第171話 呼称
あぁ、七日なんてあっという間だ。
思いながらカレンダーを見つめる。
蝉の鳴き声がうるさい日。六日間の準備期間を経て、私達は今晩――中立者さんがいる塔に導かれる。
壁に額を寄せて息を吐く。自然と内臓が震えた理由は分からない。
神隠し事件の被害者がまた増えたというニュースを聞いた。フォカロルさんとスティアさんは手紙の返事をくれた。良い答えだった。
準備はしてきた。死なない為の準備。生きる為の準備。
私は顔を上げて玄関の鍵が開けられる音を聞く。それに釣られるように玄関に行けば、キャリーバッグを持った兄さんが立っていた。
「え、兄さん? おかえり」
「ただいま。ほら、土産」
「お、おぉ、ありがとう」
なんで。
急な帰省に驚きつつ、渡されたお菓子に目を瞬かせる。兄さんは確実に一泊ないし数日は居る予定であろう荷物を持って帰っているが、まだ大学は夏休みに入っていない筈だ。
兄さんが「涼し」と零しながらリビングに入る。私は右往左往しながらその後に続き、荷物を置いた兄の背中に聞いたのだ。
「兄さん、どうして急に」
「今大学はテスト週間。俺がとってる授業はあとレポートだけで筆記試験は無し。そのレポートももう出したから、今日から夏休みってな」
さも当たり前と言わん態度で答えられてしまう。うわ、大学生凄い。
驚きと憧れを抱きつつ、「だから帰ってきた」と言う兄さんを見つめる。彼は浄水器の水をコップに入れて飲み干して、キャリーバッグを開けていた。
「汗かいたからシャワーするわ」
「え、あ、うん、どうぞ」
「俺の部屋まだあるか?」
「そりゃあるよ。掃除もしてるし、一昨日シーツ干した」
慣れた動作と落ち着いた空気で兄さんが家にいる。その光景が前回の帰省とは打って変わっているから私はまだ慣れずにいた。部屋は勝手に無くならないよ。使う人いないし。
着替えを出した兄さんが立ち上がり、私の横を歩いていく。通りすがりに撫でられた頭は酷く私を硬直させた。
「ありがとな」
兄さんがリビングを出ていく。扉が閉まった音を聞いた瞬間、体から驚きが蒸発して視界は滲んでしまったのだ。
「……なんだよ」
悪態をついたって聞こえてないだろう。
私は目を瞑って、口角を上げていた。
「……ばーか」
* * *
「今日だったよな、夜」
卵とトマトをあえて丼にした名も無い昼食。それを兄さんと食べていると不意に確認された。食べ物を咀嚼しつつ頷いておく。兄さんは麦茶を飲んで頷き返してくれて、私は確認した。
「だから帰ってきたの?」
「まぁな」
兄さんがスプーンを器用に使って丼の中のものを集めていく。私はその所作を見て、意味は無いと思いつつも聞かずにはいられなかった。
「バレてるのに、一緒に来てくれるの?」
「下手な芝居打たなくて良いからな。気が楽だ」
「……危ないよ?」
「お前もな」
「色々準備したけど、上手くいくかは五分五分だし」
「氷雨が準備したなら大丈夫だ」
無条件の肯定が貰える。
言葉で言い表せない感情は一つではない。複数が混ざりあって胸の内に溜まり、溶けて、染みて、呼吸を邪魔する。
それに何だか苛立って、私は兄さんの足を机の下で蹴ってしまっていた。
「いってぇぞ」
「……ごめん」
「許す」
あぁ、また消化不良。
兄さんの足をまた蹴ってしまう。
それに兄さんは笑うから、私は「なにさ」と呟いてしまうのだ。
「いいや……お前が笑わないから、良いと思ったんだ」
「……兄さん、昔っから私が笑うの嫌いだよね」
笑っている兄さんに言ってみる。きっと今までならば怖くて聞けなかったこと。
兄さんは笑うのを止めると居心地が悪そうに頭を掻いていた。
「あぁ、嫌いだよ。お前が笑ったって誰も幸せにならねぇから」
――誰も幸せにならない
ずっとそう言われてきた。「だから笑うな」とも。
それが苦しくて仕方がなかった。笑顔を剥がそうとしないで欲しかった。
だけどそれは私からの視点だ。兄さんの見方も言い方も私が受け取っていたものとは違ったと、アルフヘイムで話して気づいたよ。
――笑わなくても、大丈夫だ
もしそう言って貰えていたら、今の私達はまた違った関係だったのだろうか。
「そっか」
お茶を飲む。すると机に置いていた携帯が振動して、私は食事を終えてからメッセージを確認した。
* * *
「あ、ひっさめちゃーん‼」
「小野宮さん、湯水さん、お待たせしました」
「いやいや、急に誘ったのこっちだから」
メッセージをくれたのは小野宮さん。
〈突然ですが、今日遊びませんか!!〉
と言う内容で、特に予定がなかった私は一つ返事で頷いた。晩御飯は兄さんが作ってくれるらしい。助かると思ったから伝え、やって来たのは何度目かになるショッピングモール。
待ち合わせの室内広場に来れば声をかけてくれた二人がいて、私は小野宮さんの抱擁を受け止めた。
「ひっさしぶりだね〜!」
「はい、お久しぶりです」
「なずな、氷雨ちゃん潰れるから」
湯水さんが小野宮さんの首根っこを掴んで離していく。潰れませんよ、ありがとうございます。
目の前で繰り広げられるのは見知ってしまった気の置けない会話。私の顔は自然と緩んでしまい、こちらへ歩いてくる茶髪に気がついた。
「あ、紫翠ちゃーん!」
「遅くなったわ、ごめんなさい」
「いやいや。氷雨ちゃんにも言ったけど急に誘ったの私達だから」
私服姿が麗しい翠ちゃん。私は驚いてしまい、自分もしたような会話を聞き流してしまった。
翠ちゃんは「こんにちは、氷雨」と挨拶してくれる。私もそれに返せば、小野宮さんが翠ちゃんと私の手を掴んだのだ。
「ではでは行くよー! 行きますよ!」
「何処に行くのか聞いてないんだけど?」
「あ、翠ちゃんも?」
勢いよく歩き出した小野宮さんに手を引かれ、翠ちゃんと揃って首を傾げてしまう。小野宮さんは笑っており、ため息をついた湯水さんが教えてくれた。
「ごめんね。実は今日ここで外国の食べ物や雑貨を売ってる市やっててさ」
「ネットで見つけたからね! みんなで来たくなっちゃった!!」
満面の笑顔で教えてくれた小野宮さん。湯水さんは「説明が足りてない」と呆れた声を吐き、私は翠ちゃんと顔を見合わせた。
小野宮さんの手に力がこもる。私はそれを確認して、笑っている友人の背中を見つめてしまった。
「……小野宮さん」
「なに? 氷雨ちゃん」
振り返ってくれる、明るい彼女。私は言葉を考えて彼女の手を握り返し、建物を出る直前に聞いておいた。
「なにか心配事がありますか?」
聞けば、小野宮さんは不意に笑みを消してしまう。
いつも
代わりに浮かんだのは泣いてしまいそな表情で、私は彼女の手を握り締め続けた。
「……夢を見たんだ、怖い夢を。悲しくて、心配になる夢」
小野宮さんの急いでいたような歩き方がゆっくりとしたものに変わる。
私は小野宮さんを見つめて口を結んだ。頬は下がって、笑みを浮かべることは止めてしまう。
前を歩く小野宮さんは私の手も翠ちゃんの手も離さない。顔も進行方向に向き直って見えなくなる。
「氷雨ちゃんと紫翠ちゃんがね、消えちゃう夢。消えたってことが分かったのに、名前が思い出せなくなって泣いちゃうんだ」
ショッピングモールに響く明るい声とは裏腹に、軽く振り返った小野宮さんの声は静かだ。眉を八の字に下げて笑う彼女は今にも不安に押し潰されてしまいそう。
小野宮さんは歩くのを止めて、私達も立ち止まる。市に向かう人達の中で私達四人は、海に浮かぶ岩のような障害物になっていることだろう。
「ね、氷雨ちゃん、紫翠ちゃん、いなくなったりしないよね?」
小野宮さんの声が震えている。その声を聞き漏らすことなんてしない。目を逸らしたりなんかしない。直ぐに答えられなかったのは、アルフヘイムを思ってしまったからだ。
目の前の彼女に傷なんて残らないのに。何も言わないでくれる湯水さんに爪痕なんてつかないのに。
「いなくならないって、言って?」
小野宮さんが体ごと振り返る。
彼女は、泣いてしまうのを必死に堪えるような表情をしていたのだ。
「お願い」
私は反射的に腕を伸ばす。それは翠ちゃんも一緒だった。
翠ちゃんは小野宮さんの頭に手を乗せて、私は固く抱擁をする。
あぁ、馬鹿だな氷雨。
傷が残るだとか残らないだとか、そんなのはどうでもいいだろ。今目の前で泣きそうな友達がいたならば、抱き締めたいと思うだろ。泣かないでほしいと願うだろ。
いつから私は、彼女を不安にさせてしまっていたのだろうか。
「いなくなったりしないわ」
翠ちゃんの声がする。それに確証なんてなくても。
「いつでも会えますよ。今日みたいに、こうやって」
言葉を選んで伝えておく。たとえ約束が出来なくても。
小野宮さんが抱き締めてくれる。片腕は私に。片腕は翠ちゃんの腕を掴んで。
「うん、うん、ごめん、ごめんね、昔から嫌な夢みたら、本当、不安でさぁ」
無理に笑ったような声がする。小野宮さんの表情は見えなくて、私は目を伏せてしまっていた。
楽しい喧騒の中に取り残されたような感覚と、季節通りの暑さを感じておく。私は小野宮さんの背中を撫でて、友人が安心することを願うのだ。
「なずな、落ち着いて、大丈夫。その夢は本当になんてならないから」
小野宮さんの背中を叩いた湯水さん。不思議な言い回し。小野宮さんは一度揺れてから深呼吸をして、満面の笑顔で離れていった。
「……その夢はって、他の夢は本当になるとでも言うの?」
翠ちゃんが聞いてくれる。私も半歩後ずさって小野宮さんを見れば、目の縁を少しだけ赤くした彼女が笑っていた。
「……時々いやーな夢をみてね、起きても忘れなかったら、夢と似たようなことが起きる気がするんだ……お父さんがいなくなったり、栄が事故に巻き込まれたり、ね」
「偶然だって言ってるでしょ」
「あいたッ」
湯水さんが小野宮さんの頭を叩く。それはとてもいい音がする叩き方で、私は目を丸くしてしまうのだ。
流れるように重たいことを聞いた気がする。聞いてよかったか分からないことを教えられた気がする。小野宮さんが笑っているから深くは聞かずに黙るけど。
翠ちゃんは「あら」と呟いて、小野宮さんは両手で後頭部を押さえていた。
「ごめんね氷雨ちゃん、紫翠ちゃん。なずな、昔っから夢とか勘とか占いとか当たらなくていいものが当たる子でさ。嫌な夢とか見たら妙に心配すんだよね」
「そ、そうだったんですね」
湯水さんが教えてくれて、私の口角が上がってしまう。彼女は幼馴染の頭を撫でながら「でもね」と続けていた。
「心配してるのは……ほんとだよ?」
そう言って湯水さんが笑うから。
言葉を無くしてしまう。笑顔も無くして二人を見つめれば、小野宮さんは「暗いのいやー!! ごめんね!! 行こっか!」とまた手を引いてくれた。
泣きそうな彼女が笑ってくれる。だから翠ちゃんも私も、笑みを浮かべて市に踏み入れたのだ。
普段は見ない食べ物を口にして、見たことのない家具や雑貨を見物する。ずっと笑ってくれる小野宮さんの隣で。沢山の話をしてくれる湯水さんと一緒に。
大丈夫だって何度も言って。努めて笑って見せながら。
いつも私達に気付いてくれる優しい二人に笑っていて欲しいから。
どうか笑っていてください、私の愛しい太陽達。
目一杯、短い時間を楽しんだ。沢山笑ったし沢山話をした。催しだった異国の踊りは拍手喝采だった。
「ひゃー、楽しかったねー!」
「外国の踊りってなんか優雅だったよね!」
「そうね」
「ほんと楽しくて、綺麗でした」
四人で笑って人が溢れる市を歩く。お揃いの珍しい色のブレスレットも買った。お土産も買った。小野宮さんは調味料、湯水さんはタオル、翠ちゃんは石鹸、私は一目惚れしたからくり時計。
剥き出しの歯車に文字盤が置かれたような、不思議な時計。歯車は乱れることなく動き続けて時を刻んでくれる。
青かった空は少しだけ橙が射し始めて、もうそろそろお別れの時間だ。
そう、お別れの時間なんだ。
「二人はバスだっけ?」
「えぇ、貴方達は自転車で?」
「近いからね~!」
ショッピングモールを出ながら時間は進んでいく。
私は笑いながら、小野宮さんと湯水さんを見つめる。
これから夜が来る。夜が来て零時が来る。零時が来れば、私達は神様の塔へと送られる。
また会えるよ。また会おうね。夏休みだけではない。二学期も、三学期も、来年も、その先も。
その為に――行ってくるよ。
帰ってくるから心配しないでね。大事な私の友達。
「氷雨」
ふと翠ちゃんに背中を叩かれる。勢いよく。けれども痛いわけではない。勢いが良くて、背中を押してもらえるような手で。
目の前が一瞬で晴れた気がする。曇っていたわけではないけれど。
それでも確かに、晴れたから。
駐輪場へ向かってしまう二人へ。
別れなければいけない二人へ。
あぁ、何を言う、何て言いたい。
優しい二人に。輝く友達に。近づきすぎれば燃えてしまうと不安になる、臆病な私の手を引いてくれる二人に。
あぁ、言わないと、言わないと、言わないと。
呼べ、氷雨。
心配してくれる彼女達を。
「――なずな、ちゃん。栄……ちゃん」
瞬間、振り返ってくれる友達がいる。
空の色が変わってしまう前に。夜が来てしまう前に。昼が消されてしまう前に。
「またね……試合の応援、行くからね」
片言で、ぎこちない。
それでも許してくれるって知ってるから。
抱き締めてくれた二人が、そう伝えてくれるから。
「ッ、やぁっと……名前! 呼んでくれた!」
「来てね、絶対、頑張るから」
そう言って抱き締めてくれるから。
少しだけ。本当に、ちょっとだけ。
夜が来なければいいのにって思うんだ。
「ごめんね。名前を呼ぶ勇気がなくて……行くよ、試合。熱中症には気を付けてね」
伝えて笑うよ。大丈夫。
死なない、死なない、絶対死なない。
捕まえる。捕まえてみせる。悪だと判定した中立者さんを。
明日が欲しい。命が欲しい。友達との、仲間との未来が欲しい。
欲しいなら自分の手で掴め、氷雨。
お前はディアス軍なのだから。
泣きそうな顔で思いっきり笑ってくれた、なずなちゃんと栄ちゃん。
名残惜しくも二人と別れた翠ちゃんと私は前だけ向いた。
「ありがとう、翠ちゃん」
「さぁ、何の事かしら」
あぁ、ほんとにこの人は。
私は笑って、翠ちゃんと手を合わせたんだ。
夜が来る。
分かれ道の夜がやって来る。
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