第102話 苦境


「ごめん」


 アルフヘイムに降り立った時、私は挨拶より先に帳君に謝られた。


 何故だ、何があった、私何された。おいおい帳君、主語が欲しいですって言うか謝らないでくださいよ。


 頭の中で今日一日を振り返り、昨夜のことも振り返る。しかしどうやっても帳君に謝られる要因が見当たらず、私は苦笑いしてしまうのだ。


「え、っと……何がでしょう……?」


 不安しかない中で真顔の帳君を覗き込む。私の肩のりず君、らず君は揃って首を同じ方向に傾けていた。ひぃちゃんは私の背中側で尾を揺らしている。


 帳君は何も言わない。だから私も困ってしまい、顔は勝手に笑い続けていた。


「……いいですよ?」


 よく分からないまま何度も頷き、帳君に伝えておく。私は何も謝られることをされたと思っていないのだもの。だから彼が謝る必要は無いし、私も許さない通りがない。


 自分を納得させる為に考えていると、帳君は目を少し伏せていた。


「早蕨のことだよ」


 思い出すのは雨の音。


 私の携帯の中に残った電子文字。


 私は意外ながらも合点がいった事柄に少しだけ黙り、肩の力を抜いた。


 律儀になった帳君。いや、彼は元来こんな性格なのかな。もしかしたら私が見ていたチグハグこそが、彼らしからぬ姿だったのかもしれない。


 勝手に予想して首を横に振る。


 謝らなくていい。私は返信に時間をかけてしまったが、きっとあれは必要なことだったんだ。


 それに私は許可なく翠ちゃんにメッセージの画面を見せた。だから謝るのは私の方だ。


「良いんです。私の方こそ勝手に翠ちゃんにメッセージを見せてしまって……ごめんなさい」


「それこそ良いよ、気にしなくて」


 風が私の髪を引いていく。それがいつの間にやら安堵をくれるだなんて、おかしな話だ。いつの間に私の日常にはこの動作が加わっていたのだろう。


 帳君は少しだけ口角を上げ、そこで「終わった?」と確認する翠ちゃんの声がした。


 私は顔を横に向け、息をついている翠ちゃんと首を傾げている梵さんを確認する。


「すみません、大丈夫です」


「そう」


「気に、しなくて、いい。相良も、帰って、来て、ないし、な」


 腕を組んだ翠ちゃんの、斜め後ろに立っている梵さん。彼は周囲にゆったりと視線を向けていた。


 空から落とされる途中に転移していた時沼さん。昨日は兄さんからの伝言を教えてくれたな。


 ――心を抜かれてすぐだと何か起こるかもしれないから、明日会うってことになった


 冷や汗が若干流れていた時沼さんのことだ。きっと兄から返ってきたメッセージにオブラートを巻き、更に砂糖をまぶした言い方をしてくれたのだろう。良い人。


 そして兄の文言には察しがつく。「心を抜かれるなんて間抜けなことして時間を潰すな。その作用で何か起こってもこっちが面倒だから一日様子見とけ」くらいなんだろ。だってあの人だもん。


 私は勝手に黙って予想して、兄に良いように使われてしまっている時沼さんが心配になった。同時にこめかみが痛む。


 ふと思い出したのは、二人だけのリビングで兄が私の前髪を掴んでいる姿。ぎりぎりと力の入った右手と痛んだ生え際。


 兄の目は私を射殺してしまいそうな勢いで見下ろして、形のいい唇で言ったのだ。


 ――お前が笑っても、誰も幸せにはならねぇよ


 あぁ、ならばどうしろって言うんだよ。


 笑わなければ両親が心配してしまうと分かっているのに、貴方は笑うななんて。私の道を塞ぐばかりだ。


 何も言い返せなかった中学生。兄は私の前髪を離して舌打ちをしていた。顔は確かに綺麗だが、性格はどうにも合わないあの人。彼の目は私を毛嫌いした色をする。


 知ってるよ、貴方はそうだ。常に笑う私を怒って、怒って、怒るんだ。降り注いだ「何にもならない」「何も出来ない」の言葉は酷い毒。私の耳や肌から浸透して視神経を殺していく。


 そんな人でも私の兄で、死んで欲しくないと思うだなんて。


 何かを得るには、何かを手放さなければいけないだろ。


 時沼さんが笑ってくれた顔が浮かぶ。


 あぁ、死んで欲しくないな。素敵な友達なのだから。私の数少ない、大切な友人なんだから。


 口にはしない。それは言葉として現実に出してしまってはいけない。友達だから殺したくないと言ってしまえば、私は本当に進めなくなる。


 また考えの渦の中に身を投じていると、ふと祈君と目が合った。ルタさんに時沼さんが近くにいないか確認してもらっている彼は、私から視線を外さない。


 だから私も外せなくて、人と目を合わせることが出来るようになっていた自分を褒めたくなった。きっと世間一般では当たり前でも、私には当たり前ではなかったこと。いやそんな事どうでもいい。


 祈君は微かに口を開きかけて、微笑んでくれる。赤い毛先の奥に見える目は柔らかく、彼は帽子も被ってこなくなった。


 最初はフードと帽子の奥にあった目が、今では少しの前髪の向こうに見える。それがまるで彼との壁さえ崩したようで、嬉しい筈なのに私は胸中がざわついた。


 今日、兄さん達に会ってはいけない気がする。


 何故そう思ったかは分からないけど思ってしまったのだ。


 戦士としての直感は育っている気がする。だってもう直ぐ競争を始めて四ヶ月も経つのだもの。


 私は自然と微笑んで、祈君は何も言わずに笑っていてくれた。


 ルタさんが澄み渡る空を旋回しながら祈君の肩に戻っていく。


 黒い心獣さんの体が少しだけ大きくなったように感じるのは、もしかしたら勘違いかもしれないし、そうではないかもしれない。


 分からないままでいれば、不意に近くの地面を踏む音がした。


 そちらに顔を向けて、いたのは金の髪と白い服の彼。


「時沼さん」


「悪い、遅くなった」


 時沼さんは眉を下げながら笑っている。私達は首を横に振り、彼は空を軽く指していた。


「行こう、時雨さん達はペリの天園にいる」


 また、心臓がざわついた。


 思ったのに言わないで、私は微かに光ってくれたらず君に安堵する。笑顔の友人を見つめながら。


 * * *


 ――ペリの天園


 最初の五種族、ペリさん達が住んでいる雲の上の園。


 ペリさんとは汚れなき翼と浄化されそうな美しい衣を身に纏った方々。昔話に出てくる天女の羽衣のような服の一部には、どんな傷も癒す力があるとされているらしい。


 どことなく西洋に出てきそうな装いなのに、日本の和も混じえたような黒い髪と黒い目を持っているのだとアミーさんは言っていたっけ。西洋なんて行ったことないらしいが。日本っぽさだけではないのだと。


 その姿は完成されきっていない美しさがあり、皆さん女性に見える姿をしているそうだ。


 その役目は競争が終わった時に終幕の鐘を鳴らすこと。アルフヘイムの天候を見守ること。その二つを中立者さんから言い渡された存在なのだとか。


 アルフヘイムの中心である命の鉱石を守るガルムさん。


 アルフヘイムの空と競走の終焉を見つめるペリさん。


 アルフヘイムの住人に降りかかる厄災を見つけて逃がすシュリーカーさん。


 最初の五種族。その残り二枠は種族と言ってはいけないのかもしれないとアミーさんは零し、それが誰なのかは教えてくれなかった。


 夕暮れの中で話したアミーさんは何故だか怒っているようで、それでも確かめる術はなかったんだ。


 思いながら、私は時沼さんと繋いでいた手を離す。


 転移をして私達を運んでくれた時沼さんは、雲の上にある街を指していた。


 お城は無く、鉱石と雲が混ぜられたような物で作られた建物。今まで見てきたシュスとは違う場所。


 時沼さんは穏やかな声で教えてくれた。


「あそこがペリの天園。戦士には無干渉だから入っても問題ないらしいんだ。街の中への直接転移だけは弾かれるっぽいけどな」


「ふーん、なんかアベコベな場所だね。あれは天使なのか天女なのか」


 帳君が私の肩に腕を回している。話に聞いていたペリさん達と違わぬ住人さんを何人か確認し、私は「ですね」と頷いていた。


 そこまでペリさんの人数は多くないらしく、人間の両手の指で数えられるだけの数しかいないのだとか。


 私の視界には既にその半分近くが映っており、皆さん雲の下や空の境界を見つめているようだ。


 と言うか乗っているこれは雲で良いのだろうか。普通突き抜けて地面と喧嘩するものだと思うのだが。沈み込む弾力が強いマットレスみたい。


 いや、タガトフルムの普通がここで通用するわけないんだった。


 思い直した私は、歩き出した時沼さんに続いていく。


 ルアス軍との会話。一体何をするんだ。何がしたいんだ、兄さん。


 翠ちゃんや、私の肩から腕を離した帳君も何か考えているようだ。祈君とルタさんも黙っており、梵さんは周囲をゆっくり観察していた。


「大丈夫だ」


 時沼さんが前を向いたまま言っている。


「何も、悪いようにしねぇから」


 振り向きながら笑ってくれた彼は何を考えているのだろう。


 分からないまま、中央にお城の無い街の中を歩いていく。


 時折見かけるペリさん達は私達を素通りし、自分達の街に部外者が侵入しても本当に何とも思わないのだと実感した。


「ねぇ、氷雨さん」


 ふと斜め後ろから祈君に声をかけられる。


 返事をしながら振り返ると、祈君は無表情に私を見つめていた。


 あ、もしかして背、伸びたのかな。


 見当違いなことを思いながら祈君の横まで歩幅を合わせる。彼は微笑んで「氷雨さんは、」と言っていた。


「お兄さんがルアス軍だって知った時……どうしようと思った?」


 確認される。


 私は祈君の言葉を頭の中で反芻はんすうし、ルタさんの方を見てみた。綺麗な青い瞳。そこに濁りは見られない。


 私は再び祈君に視線を戻し、情けなく笑った。


「……目の前が真っ暗になりました。それほど仲が良いと言える兄妹関係ではないのですが、やっぱりどうして……兄なので。どうしたら良いのかという答えは、まだ出せていない状態です」


 兄から降り注がれた言葉の雨を思い出し、しかし同時に、それでも家族だという想いが私の中にはある。


「……そうだよね」


 祈君は呟いて「ありがとうございます」と笑っている。


 その笑顔は何故だか泣き出しそうな気がしてしまって、私は言葉を探すのだ。


 どうかしましたか。何かお困りですか。何か悩んでいますか。優しい君は私に無理をしないでと言ってくれるから、私も君に無理して欲しくないのですが。


「無理、しないで下さいね」


 ぎこちなく言葉を伝える。そうすれば祈君は微かに目を丸くしてから、眉を下げて笑ってくれた。


 私の指先が震えている。


 これ以上先に祈君を歩ませてはいけないような、そんな感覚。


「着いた」


 意識を途切らせる時沼さんの声がする。


 前を向くと、集会所のような建物の扉を彼が開けているところだった。


 私の心臓が徐々に早くなる。


 最初に見えたのは目を痛めてしまいそうな白。それは大きな獣の毛並みであって、背中に座っている女性が楽しそうに笑っていた。


「やぁ、強く気高く、愛らしい戦士諸君! よく来てくれたね」


 そう笑った女の人は白い服を身に纏い、黒く前下がりに揃えられた髪を揺らしている。黒縁眼鏡の奥の瞳は心底楽しそうで、彼女は狼の上から身軽な動きで降りていた。


 そうすれば狼は向かって左側に、女の人は向かって右側に腰を折りながら下がっていく。まるで主人を迎える執事のように。


 ドラマの知識だけのそれを再現したような二人の向こうには、まっさらな円卓が置かれていた。


 そこに腰掛けて、誰も彼もの視線を集める兄。


 黒い髪と、人形のように精巧に整った顔立ち。その美しさは何年見ても耐性がつかなくて、零れる言葉は確かな刃だとも学んでいる。


 兄さんは長い足を組んでこちらを凝視していた。私は、扉を開けてくれている時沼さんとお辞儀をしてくれている女性に会釈し、帳君に続いて部屋に入る。


 兄さんの横には眉を下げて立っている男の人もいた。幼さがやっと抜けたような顔で、それは誰かに似ている気がするんだ。


「……あぁ」


 帳君が呟いて、少しだけ祈君の方を向いている。その動作によって私の心臓は締まり、嫌な汗が頬を伝っていた。


 隣を見る。


 祈君は、兄の隣に立っている彼を見つめていた。


 後ろで扉が閉められる。


 兄さんは口を開かない。


 誰よりも先に口を開いたのは――祈君だった。


「兄貴、おやすみって嘘だったんだ」


 憂いを纏った祈君の声。眉を下げて微笑んでいる男の人を私は見て、喉が締め付けられていた。


 あぁ、どうしてさ、神様よ。


 貴方は何故こうも、無慈悲になる。

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