き声が聞こえてきた。


「こんの……馬鹿! 何で了承した!!」


「ほんま、阿保や阿保やとは思おてましたけど……ここまで阿保なお方やとは」


「根性叩き直してやんよ」


 鷹矢さんの怒鳴り声がする。


 恋草さんが呆れかえった声もする。


 淡雪さんに至っては怒りを通り越したような低い声だった。


「……俺だけで十分だと思ったから。みんなを救えるなら、それで恨まれたって、」


「あぁ、恨むよ光。一生恨む。死んでも恨む」


 鷹矢さんが早蕨さんの声を遮る。私は目を伏せてしまい、体から痛みが薄れていく感覚に安堵してしまった。


「お前を犠牲にして生きるくらいなら、死んだ方がマシだ」


「ッ、暁さ、!」


「それくらい分かれ馬鹿!」


 切羽詰まった早蕨さんの声を押さえ、鷹矢さんが再び茶色い頭を殴る。脳震盪のうしんとう起こすのではないかと心配になるレベルで殴られた早蕨さんは、頭を抱えて唸っていた。


「光の説教は後で三人で嫌っつー程するからな」


「まずは、あの仰々しい方々ですなぁ」


 淡雪さんと恋草さんの声を聞いて私は瞼を上げる。サンダルフォンさんは肩を竦めているだけで喋ることはなく、メタトロンさんが笑っていた。


「サンダルフォンに異を唱えるのは俺達ディアス軍だ。鉱石が自分達で作れるならばその研究を進めるべきだろう。競走のように時間をかけることはない。タガトフルムの者の血ではなく、今は兵士の血で鉱石が出来ないかの実験だってしているんだ」


「それが成功するとは限りません」


「失敗するとも言えんだろ。兵士は唯一ユピテルが作っていない、アルフヘイムの狭間の存在なのだから」


 メタトロンさんはゆったりと腕を広げて笑い続けている。紅蓮の瞳はサンダルフォンさんを横目に見て、純白の長は口を結んでいた。


「タガトフルムの人間は嫌い」


 ユピテルさんがそう口を挟む。彼は私達の方だけを見つめており、静かな声で続けていた。


「でも、君達二人の殴り合いも……分からない事もない」


 目が合う。紫の瞳と。


 ユピテルさんは目を細めて「だから」と言い続けた。


「……これが最後の審判。違う軍の違う考えの戦士一人ずつ、どう言う行動を起こすかって言う判断」


 私の背筋が凍っていく。


 まさか審判って、早蕨さんと私の行動を、ッ


「自分達が死ねば仲間を救える。それを断るか否か」


 あぁ、どうしよう。私は――断ってしまった。


 顔から血の気が引いていく。ここで断るのはきっと間違いだった。でも、嘘でも死にますだなんて私は言えなかった。それでも言わなければいけなかった。私が死にますと言う模範解答をしなければ、何を言っても零点だ。


 奥歯が鳴りそうになるのを必死に飲み込み、梵さんと祈君の手が背中を支えてくれる。翠ちゃんは手を握る力を強めてくれて、帳君は言ってくれた。


「間違ってない。氷雨ちゃんは間違えてなんかない」


 あぁ、その肯定が私に呼吸を許してくれる。


 ユピテルさんは目を細めて、白い手は桜色の鉱石を撫でていた。


「その子が死ねば、君達は生きられたのに?」


「氷雨ちゃんが死んでくれたから生きられますって? は、馬鹿らしい。もしそれで生きたとして、その先で幸せになんてなれないね」


 鼻で笑ってくれる帳君。ルタさんは祈君の肩に乗って翼を広げてくれた。


「少なくともこの場に、仲間を死なせてまで生きたいと思う者はいません」


 凛とした言葉をくれたルタさん。私の肩が軽くなる。うつむかせそうになった顔を上げて口を結び、滲んだ視界は瞬きをして押さえ込んだ。


 ユピテルさんが息を吐く。彼は肩を少し落として「質問する」と前置きした。


「凩氷雨も早蕨光も共通したことがあった――自分以外の誰かを使えばいいと言わなかったことだ。それはなんで?」


 聞かれる。


 なんで、なんで……なんで?


 突然の質問に私は目を丸くして、無意識に早蕨さんと顔を見合わせてしまう。


 彼も目を瞬かせて首を傾げており、私は視線をユピテルさんに戻したのだ。


「自分以外の誰かを差し出すなんて、出来ませんし……思いつきも、しませんでした」


 声に力が入らない。ユピテルさんの質問に驚いているからか、何なのか。


 自分の代わりに誰かを差し出せば、その人の血を使ってもらえた? そうすれば私は仲間と生きられた?


 そんな考えは微塵もなかった。自分のことに誰かを巻き込むことも、身代わりにさせることも押し付けることも、そんなの誰が想像するのだ。


 ふと浮かんでしまったのは兄さんの姿。私の呪いを肩代わりしようとした嫌な出来事。


 心底嫌悪した。なんで私の痛みや罰を兄が背負おうとするのかと。そんなの一欠片も嬉しくない。そんなの望まないし、望むっていう考えがまず無い。


 寝耳に水状態の私は「ぇ、だって……出来ないでしょ」と呟いて、頷く早蕨さんを見たのだ。


「誰かを身代わりにって、いや、え? ん? ……そんなのまず、考えませんでした」


 素直に首を傾げ続ける早蕨さん。その目は私を見て、首を縦に振ってしまう。


 ここに呼ばれたのは早蕨さんと私で、選ばれたのも私達だった。そこに他人を身代わりに引っ張ってくるなんて誰が想像するんだよ。


 心底不思議とはこのことか。あまりのことに緊張が和らぎ、ユピテルさんを見てしまう。


 彼は目を少しだけ丸くして、桜色の鉱石を撫でる手が止まっていた。


「……あぁ、そっか、そういう子だったね……君達は」


 そんな呟きと同時にメタトロンさんが大声を上げて笑い始める。額を押さえて犬歯を覗かせて笑う彼は、本当に楽しそうだ。今どこに笑う要素があったのか教えていただきたい。


「そうよ、そういう子」


 翠ちゃんが私の肩に頭を預けてくれる。それが嬉しくて笑ってしまえば、梵さんは柔く頭を撫でてくれた。祈君が笑う声と、帳君の穏やかな声もする。


「それが氷雨ちゃんと、早蕨らしいってね」


 風が私の髪を揺らす。痛くない力加減で、ゆったりと。


 帳君の背中からも力が抜けていき、ユピテルさんは無表情に振り返っていた。


「さぁ、決めようみんな。競争を続けるかどうか。タガトフルムの人間を生贄にし続けるか否か」


 背筋が伸びて、筋肉が固まる気がする。


 願うように翠ちゃんの手を握り返し、もう片手は祈君と繋ぐ。


 耳の奥で心拍が嫌というほど早まる音がする。


 指先は冷えて、鼓膜を最初に揺らしたのはペリさんの声だ。穏やかで、包み込まれるような優しさを持った女性のように聞こえる声。


「誰も殺さずして済むのであれば、それが最良かと」


 その答えに、私の肩が跳ねてしまう。


 次に喋ったのはシュリーカーさん。ムリアンの岩石地帯で挨拶もしないまま別れてしまった、優しい住人さん。


「私はその戦士達が愛おしい。だからどうか、ご慈悲をいただけないでしょうか。タガトフルムを恨むだけが我らの未来ではないでしょう」


 あぁ、唇が……震えるぞ。


 次に動いてくれたのはガルムさん。彼は帳君の頬を鼻先で押してから尾を振って、早蕨さんと私の頬を舐めてくれた。


 視界が滲んでいってしまう。


 次に喋られたのはサンダルフォンさん。静かな湖畔のような声で、そこに凍てつく威圧は乗っていない。微睡むような透明感がそこにはある。


「私は自分の意見を変えません。タガトフルムが憎ければ、その戦士達も私は憎い。その命の重さを平等だとは思わない」


 声は確かに落ち着き払ってるのに、四肢を地面に縫い止めるような鋭さと重みがある言葉。私は奥歯を噛み締めて息を止めそうになっていた。


 最後に意見したのはメタトロンさん。いつも笑って、豪快で、他者を傷つけるのに想える人……私を戦士で居続けさせてくれた人。


「俺はこれ以上アミーとエリゴスを裏切れんのでな。そろそろディアス軍からは反旗も起きそうだ。だからもう十分だろう。タガトフルムに頼らずして、アルフヘイムに生きる者達で未来を考えても良いだろう」


 サンダルフォンさんが残していった痛みを撫でられる気分。痛いのに緩和して、痛むのに温かくて。


 ユピテルさんが深呼吸している音を聞く。


 こちらを見てくれた小さな神様は私達を見下ろしてから、紫の双眼を伏せていた。


 息が止まる。


 腕が震える。


「……繰り返すけど、俺はタガトフルムの人間が嫌いで、これから先も許すことは無いよ」


 奥歯を噛んでしまう。


 友達を殺された。理不尽な理由で奪われた。それを許せだなんて言わない。好きになれなんて言わない。それは恨んでいいし、怒っていいし、嫌っていい。


 私が貴方を恨んだように。怒ったように。嫌ったように。


 奪われた方は奪った方を許せない。


 だから貴方の意見を私は否定出来ない。


 頬を冷や汗が伝っていった。


「でも――選んだ君達の意見は、嫌いじゃない」


 瞬間、目を見開いてしまう。


「自分だけが生き残りたい。誰かを身代わりにすればいい。自分と違う奴は死ねばいい……そんな答えを望んでいたのにさ」


 体全体に鳥肌が立つ。


 自分の指の関節が白く浮いているのが分かる。


「四対一だしな……俺ももう少しだけ――足掻こうか」


 私の目の前は滲みっぱなし。


 呼吸が早くなりそうになるから、必死に否めて顔を上げ続ける。


 ユピテルさんは瞼を上げて、初めて――仕方がなさそうに笑ってくれたから。


 願ってもいいですか。


 閉じ込めていたものを、溢れさせてもいいですか。


 もう、裏切らないでくれますか。


 私は両手を握り締めて、ユピテルさんの声を聞き漏らすことなどしなかった。


「競争は――終わりだね」


 あ、


 涙の膜が、決壊した。


 頬をうだり、流れ、流れて、止まらない。


 視界が滲んで前が見えない。


 膝に、手の甲に、地面に、涙が溢れて染みていく。


 大粒の雫が、溢れて、溢れて、溢れ、て――


「ぅ、ぁ、あぁ……」


 言葉にならない。言葉に出来ない。言葉が吐けない。


 どれだけ待ったか。どれだけ求めたか。


 閉じ込めて、押し込んで、出てきそうになったのをまた閉じ込めて。溢れさせても閉じ込めて、渇望して、渇望して、裏切られて、切願してッ


 その言葉を、どれだけ望んできたか。


 どれだけ、どれだけ閉じ込めて、捨てられずに歩いてきたのか。


 勝たなくていい。負けなくていい。傷つかなくていい。傷つけなくていい。殺さなくていい、死ななくて、いいッ


 私の両目から涙が溢れて止まらない。


 誰が最初に、声を上げたのか。


 それは喜びか、驚きか。


 緋色が地面の上を跳ねる。


 その背中に乗った茶色が泣き喚く。


「あぁ、あぁ、なんて、なんて素敵な日ッ」


「やった、やったぞらず! 氷雨、やったんだ!! あぁ、うあぁぁ、アミーッ!!」


 二人の声に鼓膜を揺さぶられ、嗚咽がどんどん我慢出来なくなっていく。涙が溢れ続けて止まらない。どれだ顔を覆って拭っても止められない。


 梵さんは頭を抱えて、詰まりながら言葉を吐く。


「エリゴス……やった、ぞ……もう、誰の、墓も……立てなくて、いい」


 伏せられた梵さんの顔から雫が流れ落ちていく。それは地面に落ちて、弾けて、消えていた。


 翠ちゃんが梵さんの背中と私の肩に手を乗せて、泣きながら笑っている。


「どうしよう……体の震えが、止まらないわ……」


「ぅん、うん、うん……う、あぁぁ……」


 何度も何度も頷いてしまう。私を抱き締めてくれる祈君に何とか腕を回せば、彼も抱き締める力を強めてくれて、そこに突撃してくる人がいたんだ。


「祈ッ、やった、やったよッ、やったんだ!!」


「兄貴ッ!!」


 泣き続ける祈君の頭を叩くように撫でる闇雲さん。祈君の腕を少し動かしてやれば、弟君はお兄さんに力一杯抱き着いていた。


「出雲ッ!!」


「しぃ~らたまぁ!! っしゃあ!! いったッ!?」


 屍さんを地面に押し倒しながら大喜びする白玉さん。屍さんは大声を上げて笑い転げており、その隣にいた兄さんは私の前に来てくれる。泣きながら膝を着いて、眉を寄せて。


「氷雨」


「うん、」


「……氷雨」


「いるよ」


「あぁ……ひさめ」


「兄さん」


 翠ちゃんが背中を押してくれる。私はその流れで両手を広げて、兄さんは抱き締めてくれたから。


 まだ、涙が流れ続けてしまう。柄にもなく咽び泣いてしまって、兄さんは何回も頭を叩いて、撫でて、笑ってくれた。


「時雨さん……凩……」


 兄さんから腕を離せば、膝を着いて大粒の涙を零している時沼さんがいる。その横では帳君が片手で顔を覆っていた。


「時沼……頑張った」


 そう言って、兄さんが時沼さんの頭に手を置いている。それが時沼さんの線を切ったようで、金髪の彼は嗚咽を零しながら泣いていた。


「俺、俺、ごめん凩、ごめん、俺、俺……!」


「時沼さん、謝らないでください、謝られるのは嫌だから。ありがとう、ありがとうございます」


 時沼さんの頭を兄さんと一緒に撫でて笑ってしまう。大泣きながら笑ってしまう。


「メシア、貴方に明日がある、あなたにみらいが、あ、あぁ……あぁぁ……」


「泣語さん、泣語さんにもあるんです。明日があるんですよ」


 言葉にならない感情を涙と共に吐き出してくれる泣語さん。彼の手を握って勢いよく振れば、彼は地面に倒れ込んでしまいそうだった。


 そうすれば腕を引かれたから、私は茶色い猫毛に気づくのだ。


 ピアスを沢山つけた、今日までずっと共にあった人。


 帳君は私を抱き締めて、小刻みに震える体が気持ちを表していて。


 私は縋り付くように帳君を抱き締め返す。耳元から聞こえる小さな声は、今までで一番、帳君を見られた気がするんだ。


「氷雨ちゃん……マジかぁ……ほんと、あー……」


「帳君、みんな頑張った。帳君、滅茶苦茶頑張った」


「氷雨ちゃんも頑張った、全員頑張った……あー……最初はこんな競走、ゲーム感覚でいたのにさぁ……」


 帳君の腕に力が篭もる。初めて貴方と空を飛んだ日。そういえばそんなことを言っていたね。


「偉業だよ、偉業」


 そう言って頭を撫でてくれる人がいる。


 そこでは口角を吊り上げた夜来さんが私達の頭に手を置いて、笑ってくれていた。


「夜来さん、ほんとに、あぁ、私は貴方に、貴方の望みを、今だって何も返せて」


「いいから、今は喜び噛み締めてな」


 そう言って額を弾かれ、私は泣き笑いをしてしまう。夜来さんは肩を竦めると不意に体を横にずらして、帳君と私の上に影がさした。


 翠ちゃんと、梵さんと、祈君。


 三人が思い切り抱き着いてきて、受け止めきれない帳君と私は地面に背中から倒れ込む。


 それに全員呻いて顔を見合わせ、声を上げて笑ったんだ。


 青い空に吸い込まれていく笑い声。


 空気を揺らす泣き声。


 私は透き通る青空を見上げて、殴り合いをした彼が立ち上がるのを見たんだ。

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