第193話 終幕

 

「うおああああ! 細流勝負だおい!!」


「空気くらい読まんといけませんよ、博人はん。光はんのお説教が先なんとちゃいます?」


 拳を突き上げ立ち上がった淡雪さんが、梵さんに勢いよく詰め寄っていく。それを見た恋草さんは笑いながら砂を操って淡雪さんを叩き潰していた。


 容赦がない。とても容赦がない。


 私は涙を拭いながら起き上がり、固く抱擁してくれる翠ちゃんに腕を回す。軽くしゃくり上げている彼女は恋草さん達を確認して、私の背中を叩いてくれた。


「氷雨」


 名前を呼んんでもらえて、それが背中を押してくれる。


 だから私は頷いて、しっかりと地面を踏み締めて立ち上がった。


 目の縁を赤くし、大粒の涙を零して、それでも笑い続けてくれる早蕨光さん。


 私は彼に近づいて、ひぃちゃんとりず君が肩に戻ってくれた。


「早蕨さん」


「氷雨さん」


 呼び合って私は立ち止まる。それでも早蕨さんは足を止めないから驚くのだ。


 え、待て待てなんでだ。


 思う前に抱擁されて、私は一瞬だけ思考が停止してしまう。


 力強く抱き締めてくれる早蕨さんの体は震えていた。それは目視でも確認出来る程で、鼻をすする音もする。「あー……」と声を零す早蕨さんはもうどこも痛くないのだろう。


 彼は揺れる声を私に届けてくれた。


「……殴ってごめんなさい。俺が死なないように立ち向かってくれて、ありがとう」


 謝罪と、お礼。


 私は目を丸くしてから笑ってしまう。まだ少しずつ流れる涙は、止め方が分からないので無視をしよう。


 貴方が謝るのかと思ってしまった。貴方がお礼を言うのかとも思ってしまった。


 私は早蕨さんの背中に腕を回して、伝えるのだ。


 謝らないぞって思ってたけど、こうなってしまっては謝りたくなって仕方がないから。


「こちらこそ、殴ってしまってごめんなさい。諦めない貴方と出会えたから、ここまでくることが出来ました」


 きっと早蕨さんと言う正しい人と出会っていなければ、私はスティアさん達にお願いなんてしていなかった。ユピテルさんを捕まえることだって出来なかっただろうし、どこかで弱く折れていたとも思う。


 貴方がいたから私は折れずに進めた。私が閉じ込めた希望をいつも口に出して、現実にしようと奔走していた貴方に出会えたから。


「氷雨さん達のお陰なんです。結局俺は何も出来なかった」


 早蕨さんの言葉を聞いて息を吐いてしまう。


 彼はそうだ。真っ直ぐと強い言葉を吐く癖に、自信を全く持っていない。


 私は早蕨さんの背中を撫でて、ひぃちゃんとりず君は彼の肩に乗ってくれた。


「早蕨さんが決して折れなかったら、結局私達も……この結末を望んでしまったんですよ」


 貴方が決して私達を見捨てなかったから。敵にしなかったから。結局負けて、望みを溢れさせてしまったのだ。


 殺さなくてはいけない。勝たなくてはいけない。生贄を集めなくていけない。そうしなくては生きられない。


 窒息して、酸欠になって、足が震えて、倒れそうになって。それでも進んできた中で、全てを諦めなかった貴方達を見てしまったから。


 早蕨さんは呼吸を落ち着かせながら私から離れ、涙を零しながら右手を差し出してくれた。


「凩氷雨さん。改めまして、俺、早蕨光って言います」


 あぁ、そうだ。私達は何度も顔を合わせてきた癖に、いつもすれ違いばかりだった。


 ひぃちゃんが嬉しそうに私の肩に乗って、りず君は頭に上ってくれる。


 私は温かな気持ちで右手を差し出した。


「早蕨光さん。改めまして、凩氷雨と申します」


 右手同士を握り合わせて、握手する。


「よろしくお願いします」


 そう早蕨さんが言ってくれるから。


「よろしくお願いします」


 私はやっと、貴方に素直に笑えたよ。


「やっと、貴方と友達になれた」


 早蕨さんは心底幸せそうに笑ってくれる。握り合わせた手を揺らせば、彼は輝く瞳で言ってきた。


「俺のこと光って呼んでいいですから。苗字で呼ばれるの落ち着かなくて」


「……なら、敬語も止めますか?」


 何となく確認してみる。


 早蕨さん、いや、光君か。落ち着かないので慣れるのには時間がかかりそうだ。


 目を瞬かせた彼は幼い子のように飛び跳ねた。握手したまま。あの、腕、腕ッ


「そうしよう! あぁ、今日は本当に良い日すぎて困る!!」


「光、揺れる、氷雨の腕がちぎれるから!!」


「あ、ごめん!!」


「はい偽善者ドロップアウトー」


 気分が完全に高揚状態にあった光君が蹴り飛ばされて握手が外れる。蹴り飛ばしたのは笑顔でため息を吐く帳君だ。相変わらず器用だな。


「結目君!! 今日を機に君のこと帳君って呼んでいいかな!?」


「落ち着け馬鹿、あと名前呼ぶな」


「えー」


「えーじゃない。氷雨ちゃん、喜び爆発は一旦お開きらしいよ」


 帳君が私の涙を服の裾で拭ってくれる。申し訳ない。「ごめん」と苦笑すれば、帳君は仕方がなさそうに笑ってくれた。


 私は少し鼻をすすってから振り返る。


 そこにはそれぞれの担当兵さんが転移している光景があって、帳君の隣にもオリアスさんが現れた。幸せだと分かる表情で、目の縁を赤くして。


「やっと終わった。君達のお陰で……本当にありがとう」


 オリアスさんが笑ってくれる。私達を見守っていてくれた人。穏やかで、自分の戦士のことを守りたいと言う空気を纏った、強い人。


 帳君は担当兵さんの肩を一度叩き、私は首を横に振った。お礼を言われるのは違う気がするから。


 私達はただ生きていたかっただけだ。最初はルール通りに進もうとして、進んできて、でも少しの欲が抑えられなくなってしまった。その結果が今だと言うだけだ。


 そんな言葉を考えた頭を撫でられる。見るとオリアスさんが泣きながら笑っていたから、私は言葉を飲み込んだのだ。


「さぁ、お別れの時間だ」


 彼は言って、私の頭から手を下ろす。それから帳君の手を取ると一瞬にして消えてしまった。


 タガトフルム、戻った。違う。黒い手はなかった。ならば転移。何処へ、今になって。


 驚いて周囲を見渡せば、翠ちゃんはヴァラクさんと、祈君はストラスさんと。梵さんはグレモリーさんと転移していき、時沼さんや泣語さん達も白い兵士さん達と消えて行ってしまう。


 私はその状況に着いていけず、隣に現れた白に対する反応が遅れた。


 振り返る。銀の短髪に黄金色の双眼。儚い空気を纏った兵士さん。


 目が合った彼はゆっくりと瞼を下ろしていた。


「ベルキエル、何の用だ」


 兄さんが私と兵士さんの間に立ってくれる。ベルキエルさんと呼ばれた兵士さんは瞼を上げて「時雨」と呼んでいた。


「競争は終わった、君達はもう戦士ではなくなる」


 穏やかな声で告げられる。


 私の心臓が一度強く拍動し、冷や汗が浮かんだ。


「分かるかい、この意味が」


 ベルキエルさんの視線が動き、私はその視線を追ってしまう。


 私の肩にいるひぃちゃん。


 頭にいるりず君。


 腕の小瓶の中にいるらず君。


 あぁ、終わるとは――別れだ。


 だから、お別れの時間なんだ。


 そうだ、そうだ……そうなんだ。


 私は口を結んで、大事なパートナー達を腕に抱いた。


 あの夕焼けの日のように。初めて出会った日のように。


「私達を戻すんですね」


 ひぃちゃんが穏やかな口調でベルキエルさんに聞く。彼は頷いて、りず君は「でもさ」と確認していた。


「俺達を作ったのはアミーだろ? それをお前が元に戻せるものなのか?」


「……兵士にはそれぞれ教育係がいる。教育者だけは後輩の力に干渉出来るんだ」


 ベルキエルさんは目を伏せて答えてくれる。


 ルアス軍のベルキエルさんが、ディアス軍のアミーさんの、教育係。


 湧いた疑問は飲み込んでおく。いない人の過去を掘り返しても何にもならない。


 これ以上深入りすれば、目を伏せることで自衛したのだと思わされるべルキエルさんを傷つけてしまう気がするから。


 だから聞かずに知らないまま、言葉を真に受けて笑え、氷雨。


 震えた唇は無視をしよう。抱き締める力を強めた腕は、我儘な私の許されない抵抗だ。


 ひぃちゃんとりず君も笑ってくれる。小瓶の中のらず君も笑ってくれた気がするなんて、便利な解釈だね。


「祝福は結局どうなるんだ」


 兄さんが確認してくれる。ベルキエルさんは視線をずらし、それを追うように兄さんと私も振り返った。


 視線の先にいるのはユピテルさん。彼は少しだけ目を伏せてから答えてくれた。


「祝福は与える。最後の戦士達も死んだらアルフヘイムの糧にするから」


 タガトフルムが嫌いな神様。彼のその目は私達を見つめており、私は確認してしまった。


「その時は、やっぱり忘れられてしまいますか」


「そうしないと残された人が悲しむだろ」


 あぁ、なんて純粋な人。誰かを想えるのに残酷で、嫌悪しているのに慈悲を配る。


 それでも、その純粋さは凶器になると思うから、私は自分の意見も伝えなければいけないと考えたのだ。


「忘れてしまう方が悲しいと、私は思うんです」


 口にする。そうすればユピテルさんは目を見開いて間を作り、濁りの無い声で確認してきた。


「なんで、忘れる方が悲しいの?」


「……確かに、死んでしまうのも、光りになって消えるのも悲しいことです。それでも、その人と過ごした思い出まで無くしてしまってはしのぶことすら出来なくなるから」


 ユピテルさんに伝えておく。


 伝わるかな、伝えられるかな。


 このまま進んでしまえば、私はお父さんとお母さんのこともいつか忘れてしまう。それは嫌だ。お願いだから消さないで。私から、好きで止まない家族の記憶を奪わないで。


 ユピテルさんは少し後退して視線を揺らし、腕では桜色の鉱石が光っている。私はそれを見て言葉を続けたのだ。


「これは、ユピテルさんがタガトフルムの友人との記憶を消さないのと、同じ気持ちなんです」


 そこに違いはないと思うから。タガトフルムを嫌いになる原因で、辛くて仕方がない筈なのに貴方は覚えている。忘れることはなく、思い続けて今に至っている。


 ユピテルさん、伝わりますか。貴方が私達にしようとしていることは、貴方から友達の記憶を消すことと同義だ。


「……君はやっぱり、変な子だ」


 言われてしまう。私は肩を揺らし、ユピテルさんがまた黙ってしまった。その沈黙は長く、重く、彼は抱えている桜色の鉱石を見下ろしている。


 私は奥歯を噛んで、兄さんが肩を抱いてくれた。この温かさすら、思い出すら、相手がいなくなれば忘れてしまうだなんて。私は耐えられない。


 強く思ってユピテルさんを見つめれば、彼は不意に呟いていた。


「雪乃のことを忘れたら、俺は俺でいられないだろうな」


 その答えならば、と。


 期待してしまう愚かな私を、許さないで。


 ユピテルさんが顔を上げてくれる。彼は浅くため息を吐いて、言葉をくれた。


「分かった。いいよ、消さないであげる。その方が俺の労力も減るから。君も君の親も忘れさせてなんてあげない」


 その言葉に目を丸くしてしまう。安堵と、驚きから。


 私の親のことを知っていた。いや、覚えていたと言うほうが正しいのか。何年も経って、何十人といた戦士の中で、貴方は覚えていてくれたのか。


 私の唇が震える。深く頭を下げれば、口は自然と言葉を零していったのだ。


「ありがとうございます」


 今まで何人もの戦士が死ぬ原因を作った神様。無慈悲に無垢に、世界を守りたいからと無茶をしてきた中立者さん。アミーさんとエリゴスさんを死なせたのは彼の鉄槌だ。


 そんな黒い感情が渦巻く中でも、吐きそうなほど恨んでしまった相手でも。今だけはお礼を言わずにはいられなかった。


 奪わないことを選んでくれた。残すことを許してくれた。私達に明日を与えるという選択をしてくれた。


 ごめんなさいアミーさん。貴方に痛い思いをさせた人に、私はお礼を言ってしまいました。


 罪悪感が私の頭を上げさせる。ユピテルさんは私を見つめており、静かな声をくれた。


「その言葉は受け取らない。その言葉を貰う資格が俺にはないからね」


 ユピテルさんの顔に影が射し、彼はきびすを返してしまう。私は口を結んで、りず君とひぃちゃんが腕を撫でてくれた。


「サラマンダーのシュスに行くよ、サンダルフォン、メタトロン」


「はい」


「承知」


 ユピテルさんの手を取って転移するサンダルフォンさん。白い彼は最後にこちらに視線を投げて、何も言わずに消えてしまった。


 この選択では、彼が危惧していたルアス軍の兵士さんの使命は無くなってしまったのだろう。それでも決定を否定することはせず従順に着いていった彼は、やっぱりユピテルさんが大切なのだと思わせられる。


 ペリさんは会釈して天へと戻っていき、ガルムさんも駆け出してしまう。


 シュリーカーさんも目を覆って走り出そうとしており、私は反射的に呼び止めてしまった。


「シュリーカーさん!」


 彼は上げた足を止めて、振り返ってくれる。


 私は笑ってしまい、手紙に答えてくれた彼女を思い浮かべたのだ。


「色々とありがとうございました。もし……もし、サラマンダーのシュスの近くに行くことがあれば、少しでいいんです。どうかスティアさんという方に、姿を見せてあげてくれませんか」


 頭を下げて「お願いします」を伝える。シュリーカーさんは暫し黙ると、私の前に来て頭を撫でてくれたのだ。


「スティアだね。覚えたよ。本当に瞬きのような時間しかないだろうが、それでも姿を見せてあげよう」


 あぁ、やっぱりこの人は、どこまでも優しすぎる人だ。


 顔を上げれば満面の笑みを浮かべてくれたシュリーカーさんがいて、彼は私の頬を撫でてくれた。


「私からも一つ。イノリと言う少年に伝えてくれ。君は十分優しい子だと、誇っていいと、それでいて勇敢だったと」


 私の頬が自然と緩んでしまう。何度も首を縦に振って「伝えます、必ず」と承知すれば、シュリーカーさんも満足そうに頷いてくれた。


「私達を知ってくれた君達の未来に、多くの幸せが降り注ぐよう願っているよ」


 そう言い残して走り出してしまったシュリーカーさん。風のように素早く、小さな地震が起こったと錯覚させるほど地面を蹴って。


 厄災を呼ぶ妖精。忌み嫌われ、姿を見せれば逃げられてしまうアルフヘイムの番人。その声は周りに嫌悪を与え、その目は遠くの厄災を見つけ、その恐怖は住人さんを守るものだから。


「氷雨、やり残すな」


 りず君に言われて、私は片手を思いきり上げる。今にも見えなくなってしまいそうな、慈愛溢れる住人さんの背中に向かって。


「シュリーカーさんに、幸あらんことを」


 腕を振ってゆっくり下ろす。その耳に私の声は届いたかな。届かなかったかな。


 確認する術なんてない。彼らは出会うことを望まれない妖精だから。


 息を吐いた私は瓦礫を踏む音を聞いて視線を動かした。


「ねぇ、俺もサラマンダーのシュスに連れてってくれない?」


「ほぉ、別に構わんぞ」


 無表情に願い出た夜来さんと、口角を釣り上げて了承したメタトロンさん。その姿に私は目を丸くして、ベルキエルさんが息を吐いた音を聞いた。


「夜来さん」


 反射的に呼んでしまう。夜来さんは私の方に視線を投げると口角を意地悪く上げていた。


「じゃあね凩さん。適当な感じで生きていきなよ。俺も適当に死に方探すからさ。あ、ベルキエル、あの時はごめんねー競争ほったらかして」


「……別に、君は元々競争に興味が無い子だったからね」


 夜来さんの声は余りにもあっけらかんとしていて、私の方が拍子抜けしてしまう。


 しかもなんだよ、その言い方だとベルキエルさんは貴方の兵士さんだったことになるだろ。世間が狭い。驚きがついていかないだろ、おい。


 私はベルキエルさんと夜来さんを見比べてしまい、二人の間に情や心残りがあるようには見受けられなかった。それを理解して、夜来さんをやっぱり見てしまう。


 モーラの孤島で戦士を殺していた戦士。その頃の彼の狂気を今では感じることが出来ず、目を伏せて微笑んだ表情は確かに決めた顔だったから。


「まぁ、死ぬ前にアルフヘイムに貢献する方法も探すけどね。ただで死ぬには、俺は悪い奴すぎるから」


 そう言ってメタトロンさんの腕に触った夜来さん。メタトロンさんは肩を揺らして笑い、私を一瞥してきた。


「感謝するぞ、凩氷雨。お前は俺の望みを叶えてくれた」


 ――俺は、我が王の自由と幸福を望んでいる。そして同時に、友に対する贖罪しょくざいを望んでいる


 メタトロンさんの声が浮かぶ。私は口を結んでから、弱く首を横に振るしか出来なかった。


 そんな私を、メタトロンさんはやっぱりどうして笑うんだ。


「お前はもう少し自信を持つべきだな」


「違いない」


 夜来さんまで笑っている。私は眉を八の字に下げた自信があり、それでも努めて笑ったのだ。


「私はただの、心配性なんですよ」


 備えあれば憂いなし。心配の芽は一つずつ潰して、面倒くさい状態にはなりたくなくて、だから何かをしなければいけないと思う心配性。


 メタトロンさんは満面の笑みを浮かべるだけで何も言わず、転移の体勢に入ったようだった。


 夜来さんも息をついて、消えていこうとする。


 彼は悪い人。モーラさん達が悪だと言って、私達の尺度で測った時も悪だと思ったその人。


 確かにそうだよ、夜来さん。貴方は悪人だ。何も知らない戦士の人達を、好きな人を守るという名目で殺してきた人だから。モーラさん達が望んでいないと言うことにも気づかずに、自分が抱えた愛だけで進んできた。


 それでも、それでもね。


「夜来さんは、早蕨さんと私にとって――良い人でもあったんです」


 その身をていして守ってくれた。無茶な我儘にも付き合ってくれて、どんな悪態を吐いても誰かを見捨てることはしなかった。後輩だと言って私達の背中を押してくれた。


 だから貴方は、悪だけではないと伝えたくて。どうかこれから先、自分は悪い奴だからを口癖にしてほしくないと思ったんだ。


 夜来さんは目を丸くした後、泣きそうな顔で笑ってくれた。


「本当、良い子過ぎるよ……君は」


 そう言ってメタトロンさんと夜来さんが消える。


 私は息を吐いてしまい、兄さんが頭を柔く撫でてくれた。見上げれば少しだけ口角を緩めてくれた彼がいて、私も肩から力が抜けてしまった。


「さぁ、もういいよね」


 ベルキエルさんの声がする。兄さんと私は振り返り、凛とした兵士さんの前に並んだ。


 ひぃちゃんとりず君を抱き締める。抱き締めて、額を寄せて、泣かないように歯を食いしばって。


「先に俺の力を抜けよ、ベルキエル」


「分かった」


 そう言って兄さんが一歩踏み出してくれる。横目に私達を見下ろした彼は、乱すように私の髪を撫でてベルキエルさんに向き直っていた。


 ベルキエルさんは口数少なく頷くだけ。白い手袋をした手が揺れたと思うと、それは兄の鳩尾に容赦なく突き入れられた。兄さんは眉根を寄せたが痛くはないと知っている。それでもやっぱり、光景だけ見れば発狂ものだ。


 兄さんの鳩尾から輝く金色の宝石が抜き出される。それはベルキエルさんと兄さんを照らして、兵士さんの掌へと吸い込まれていった。


 兄さんは鳩尾を撫でてから掌を見下ろしている。


「静電気だからね。ちょっとだけ強い電気が起きるって程度の祝福だよ」


 それは、きっと生活に全く支障が起きないというものではない。私は兄さんを見つめてしまい、彼も私を見下ろしてきた。その目は満足そうに笑っており、私は口を結んでしまう。


「さぁ、次だ」


 ベルキエルさんの黄金色の瞳がこちらを向いてくる。私は少しだけ息を呑んで、最後にひぃちゃんとりず君に顔を埋めた。


 深呼吸して、深呼吸して、深呼吸して。


 涙を堪えて顔を上げた。


「大丈夫です氷雨さん。私達は貴方の中に戻るだけです」


 ひぃちゃんの穏やかな声がする。


「氷雨と一緒に戦えて嬉しかったぞ」


 りず君の嬉々とした声が聞こえる。


 だから私は顔を上げて、努めて笑ってみせたのだ。


 返事は出来ない。今返事をすれば、泣いてしまう気がするのだもの。


 ベルキエルさんは私達に近づいて、何を考えているか分からない目で見下ろしてきた。

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