第178話 妬心


 氷雨達は走り続けていた。


 暗闇を駆け抜け、背後から感じる冷気から遠ざかることだけを思い、白い階段を上っていく。


 進む度に心が凍り付いていきそうだった。冷気が執拗に追いかけてきた。


 氷雨は唇を噛み、不意に冷気が止まった感覚に手を握り締めたのだ。


 それは彼女達が次の扉に辿り着いた時。全員が息を切らせ、後ろを振り返ってしまう。


 階段の途中までは薄く氷が張っていた。その冷気が止んだということは、休怠きゅうたいの扉が閉じたと言うことだ。


 氷雨の中に渦巻く感情が言葉にならず、呼吸のまま吐き出される。少女は左胸を掻き毟り、頭を抱えたのだ。


「氷雨、何も言うな」


 口を開きかけた妹を兄は黙らせる。顔を上げた氷雨は唇を噛んでいる時雨を見て、やはり何も言えずに終わったのだ。


「さぁさぁさぁ! 行こうじゃないか氷雨ちゃん、祈君、帳君に~、光君と音央っち!」


 出雲は溌剌とした笑顔で氷雨と祈の肩を叩き、白玉が鼻先で扉を押している。帳は眉間に深く皺を寄せ、光も視線を上げられなかった。


 時雨はその様子を見て、俯く祈と氷雨の頭に手を乗せた。


「お前らの目的はなんだ?」


 静かな声色で確認する時雨。


 手を乗せられた二人の肩は微かに揺れ、氷雨はりずとらずを腕に抱いた。


「中立者さんを、生贄にすること」


「そうだな」


「そして私達の目的は、君達と一緒に進むことだよん」


 時雨の肩に腕を置いた出雲が笑う。氷雨と祈は歯痒そうにしかめた顔を上げてた。その様子を見た出雲も時雨も柔らかく頬を緩め、青年はふと光の方にも視線を向けた。


「早蕨、お前の目的は?」


 責めるような色はそこにはない。労るような声色に光は視界が滲んだ気がしたのだ。


 目を固く閉じた光は、苦しいと叫びそうな声を吐いている。


「中立者さんの所に行って、競争を……止めてもらうことですッ」


「……そうだな」


 時雨は頷き、氷雨と祈の頭から手を下ろす。帳は次の扉を見上げ、体の重さが彼の気分さえ憂鬱にさせてしまいそうであった。


 それを見た祈と氷雨は少年と手を繋ぐ。繋がれた少年は肩を揺らすと、静かに深呼吸を繰り返していた。


 音央はそんな彼らの様子を一歩引いた場所で見つめている。


 視線はいつも一人の少女へと向けられ、彼は口角を緩やかに上げているのだ。


 時雨はその様子を視界に入れつつ、扉に手を当てる。出雲は白玉と共に反対側に手を付き、扉を開けていった。


 漏れ出てくるのは酷く重たい、頭が下がりそうになる空気。畏怖いふさせる力。


 けれどももう、その重さに怯えるような者はいない。


 時雨と出雲が見たのは黒だった。


 一切の明かりというものがない部屋。埋めているのは黒。努めていなければ呼吸の仕方を忘れそうになる暗闇。


 唯一輝いているのは、部屋の中央だと思われる所でとぐろを巻く蛇だった。


 薄い茶色の皮膚に濃い茶色で描かれた縞の模様。頸部けいぶが広がっている姿は一般的にコブラと言われる動物だが、広がった皮膚の中はくり抜かれ、向こう側が見える為に違和感がある。


 体の前部を直立させ、輝く獣の目は赤々としている。暗闇を照らす灯火のように優雅に、優美に。


 その奥にある扉が閉まっていく音だけを戦士達は聞く。けれども見えない扉との距離は測りあぐねていた。


「我はアポピス、第五の階層を司る獣である。他者を妬む戦士達。我はそなた達に、妬心としんの罰を与えよう」


 唯一輝く獣、アポピスが細長い舌を見せながら声を発する。戦士達は直ぐに動けるよう構えを取り、音央は種を部屋中にばら撒いた。


 種は瞬時に開花し、眩く光る花弁を生む。それは部屋の中の光源となり、扉までの道が微かにではあるが照らされた。


 花の名前はヴィエ。自らを発光させ、旅人の道を示す花とされている。


 その光りを頼りに戦士達は部屋を駆けていく。


 アポピスは部屋の花一つ一つを視線で追い、大きく口を開けた。


 不意に、輝いていたヴィエの一つから光りが失せる。


 それに音央は驚き、次々とヴィエの輝きは無くなっていった。


 一輪、また一輪と輝くのを止めて萎れていく花達。


 音央は視線を走らせ、アポピスの嚥下する仕草を見た。


 アポピスの体は光り続ける。眩く神々しく、絶対的に。


 しるべが無くなった戦士達はアポピスの光りに目が眩み、扉のシルエットだけでなく、壁や天井との距離感すら失ってしまった。


「我は光りを吸収する獣である。戦士達、そなた達の目は何故眩んでしまったのだ」


 輝くアポピスは憐れむように戦士達を一瞥する。暗闇の中で圧迫感を背負い進むことが出来なくなる戦士達を、獣の目だけは見ることが出来ている。


「神に背いて何になる。死に急ぐとは愚の骨頂。その命の灯がいらぬと言うなら我に差し出し事切れよ」


「ッ、ざっけんなよ、この」


 祈が翼を広げて羽根を打ち出す。それを視認したアポピスはなめらかな動きで躱し、時雨はその隙に雷電を腕に纏った。


 青年は雷を扉があると仮定した方向に放つ。その機転により戦士全員が扉の形を再度確認した。


 ひぃは素早く羽ばたき、出雲を乗せた白玉も駆ける。


 速さを誇る心獣が二体。既に三割は閉まった扉に向かうことこそ最優先。


「輝きなどこの部屋には不要である」


 アポピスの長い尾が走っていた時雨に巻き付く。驚く青年を他所よそに、獣は戦士を顔から床に叩きつけた。


 時雨の額が鈍い音を立てて切れ、暗闇の中に赤が飛び散る。その音を聞いた白玉とひぃの速度が一瞬だけ緩んでしまった。


 その瞬間を獣は見逃さない。アポピスは時雨を重りに尾を振り抜き、軌道上にいた出雲と氷雨を青年で殴打した。


 三人に一気に負荷がかかり、時雨が離された勢いで壁に激突する。


 りずがクッションになる暇も無く、暗闇のせいで反応が遅れた三人。時雨と出雲の体には一気に冷や汗が溢れ、最も小柄な氷雨が壁に叩きつけられたことに血の気が引いた。


「氷雨ちゃん‼」


 床に足を着いた瞬間出雲が氷雨を抱え、時雨も霞んだ視界で立ち上がる。氷雨は目を白黒させており、その背中と壁の間に挟まれた緑色を確認したのだ。


「……リフカ、が」


 氷雨が呟き、出雲と時雨も平たくなったリフカを見る。黒の戦士は顔を上げるが、暗闇の中では灰色を見つけることが出来なかった。


「出雲‼」


「白玉! 私はいいから扉優先!」


 白玉は背中からパートナーが消えた焦りで声が上ずってしまう。彼を落ち着かせる言葉を発した出雲は、自分の心獣が再度駆け出す感覚を得ていた。


「氷雨、氷雨わりぃ!! 俺がもっと、ちゃんと!」


「りず君、君は悪くない」


 泣き出しそうなりずに氷雨は笑う。茶色い針鼠は欠けている針を揺らし、ひぃは氷雨の考えを受信した。


 アポピスだけが輝く部屋でドラゴンとパートナーの視線が交わる。氷雨は笑い、ひぃは頷いた。


 音央は部屋に再びヴィエの種をばら撒き開花させる。その光りは直ぐにアポピスに吸い込まれているが、ただそれだけだ。


 灰色の戦士は扉の方へとヴィエを投げて道を示す。その一瞬の灯火を頼りに白玉が扉の隙間に滑り込んだ。


 白銀の狼が扉を押さえる為に四肢を踏ん張り、光も壁を跳ねて扉の隙間に飛び込んでいく。


 扉を押さえた少年は腰を落とし、少しでもと歯を食いしばるのだ。


 音央は飛び上がったひぃを微かな明かりの中で確認し、リフカでアポピスの頭を叩き潰しに向かう。それを獣が躱すうちに、緋色は翼を勢いよく羽ばたかせた。


 風を切り、空気を割き、目を見開いているひぃがりずと共に扉の隙間に滑り込む。


 りずは床に落とされる間につっかえ棒へと変身し、扉の進行を妨げた。


 帳も扉の方まで一直線に風に乗り、一瞬だけ氷雨を確認する。


 その一瞬を見逃さないのがアポピスであり、獣の尾が帳の足首に巻き付いた。


「ッ、な、‼」


 帳が息を呑んだ時には既に、彼の体は元来た方向へと勢いよく引かれる。そのまま少年は入り口隣の壁に叩きつけられたのだ。


 伸縮するアポピスの尾が帳から離れていく。空気のクッションを挟んだ帳ではあったが、それが薄かったせいで衝撃を殺しきれていない。


 眩暈を覚えた帳はそれでもと、手を握り締めて立ち上がった。


「くっそ……また最初っからかよ」


 少年は再び風に乗る。音央がヴィエを咲かせているお陰で扉のシルエットは見えていた。


 アポピスは輝きを吸い続け、光と白玉の体力が減っていく。既に折り返しの階を過ぎたわけではあるが、体力が回復しているわけでもリセットされているわけでもない。ゲームのようなセーブポイントも無ければ、回復薬だって戦士達には無いのだ。


 疲れが溜まっていることこそ当たり前。


 氷雨はふらついた足で立ち上がる。それを支えた出雲も首には汗をかいており、時雨の額からも血が流れていた。


 三人に向かって再びアポピスは尾をしならせる。


 帳は反射的に渦巻く風の盾を作り出し、時雨は腕に雷電を纏った。


 氷雨と出雲を背にして青年から雷撃が放たれる。激しい轟は戦士達の鼓膜を痛むほど震わせ、空気を壊し、壊し、壊し尽くしてアポピスの尾を焼き焦がす。


 獣は目を見開いて瞬時に尾を戻し、目が眩んでいる出雲と氷雨の元にひぃが飛んだ。


 ドラゴンは出雲の背を掴み、掴まれた彼女は氷雨を抱き締める。ひぃは二人を勢いよく扉へと運び、時雨は自分に向かう獣の尾を受ける気でいた。火傷した獣の尾を、だ。


「兄さん!」


 時雨は返事をしない。帳は空気の盾を作ろうとし、音央はリフカを振り下ろす。アポピスはそれらを躱し、自分の尾を焼いた青年を潰す為に動いていた。


「結目!! 使って!!」


 羽ばたく祈は羽根を零し、より固く鋭利になるように力を込めた。


 帳は声に反応し、羽根を混ぜた空気の盾を作り出す。鋭利な刃は盾を強固にし、鋭い刃先がアポピスの尾を傷つけた。


 時雨は目を見開き、赤い毛先の少年と階下に残った仲間を重ねていた。


「やみく、」


「行ってよ!!」


 時雨が驚く間に祈が叫ぶ。


 黒の少年は勢いよく飛び立つと、天井付近からアポピスに向かって羽根を降らせた。


 刃の雨をアポピスがしなやかな動きで躱すが、その行く先には音央がリフカを振り下ろす。


 アポピスはヴィエの光りを吸いながら視線を走らせ、扉に駆け込んだ時雨に舌を打った。


 音央はヴィエを咲かせ続ける。祈はその明かりを頼りに羽根を降らせ、豪風に乗って扉に向かう帳の声を聞いた。


「雛鳥!」


「行けっつってんだよ! 馬鹿!!」


 帳は奥歯を噛み、祈の横を一瞬で通り過ぎる。


 アポピスは視線を走らせてリフカと羽根を掻い潜り、祈と帳を床へと叩き落した。


 二人の少年の骨が軋み、呻き声が漏れてしまう。


 氷雨はそれを見てひぃと共に扉から飛び出し、帳は祈を立ち上がらせた。


 祈は顔を上げ、氷雨を確認する。少女は少年達の元に滑り込みながら背中を押した。


 三人に向かって尾を叩きつけようとしたアポピスをリフカが先に叩き、音央は叫んでいる。


「行ってください! メシア、お願いだから!」


「泣語さッ!」


 音央がヴィエを咲かせて氷雨達の道を示す。氷雨は奥歯を噛みしめ、帳の手を掴んだ。


「行かせん」


 アポピスが音央を壁に叩き飛ばし、氷雨達に向かって尾を振り下ろす。


 それを見た光は既に半分以上閉まっている扉から飛び出し、三人の前に盾を投げた。


 大きく変形した盾は床に刺さりアポピスの尾を弾く。氷雨は目を見開き、光は少女の手を引いた。


「行くよ!」


 氷雨は驚きの色を顔に浮かべながらも、頷いて地面を蹴る。


 ひぃは翼を広げて帳も飛び上がり、氷雨は光の手を掴み返していた。


「飛べないのに飛び出すなんて、ほんと、そういう人ですよね」


 氷雨が呟き、光は目を見開いてから「すみません」と呟き返す。


 アポピスの尾は空を飛ぶ三人に向かってしなるが、それを羽根の盾で受けたのは祈だった。


「闇雲くッ」


「あーもー!! うるっせぇ!!」


 祈が光に対して叫び、床に刺さったままだった盾を持ち主に蹴り飛ばす。反射的に盾を小さくして受け止めた光は、衝撃に揺れたひぃと氷雨と共に扉に転がり込んだ。


「自分の武器なら残していこうとすんなよ!」


 祈は大きく言葉を吐き、自分に振り下ろされた尾を風で庇った帳を見上げた。


 扉はあと数分で閉まるだろう。


 祈は奥歯を噛みしめて飛び上がり、帳の背中を鳥の足で掴んだのだ。


「ちょ、雛鳥!」


「ほんと……俺、お前のこと、ずっと嫌いだったのになぁ」


 祈は呟き、アポピスの頭にリフカが叩き落される。


 氷雨は祈と音央を視界に入れて、声を発せられないまま扉を押さえたのだ。


 祈は奥歯を噛みしめる。


 鳥の足は添えている相手を傷つけないようにされ、帳は目を見開いた。


「神様、ちゃんと捕まえないと恨むからな」


 祈は伝え、帳の背中を扉の奥に思いきり押してやる。


 鳥の足は決して少年を傷つけないままでいて、帳はその優しさに奥歯を噛んだのだ。


 帳は前に押し出される。


 祈は後ろへ進んでしまう。


 押された少年は床を転がりながら直ぐに振り返り、アポピスの尾に捕まった祈が床に叩きつけられる様を見たのだ。


「闇雲!!」


「祈君ッ、泣語さん!」


 帳と氷雨が叫び、音央は笑ってしまう。


 ヴィエが照らした彼の顔は満足そうで、リフカは氷雨達が押さえていた扉に勢いよく叩きつけられた。


 余りの衝撃にりずや白玉は弾き飛ばされ、時雨や氷雨も後退せざるを得ない。


 リフカは扉を閉めるように何度も叩き、音央は笑っていたのだ。


「俺はここの階がお似合いですから」


「泣語さん!」


 氷雨が扉に駆け寄り、それでもリフカは扉を閉めていく。


 アポピスはその様子を見て目を輝かせ、ヴィエの明かりを吸収していった。


「メシア……貴方がどうかこの先も、笑っていてくれますように」


 音央が呟き、それは氷雨の耳に届く。


 少女はリフカが閉めた扉の中で、音央を照らしていたヴィエの明かりが無くなった瞬間を瞼に焼き付けてしまった。


 音央は閉じた扉を見つめて笑っている。


 アポピスは部屋の輝きを吸い付くし、残った戦士二人を見据えた。


「残ったか。なんと浅はかな」


「残ることが浅はかだと思うお前の方が、よっぽど浅はかだよ」


 鼻血を翼で拭い、切れた口内の血も唾と一緒に祈が吐き出す。アポピスは輝く体を揺らして戦士二人を見つめ、音央は笑ったのだ。


「君さ、七匹の獣の中で一番弱いだろ」


 音央の言葉にアポピスは顔をしかめる。「何を言う」と呟いた声は低く、音央は「だってそうだろ」と続けていた。


「出来ることを見てたけど、灯りを吸うか体を伸縮させるだけとか、俺達の方がよっぽど強いよ」


 祈は音央が「俺達」と表現したことに驚きつつも翼を広げる。アポピスの顔に血管が浮き、獣は何度も尾の先で床を殴っていた。


「そなた達と言い先程の雷を使う戦士と言い……我を汚すのも大概にせよ」


「なら倒してみろよ、俺達を。どうせ俺達倒してメシアのお兄様を追う算段なんだろ?」


 音央はいつも肩にかけている鞄から小瓶を取り出し、アポピスが尾をしならせる。


 祈は飛ぶことを一瞬考えたが、音央のリフカが動かない様子を見て止めた。


 音央が持つ小瓶から花弁が零れる。


 それはアポピスの尾に当たった瞬間、獣の尾が焼けただれた。


「なッ、それは!!」


 アポピスが慌てて下がり、音央はヴィエを咲かせていく。それは祈の視界を明るく照らし、植物使いは笑い続けたのだ。


 少女がいつも自分に笑ってくれたように、彼も笑顔を盾にして。


 自分を救ってくれた、手を引いてくれた、愛しくて堪らない人を想いながら。


「まさか、イーリウか!!」


「そうだよ」


 アポピスの言葉を肯定する音央。


 彼は「火傷」と言うラベルが貼られた小瓶を捨て、次の小瓶を取り出していた。


 彼が治してきた怪我の花弁。治せば散った儚い花。治すだけの花。


 


 音央は笑顔を消すと次の小瓶の蓋を開けていた。


「これは、メシア達が今まで受けてきただ」


 治癒の花、イーリウ。


 怪我を吸い出し枯れる花。


 その花弁には吸い出された怪我が、傷が、痛みが閉じ込められている。


 ――散っていく深紅のイーリウの花弁を透明な小瓶に受けて、茎や葉と一緒にすると蓋を閉じていた。


 氷雨が見てきたその動作。


 音央は無駄なことなど今まで一度もしていない。浅はかな行為などしたことは無い。


 全ては愛しい人の為。自分の光りの為。自分の生きるしるべの為。


「本当なら神に花弁全部ぶちまけたかったけど……メシアが無事に進む為だ、ここで使う」


 音央は呟き、アポピスは接近することを避けるようになる。避けて扉の奥へ進もうと考える獣は漆黒の翼を持つ戦士を見逃すのだ。


「行かせない」


 祈が天井付近から羽根の雨を降らせ、滑らかな動作で躱したアポピスに舌打ちした。


 それでも祈の体が震えることは無い。


 一人で祭壇を守り続けていた頃の祈はもういない。


 彼を褒めてくれた人がいる。笑ってくれた人がいる。傘を差し出してくれた人がいる。


 結局、祈も音央と一緒だった。たった一人に救われて、その人の力になりたかった。無理をする彼女に優しくしたかった。


 祈の体をアポピスの尾が殴打する。少年のあばらが数本軋み、体は壁に激突した。


 それでも祈の心は折れはしない。


 どれだけ痛くても、どれだけ苦しくても。彼はアポピスを止め、先へ進まないと獣が言うまで外に出ないと決めていた。


 ルタと同化すれば外れてしまうということで、祈だけ足首につけた青い飾り。それは微かな明かりを反射して少年が立つ為の力になる。


 アポピスは音央が言うように、今までの階層の獣のように破壊傾向の力は無い。


 あるのは精神的に苦しめる力だ。


 光りが無くては生き物というのは不安に捕われる。明かりというものを求めて藻掻き、灯火を愛していたいのだ。


 ――あぁそうだ、そうだよな、やっぱりさ


 祈は自分を笑う。笑って飛び上がり、獣に向かって羽根を打ち出した。


 音央も祈も一人の少女を光りにしてしまった。自分達のしるべにしてしまった。


 一人で立つことが出来なかったから。一人では立ち上がることすら出来なかったから。


 祈は口角を上げてアポピスの尾を躱し、音央のリフカが振り下ろされる様子を見る。


 ヴィエの向こう。閉じた扉の先の人を想いながら。


 ――大丈夫、大丈夫、俺は飛べる。俺は一人で飛べる。俺は……貴方のおかげで飛べるようになった。


 祈は大きく羽ばたき、羽根の雨を降らせる。


 想って、想って、泣きたくなる気持ちを飲み込んで。


 お願いです。どうか今は、今だけは、この気持ちを糧にさせて下さい。


 最後を託したアイツに手を伸ばし続ける、貴方に抱いたこの気持ちを。


 俺のことをいつも優しいと言ってくれる、貴方に想うこの気持ちを。


 ――これは、勘違いの恋心です


 祈は顔を上げ、音央はイーリウの花弁を撒く。


 アポピスは戦士二人から光りを奪い続け、それでも少年達は立ち向かい続けたのだ。


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