第135話 相槌
茶色い焦げ目がつくまで焼いた食パンにマーガリンを塗っていく。
スクランブルエッグは半熟過ぎず熱を入れ過ぎず。加減が一番上手なのはお母さんだ。白い菜箸を持って、フライパンに流した卵を空気を入れながら混ぜる姿が好き。
珈琲を淹れるのが上手なのはお父さん。今日はブラックではなくカフェオレにしてくれた。
黒に落ちた白は色を淡く変えていき、兄さんならこれに砂糖を思いっきり入れるんだと考えていた。あの人は甘党だから。ブラック飲めない人だもんな。
私は三人分のトーストにマーガリンを塗り終わり、洗ったプチトマトを盛り付けられたスクランブルエッグの横に添えておく。
ひぃちゃんは冷蔵庫からプレーンのヨーグルトを出して、りず君がスプーンを持ってお皿に分けてくれていた。
解凍したブルーベリーをお母さんがヨーグルトに混ぜてくれる。ブルーベリーヨーグルト。美味しいから、これも好き。
出来上がった朝ご飯を机に並べてくれるお父さん。大きい手はマグを三つも持てる。料理は苦手だからって準備や片付けをいつもその手はしてくれる。
それぞれ席に着く。ひぃちゃんは私の膝に丸まって、りず君とらず君は机の上に座っていた。
「いただきます」
「はい、いただきます」
手を合わせて、お母さんも少しタイミングをずらして言ってくれる。お父さんも手を合わせていて、私はマグに口をつけた。
苦味が少ないカフェオレが身に染みる。今日は眠たくない。眠る余裕が無い。
予定はなんだっけ。十八時に、河川敷である七夕祭りに行くんだっけ。
あぁ、そうだ。小野宮さんと湯水さんと、翠ちゃんと一緒に。浴衣着ようって言われたな。
思い出しながら手と口を動かす。
スクランブルエッグは絶妙な火加減で仕上がっていて、流石お母さんだと感服する。私は日によって硬かったり柔らかかったりしてしまうから。美味しい。
トーストを齧ってカフェオレを時折飲めば、朝から酷く満たされた。
無言の席。会話がない朝。
お父さんが喋らないのはいつものこと。会話に入ってくることはなく、微笑みながら相槌を打ってくれるのが通常スタイルだ。
話をするのはお母さんと私。兄さんがいた時も、彼は口数の少ない人だったから。
けれども今日はお母さんも私も言葉が出てこず、居心地悪そうにりず君が右往左往していた。
目が合う。茶色いパートナーと。
らず君は私の腕を伝って肩に来て、りず君もそうしようかと迷っている風だ。
「りず君」
呼んでみる。
りず君は顔を上げて、私の左手の甲に擦り寄ってくれた。それに答えるように私も彼の顎を撫でる。
その時、目の前からしていた二人分の食事音が止まった。
お母さんの声がする。
「り、りず君は、どんな力が……?」
「俺は……」
りず君が私を見上げてくる。答えても良いのだろうかと目は揺れており、私はゆっくり頷いておいた。
りず君は頷いて、お母さんとお父さんの方を向く。
「俺は、氷雨が知っている物だったら何にでも変身出来る」
りず君が机から飛び降りて形が変わる。
彼は瞬く間に慣れ親しんだハルバードへと変わって、私は反射的に持ち手を掴むのだ。
フローリングに石突の部分を置いて真っ直ぐ立てる。それから彼はダガーナイフにナックルダスター、手裏剣と様々な物に変身して、元の針鼠の姿へと落ち着いてくれた。
息を着いたりず君はお母さんとお父さんを見上げて、目を少しだけ丸くしている二人に言っていた。
「ひぃは牙から酸性の液体が出せる。らずは光ることで能力補助が出来る。俺達三人が氷雨の心獣だ」
「……そっか」
お母さんは呟いて、微笑んでくれる。その手はりず君を撫でるように伸ばされたが、思い止まるように引いていった。
母の動作を見つめる。
そうすればりず君の針が鋭くなった気がして、ひぃちゃんが膝から飛び上がった。
りず君が突然、叫ぶ。
「それ……それ!! 嫌いだ!! すっげぇ嫌いだ!! 撫でたくねぇんだろ!? 触りたくねぇんだろ!? なら触ろうとなんてするんじゃねぇよ!! 嫌いだ!! 嫌い、嫌い、嫌い!! ふざけんな!!」
「りず!!」
「りず君!」
暴れだしそうになったりず君を尾で掴んだひぃちゃんが翼で覆っていく。
針を避けてりず君を押さえ付けたお姉さんは机を這いずるように移動し、立ち上がった私の元に戻ってきてくれた。
ひぃちゃんの揺れる目と視線が合う。彼女は必死にりず君を
「嫌いだぁ、嫌だ、嫌だ、なんで撫でてくれねぇんだよ、この期に及んで、なんで、なんでなんだぁ……」
「りず、静かに、静かに、大丈夫です、大丈夫ですから」
ひぃちゃんが言い聞かせるように体を小さくし、りず君を落ち着かせようとしてくれる。私は二人ごと抱き締めてりず君を覗き込むのだ。
「りず君」
呼んでみる。そうすれば彼は大粒の涙を零し始め、それに連動するようにらず君も泣き出してしまった。
ぽろぽろと。ほろほろと。
「氷雨、ひさめ……」
「うん」
「痛てぇ、痛てぇんだ、痛くて痛くてたまらない」
「うん」
「嫌だ、嫌だ、俺は触れちゃいけねぇ、二人と喋っちゃいけねぇ。氷雨、氷雨、ひさめぇ……」
「りず君」
翼を広げてくれたひぃちゃんと目を合わせて、りず君の頭を撫でる。
震える彼を肩に乗せれば、パートナー君は鼻をすすりながら毛先に隠れようしていた。
お母さんを見る。顔を真っ青にしているお母さんは両手を握り合わせており、私は笑ってしまうんだ。
「ごめん、りず君少し、不安定で……気にしないで」
「ふざけんなよ氷雨!! すぐそれで片付けやがって!! 誰が不安定だ!! おい!!」
「いで、りず君、りず君針、針刺さる、いだだだだ」
右の首筋に背中を擦り付けてくるりず君。
痛い。思い切りではないが痛い。右の首を伝って右の頬も痛い。お風呂で鏡を見たが痣は消えてなかったな。これファンデーションとかで消えるのかな。
あれ、でもお母さんもお父さんも痣に関しては指摘してこないし。黙ってるだけだろうか。機会を伺っているのかしら。
「ご、ごめんね」
お母さんの声がする。
青い顔の母はこちらを凝視して、りず君の動きが止まるのだ。
「ごめん、ごめんねりず君」
「お母さん……」
謝りだしたお母さんを止めようと小さく呼ぶ。
お母さんはりず君を見つめて、私のパートナー達は泣き止んでいた。
「……いい、俺はいいから……なぁ、お母さんとお父さんが貰った祝福ってなんだ?」
りず君が聞いてくれる。私が聞けなかったことを。
お母さんは両手を握り直して目を伏せると、儚く微笑していた。
今まで想像もしなかったことを。想像したくなかったことを。
「私は、体感系の力でね……触ったものを溶かせるの。色に応じて」
「……溶かす」
自然と呟いてお母さんの手を見る。
白い手袋をいつもしている手。
色に応じて、溶かす手。
私の頭の中を単語が反復し、お母さんは続けていた。
「一番溶かしにくいのは白色。そこから暖色、寒色に変わる事に溶かしやすくなっていってね。一番力を発揮出来るのは黒色なの」
お母さんが手袋を外す。日に当たることを忘れた両手は透けてしまいそうなほど白く、立ち上がったお母さんは電話機横の青いペンに触れた。
持ち上げられた青いペンが見るからに柔らかくなる。それから徐々に形を崩していき、一分と経たないうちに重たい液体となってしまった。
火のついた
私は部屋の中を見る。ずっと気にしたことは無かった。部屋の中を纏める家具の色を。それが当たり前だったから。
全て、暖色。寒色はあってもごく一部。黒いのはテレビくらい。リモコンだって白色だ。
薄い茶色である机を自然と撫でて、もう片手はひぃちゃんの頭を撫でていた。
お母さんは手袋を嵌め直し、苦笑しながら席に着いている。
「白い手袋なら溶けないから。白なら、大丈夫だから……でも、ふとした時にね、制御が効かないの。だから大丈夫だと分かっていながらも、怖かった。祝福としてこの力を貰ってから、ずっと……時雨と氷雨を傷つけてしまいそうで」
お母さんが眉を下げながら笑ってくれる。
私の脳裏に浮かんだ、手を弾いたお母さんの顔。弾かれたと分かった時に痺れた掌。
ただ、手を繋ぎたかっただけだった。少しでいい、ほんの少しでいいから手を握って、名前を呼んで欲しかった。
それを拒絶されて、怖かった。怖くて怖くて堪らない。愛されていないのだと、本当は私なんて好きではないのだと思って、考えてしまいだしたあの日から。
怖くて泣きそうになった。泣いてこれ以上嫌われたくないとも思って、笑うようにした。
笑えば自分を守れる気がしたから。お母さんもお父さんも笑い返してくれたから。
「……俺は、心獣系だった」
お父さんの声がする。自分の喉を触っているお父さんは教えてくれた。
「狼の心獣だった。能力は同化と、咆哮、巻き戻し……貰った祝福は咆哮で、喋れば相手を動けなくさせてしまう恐れがある。祝福は、制御が上手く効かないみたいでな……暴発させないよう、喋らないよう、心掛けてきた」
無口を極めているお父さん。それは喋りたくないからだと、私はいつから感じていたんだっけ。
兄さんや私と話したくないのだと。話したくないから頭を撫でることで誤魔化すのだと。そう考え始めたのはいつだったっけ。
思い出せないうちに染み付いていた考えが剥がされていく。
お父さんは綺麗な顔を寂しそうに緩めて、笑っていた。
「氷雨、時雨……二人の名前を呼ぶ時、力を出さないように、隠す為に必死になって……喋らないでいたよ」
狼と聞いて、浮かんだのは屍さん。白玉さんと能力が被っているから、きっと、なんて。
私はひぃちゃんを抱き締める。肩ではらず君が輝いてくれて、声が震えそうになるのを抑えてくれた。
落ち着け氷雨。
落ち着け。
「……そ、か」
言葉を絞り出す。それは詰まってしまい、渇いてしまいそうな喉にカフェオレを流すことで予防した。予防になっているかは知らないが、気の持ちようかな。
私は、ずっと、ずっと、聞きたくて堪らなかったことを聞かないようにして、少しだけ違うところを聞くのだ。
「……ルアス軍?」
「……うん」
「二十、三年前……高校生の時?」
「そうね……もう、そんなに経ったのね」
お母さんはゆっくり瞼を伏せて頷いてくれる。手袋を付けた指先はマグを一定の感覚で撫でていた。
「……氷雨は、ディアス軍なんだな」
「うん」
お父さんに聞かれて、頷いておく。ひぃちゃんは黙ってくれて、りず君は肩の上で姿勢を正しているようだ。
私は口角を上げて、下げてしまいそうになった視線を上げるんだ。
「友達が出来たよ。同じディアス軍で、優しくて……本当に、優しい友達」
「うん」
「
「うん」
「この前、泊まりに来た翠ちゃんもね……ディアス軍なんだ。体感系で、凄く頼りになって。学校でもアルフヘイムでも私の事を気にかけてくれる。本当に優しい子」
「……うん」
「結目帳君って言う体感系の人もいてね、アルフヘイムで、初めてチームになろうって声をかけてくれた人なんだ。帳君も強くて……チームの中に弱い人なんていなくて、毎晩、いや毎日かな……みんなで、勝つ道を進んでるよ」
「……そっか」
お母さんが静かに相槌を入れてくれる。翠ちゃんの名前を出した時、指に力が入るのが見えた。それでも深くは言わないでくれて、お父さんも頷いてくれる。
私は、落ち着いて、落ち着いてを頭の中で繰り返していた。
「生贄、今、四人集めた。あと二人」
「……うん」
「条件を考えてね、悪人にしようって決めたよ。シュスに住む誰もが悪だと言って、私達の尺度で測った時も悪だと言える、その人。それが生贄」
「……うん」
「……ルアス軍の人とも戦った。怪我もしたし、祭壇も壊されて……一回、らず君が砕けた時もあったんだ」
「…………うん」
「でも、痛くてもどうなっても、生きたいって思ったから……明日も、お母さんとお父さんがいてくれるこの家に、帰りたいと思ったから、だから……」
「氷雨」
言葉が詰まった時、お母さんが名前を呼んでくれる。
私は下がり始めていた視線を上げた。
ひぃちゃんを抱いている手の甲に、掌を重ねてくれたお父さんを見ながら。
「頑張ったな」
あ、
「凄く、頑張ってるんだね」
立ち上がったお母さんが背中に手を添えてくれる。
あったかい。
あったかい。
あったかくて、仕方がない。
私は奥歯を噛み締めて、らず君が輝いてくれた。
「まだ、駄目、まだ、もっと、頑張るから」
「氷雨」
お母さんが、ぎこちなく頭を撫でてくれる。白い手袋越しに、黒い髪を。
その手が震えているのが伝わってきて、それでも撫で続けてくれて、私は唇を強く強く結んでいた。
「待ってる。待ってるから……ちゃんと待ってるから、ね」
「うん」
「……壊れるまで、頑張らなくていいからな」
「……ぅん」
お父さんの声は優しい。労りが伝わってきて、こちらの体が傾いてしまいそうになるほど優しさが滲んでいて堪らない。
お母さんは私の首に腕を回して、抱き締めてくれた。
「好きよ、大好き、私達の可愛い子」
あぁ、くそ。
私の両目から涙が溢れていく。どれだけ泣いても無くならないこの雫を、渇いてしまったと錯覚した日はなかったっけ。
涙が枯れることは無いらしい。
思う私はお母さんの腕に
言わなければいけない。
この言葉を、私だけが貰ってはいけない。
この言葉は、この言葉は――
「……兄さんにも、言ってあげて。あの人はきっと、その言葉を待ってるから。その言葉があれば……頑張れて、しまうから」
それが精一杯。
お母さんの腕は震えて、お父さんは「……まさか」と呟いた。
私は涙を拭いて立ち上がる。
温かい腕にずっと埋まっていたい。けれども駄目だ。それは、私だけが貰ってはいけない。
ひぃちゃんを抱き締め直し、彼女の背中に乗ったりず君とらず君の額を撫でる。
お母さんは首を弱く横に振って、お父さんはこれでもかと目を見開いていた。
言わないと決めていたのに。
揺らいでしまった。
言わなければいけないと思った。
私だけが、応援されてはいけない。
私だけが、称えられてはいけない。
私だけが、真実を知っていてはいけない。
どちらかが負ければこの記憶も改変される。過去の戦士だと言っても、今の競走による「いなかった誰か」を覚えていられる筈がない。
――家族が悲しむでしょう?
そうだよね、アミーさん。
兵士である貴方が、私の両親が戦士であったことを知らなかったとは思わない。
貴方は知っていて、知りながら黙っていてくれて、夕暮れの情報教室で教えてくれたと信じてる。
勝手に、身勝手に信じてます。
まだ貴方を信じてしまうんです。
「時雨も……ディアス軍?」
お母さんに聞かれる。
違う、違う、違う。
私は口を結び、首を横に振った。
お母さんの顔から血の気が引いていく。
お父さんは奥歯を噛み締めて、私は笑うのだ。
こんな時に。
いいや、こんな時だからこそ。
「兄さんは――ルアス軍」
そう答えた時、お母さんが膝から崩れ落ちてしまった。
フローリングに座り込んだお母さんは泣いており、私はその前にしゃがみこんだ。
お母さんの頬を流れる涙を拭っていいのか、分からなくなる。
「ぅそ……」
呟いた自分の口を押さえ、目を見開いているお母さん。
「時雨、が……ルアス軍?」
「うん」
「氷雨は……ディアス軍?」
「……うん」
震えるお母さんに確認され、頷いておく。
嘘はいけない。隠してもいけない。
これはお母さんにもお父さんにも、拭えない心配を刷り込む行為である。
私は「ごめん」と零し、お父さんが頭に手を置いてくれた。
大きな掌は小刻みに震えている。
「……言うつもり、なかった。言っちゃ駄目だと思った……でも、私だけがお母さんとお父さんのことを知って応援されるのは……駄目だって思ったから」
「氷雨」
「だからお願い、兄さんにも言葉をあげて」
「あぁ、嘘……」
「兄さんも待ってるから。二人からの言葉、待ってるに決まってるから」
「氷雨、時雨……」
お母さんの相槌がズレていく気がする。それでも続けて、私は努めて笑っていた。
いつも私の前を歩いて、笑うことを責め、難しい顔をしているあの人。
知ってる。知ってるよ。いつもお母さんとお父さんを目で追ってたって。追うくせに何も言わなくて、二人の方に私の背を押すあの人は。
「兄さん、お母さんのことも、お父さんのことも好きだよ、絶対……そう思う」
伝えたら、お母さんは咽び泣いた。私を抱き締めて、抱き締めて、抱き締めて。これでもかってくらい強く抱き締めて。
私はひぃちゃん達から腕を離して、フローリングに降りたパートナー達をお父さんが抱き締めてくれる。
それにりず君達は泣いて、私はお母さんの背中に手を回すのだ。
あの人も、こうやって抱き締めて欲しいに決まってる。
だから、私だけを待ってもらうなんて出来ないんだ。
「どっちも待ってて。兄さんか、私か……帰ってくるから」
どちらかだけは。
わざわざ言葉にしなくても伝わったんだろう。
お母さんは「なん、で……なんでぇ……」と泣き続け、私はしがみつくように抱き締め返した。
兄さんは私に死ねと言う。
私は兄さんを殺すと言う。
それは伝えてはいけない。伝えてしまえば傷がより深くなってしまうから。
ごめん、ごめんね、ごめん。
私の目を窓から射し込む太陽光が焼いて、晴れ渡った七夕の朝を彩っていた。
「ごめんね」
私はそう、呟き落とした。
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