第91話 言葉

 

 目が覚めた。


 視界を染めたのは、橙と紫の混ざった空と深い緑色の木々だった。


 一瞬で状況が判断出来ない。頭は霧がかったように思考が散漫で、ここがアルフヘイムなのかタガトフルムなのかすらも分からない。眼球は輝く雲を見つめて、動かすことが出来なかった。


 ここ何処どこ、何してたっけ、何が、何で、今何時。みんなは、怪我は痛くない。りず君、ひぃちゃん……らず君?


 私の頭の中に記憶の波が押し寄せ、霧が晴れていく。


 ムオーデルさん、地下、ひぃちゃん、崩壊、渦、液体、らず君、欠片、パズル、りず君、亀裂、暗い、心、私の大事な――


 硝子のハート。


 瞬間、弾かれるように飛び起きて、その時初めて帳君が近くにいたことに気がつくのだ。


 目を丸くしている帳君。私も目を見開き、彼の腕を無意識の内に掴んでいた。


 青いハート、風穴が崩れて。


「帳君」


 口が勝手に彼を呼んでしまう。帳君は無表情に戻ると、穏やかな声で「何?」と聞いてくれた。


 私の開いている掌が地面に触れる。そこには柔らかい芝が広がっていた。


 ここは何処。ムオーデルのシュスに生贄はいなかった。何この状況。祈君のハート。


 思考が纏まらない。どれから聞けばいいのかも。


 まず祈君。彼が無事か。私のパートナーについても聞かなければ。あぁ、えっと、取り敢えず呼吸。


 必死に頭の中を整理しようと深呼吸すれば、帳君は優しく背中を撫でてくれた。その温かさに自然と目頭が熱くなってしまう。


「雛鳥なら無事だよ、まだ寝てるけど。ここはムオーデルの広野から離れたシルフの野原……もう出たんだよ、あの訳分かんないシュス」


 質問をする前に答えてくれた帳君。それを聞いて肩に入っていた力は抜けた。


「そうなん、ですか……ありがとうございます」


 眉が下がって笑った自覚がある。すると帳君は、背中側に置いていた何かを私に差し出してきた。


 日が反射する。


 緋色の液体が滴り落ちて霧状に溶けた。


 透き通る硝子に幾重いくえにも入ったヒビ。


 気づけば私は、それを両手で奪うように受け取っていた。


 見られた、私の硝子のハート。ボロボロで痛々しくて、ここまで傷ついた覚えはなかったのに。今にも崩れてしまいそうなこの硝子。


 私はそれを抱えて、帳君の顔が見られなかった。


 ……あぁ、そうだ、これは私のパートナー達だ。大好きで大切な、私の――友達なんだ。


 ムオーデルさんの手が鳩尾に添えられたのを思い出す。りず君が喚いていた声も。


 私に触れていないムオーデルさんの手に、吸い込まれるようにして形を崩したひぃちゃん達。それは暗くなる視界の端で元のハートに戻っていたんだ。


 そう、そうだ、私は見ていた。


 壁に埋められた帳君が最初。私が部屋に落とされた時、ムオーデルさんに手を添えられていた彼は突然意識を無くし、青く穴が空いたハートが引き抜かれた。


 それと同時に、ルタさんの悲鳴が聞こえたではないか。


 押さえられていた祈君とルタさんを見れば、ルタさんの体が崩れて黒いハートになっていた。青い心電図が流れるハートの形に。


 耳の奥で、扉が蹴破られるような音がした。


 そして意識が無くなった後、ここにいた。


 なんでムオーデルさん達がりず君達を心の形に戻せた。三人はアミーさんが作り出したのに。ムオーデルさんってなんなんだ。


 私は訳が分からない現状と、自分の心を見られたことに呼吸が乱れる。


 何を言われるか、何を感じさせたか、何を思わせたか。


 不安で心配で、肺が痛い。


 私の肩は震えてしまい、顔を上げることは出来なかった。


 すると、頭に乗る温かさがあって。


 見上げると、目の前には青く崩れたハートが出されていた。


 それは帳君の中から抜かれたもの。


 私は目を見開いて、帳君は聞いてきた。


「気持ち悪い?」


 そんなことを聞くなんて。


 私は顔を歪めてしまい、首を横に振ったのだ。


「気持ち悪いわけが、ないでしょ」


 人の心に同じものは無い。綺麗なんて基準はない。綺麗も汚いも、思うのは人の感性だ。私は帳君の心を気持ち悪いだなんて――


「俺もだよ」


 見上げる。


 彼は眉を下げて微笑み、私の前髪を優しく指で撫でてくれた。


 視界が滲んでしまう。


「氷雨ちゃんは俺の心を気持ち悪いなんて言わないって知ってた。俺だってそうだよ」


 帳君の指が私の頬を撫でて髪を絡め、軽く引かれる。


 私は目を見開いて、頬を熱いものが伝っていった。それを帳君は親指で拭ってくれる。


 あぁ、あぁ、畜生……。


「氷雨ちゃんの心は綺麗だ。でもそれを誰かに見せるのは嫌いなんだと思って、だからアイツらから離れたここに運んで来たんだよ」


 帳君は自分の心を芝の上に置いて、私の髪を撫で回す。髪が乱れて顔は下を向き、帳君は「俺、早く目が覚めたからさ」なんて目を伏せていた。


「雛鳥は見てない。鉄仮面は毒吐きちゃんに御執心。毒吐きちゃんは放心。金髪は心配で狼狽えてたから無視した」


 淡々と教えてくれた帳君。


 翠ちゃんが放心だなんて。心配をさせてしまった、ごめんなさいと謝らなくては。


 時沼さんも私が泣いてしまった時のように焦らせてしまったのだろう。申し訳ない。


 細流さんが翠ちゃんに御執心なんて、そこはいつも通りかもしれない。彼は翠ちゃんの騎士様だもの、なんて勝手なイメージです。


 あぁ、でも次会う時、どんな顔をしたらいいのか私は分からない。


 心獣であるみんながいなくては私はただの人だ。足でまといになってしまう。


 だから祈君が無事であると分かった今、彼が無事だと知れた次は、自分の心を戻してもらう必要があるんだ。


 思って、首から鍵を引き抜く。


 帳君も同じようにして、私達はほぼ同時に鍵の宝石を叩いていた。


 アミーさんが出てくる。


 映像として現れるのではなく、目の前に出てくる。


 私は目を見開いて、黒いタキシードの兎さんに抱き締められた。


 息が一瞬止まる。


 アミーさんは私を痛いほど抱き締めて、彼の肩が震えていることに私は気がついた。


「……あみー、さん?」


 つたなく彼を呼んでしまう。心を持っていない手を広い背中に回せば、思っていたよりも細く、アミーさんは折れてしまいそうだと気付かされた。


 青い被り物の耳が震えている。


 私は横目に、オリアスさんが帳君の顔や体を細かくチェックしている様を確認した。


 過保……いや、違うよな。


 私はアミーさんの背中に回した手を摩る為に動かす。


 そうすれば、アミーさんは肩を跳ねさせて泣き出しそうな声を零すのだ。


「ぶじで……よかったぁ……」


 その言葉は一体どんな意味を込めたものなのか。


 自分達の駒が無くなるから。選び直すのが面倒だから。勝つ為の駒を失いたくないから。


 彼にあるであろう利益を考えて、けれどもそれを確認することが出来ない。


 まるでアミーさんは、私を駒とか手下とかではなく――友人のように心配しているようにも見えてしまったから。


 アミーさんは離れると、黙って赤い硝子玉の目を向けてきた。


 あぁ、何を口にしよう。


「……出てきてくださって、良かったんですか?」


 本当に聞きたいことを仕舞いこんで、二番目に聞きたかったことを問うてみる。


 アミーさんは腕を広げると、明るさを纏った声を溌剌と吐き出していた。


「大丈夫だよん!! 今回はムオーデルのシュスに近づいた時のイレギュラー処理! 戦士の心を戻す為に僕らはやって来たのさ!」


「イレギュラー処理……」


 アミーさんが私の手から硝子のハートを取っていく。その動作を視線で追い、耳はアミーさんの声を拾っていた。


「そ!! 僕ら兵士の心を引き抜くっていう力は、ムオーデルの力を参考にしてるんだよね! この手袋に術式を組んで縫い込んで、ってまぁそんなことはいいんだよ! 僕は氷雨ちゃんの心をりず君達に直して、氷雨ちゃんはまた生贄を探す!! 以上綺麗さっぱり解決ってね!」


「解決っていうか、なんであんな頭おかしい住人だって先に教えてくれなかったのさ」


 帳君がオリアスさんの顔を押し返しながら聞いている。


 確かにそうだ。心獣を狙ってるとか壁をすり抜けるとか、地下から手が出てくるとか、教えてくれれば今とは違っていたのかもしれないのに。


 アミーさんは「それがねぇ」と腕を組んでいた。


「ムオーデル達は心獣が欲しくて仕方がないんだ。だから中立者に直談判して、戦士に情報を多く与えないって言う締結があるんだよ〜」


「直談判……」


「そ! ムオーデルはペリュトンに殺された住人でね、体は腐って頭は働くのに心が無いから半端なんだ! 物はすり抜けられるのに温かさのある生物には触れてしまう。夜に現れるペリュトンに殺されたから昼間外には出られない、から地下に住む! そんな不器用で、欲しがりで、傲慢なのがムオーデル! きゃ、話しちゃった」


「口が軽いぞ、アミー」


 アミーさんのまくし立てるような言葉の羅列に目を見開き、「何も知らない」が減っていく。


 帳君の鳩尾辺りに心をゆっくり押し込んでいくオリアスさんは、青い兎さんを注意していた。


 アミーさんは「まぁまぁ」と軽く笑いながら、硝子のハートを両手で持ってくれている。私の心は輝くと、まずは緋色の液体が浮いていった。


「あぁ、懐かしいね」


 液体は徐々に形を成していき、小さな緋色のドラゴンに姿を変えた。私は夕焼けを思い出す。


「次は、ヒビから」


 次にヒビが発光し、茶色い針鼠になる。ヤマアラシのサイズではない。最初の頃よりは大きいけれど、それは針鼠と言っていい彼だ。彼なんだ。


「最後は、砕けて、それでも戻ることを止めなかった、勇敢な臆病者を」


 最後に硝子から生まれたのは、りず君と対になる透明な針鼠。硝子細工で出来ているようで酷く儚げな存在に見える、だなんてもう言わない。


 久しぶりに見たらず君は目を瞬かせて私を見上げ、大粒の涙を零していた。


「らず君ッ」


 硝子の彼が私の胸に飛び込んできてくれる。らず君は何も喋らないけれど、全身で喜びを私に伝えてくれていた。


「なんで、まだ戻ってはッ」


「そうだね。完全には戻ってなかった。でも一度原型である心に戻って、僕が作り直すことによってまた針鼠になれたのさ。らず君の戻りたいって意思も気力もあったから」


 アミーさんは「それが足りなきゃ難しかったかな」なんて笑っている。


 目を覚ましたひぃちゃんは私の肩に飛び乗って、りず君は雄叫びを上げていた。


「視界が低ぃ!! もうヤマアラシじゃねぇのか俺!?」


「見た目はね。体重は見かけよりあるから、氷雨ちゃんの肩に乗りすぎると肩凝り起こしちゃうね!」


「んだと!?」


「りず君、ひぃちゃん」


 騒ぎ出してしまいそうだったりず君を呼び、らず君と一緒に抱き上げる。


 確かに重たいけれど抱けないほどでは無い。いい筋トレだと思う。


 ひぃちゃんの首に手を伸ばせば、お姉さんの硬い鱗の手触りを感じることが出来た。


「おかえり……」


 言葉を絞り出す。


 三人は笑って、私の髪が風に引かれた。手を差し出してくれる帳君が見える。


 だから自然と手を差し出して、私は彼に引っ張られた。


 自立する。お礼を言えば、帳君は軽く手を振るだけだ。


「戻せるなら早くそうしてあげても良かったのに」


 帳君はアミーさんに言っている。


 いいや、違うんだよ帳君。


 アミーさんは「治る」とは言ったけど、「治せる」とは言っていなかった。


 アミーさんは首を傾げると楽しそうに答えている。


「心は本人が戻りたいと思わなきゃ治せないしね。ゆっくり治すのがいいんだよ。ここまでの過干渉はイレギュラーがないと出来ないし、僕が治さなくたってらず君は元に戻ってたさ。りず君はヤマアラシのままだったかもだけど」


「俺氷雨に抱っこされたかった」


「りず君可愛い」


「氷雨!」


 腕の中で怒ってしまったりず君はやっぱり可愛くて、らず君の額を撫でる指は止まらない。


 そうだ、もし「戻る気力があれば治せる」と言われていれば、私はきっと「戻さなければいけない」と強く考えていたに違いない。


 それではきっと、らず君達の戻りたい気持ちを邪魔していた。「戻りたい」ではなく「戻さなければいけない」は鎖になりかねない。


 アミーさんはそれを見越していたのかな。


 アミーさんに頭を下げれば、彼は頭を撫でてくれた。


「さぁ、戻るがいいよ、僕の駒。逃げるなんて出来ないよ。君は生贄を集めて、祀って殺す。それだけすれば生きていられる。僕らディアス軍に勝利を、平和を、平穏を」


 アミーさんはひぃちゃんの頭に手を置き、りず君を撫で、らず君をつついていく。


 三人は目を瞬かせて、私はアミーさんを見上げた。


「僕が作った心獣だから治すことも出来るし、砕くことだって出来る……最初に言ったよね。逃げるなんて許さないって」


 念を押される。頭の中ではアミーさんの言葉が反響して、頷いていた。


 オリアスさんは帳君に言っている。


「帳もだ。心に埋めた力を制御出来ない爆弾に変えれば、数分ともたない内に壊れるぞ。だから他のことは考えるな。ルアス軍に情けはいらない……勝て、俺の駒」


 脅しにも聞こえる言葉。それでも二人の言葉はどうしても怖いと思えなくて、私は帳君の言葉を聞いていた。


「分かってるよ。金髪とか早蕨光に深入りすんなって言いたいんでしょ? 俺は生きて幸せになるって決めてんだから、余計なお世話だよ。力も戻ったしさっさと帰れ」


「こら帳君! 口の利き方が悪いぞぉ〜」


「うるさいよ、腹の底が見えない兎だな、ほんと」


 呆れながら歩き始めてしまう帳君。私は彼の猫っ毛を見つめて、ふと背中を押された。


 見ればアミーさんが私に向かって頷いてくれるから、私も微笑んで小走りに帳君を追いかける。


 すぐに追いつけば、アミーさんの声が聞こえた気がした。


「――どうか……死なないで」


 反射的に振り返る。


 しかしそこにアミーさん達の姿は無くて、私はりず君とらず君を抱き締めてしまった。


「氷雨ちゃん?」


 帳君が少し先で立ち止まっている。私は彼を見て、もう一度だけ振り返り「なんでもないです」とまた追いついた。


 帳君は深くは聞いてこず、お互いの心の形も話題に出さないでいてくれる。


 それに安堵していれば直ぐに林は抜けたのだ。


「氷雨ッ!」


 野原で座り込んでいた翠ちゃんが立ち上がるのが見える。その奥には祈君とルタさん、細流さんに時沼さんもいて、私は心が軽くなった気がするのだ。


「翠ちゃん!」


 走って近づいてきてくれた友達が私を抱き締めてくれる。


 彼女の震えていた肩に私はアミーさんを重ねてしまい、それを直ぐに振り払っておいた。


「無事……無事ね」


 確認するように聞いてくる翠ちゃん。私は頷き、離してくれた彼女を見上げた。


 その綺麗な双眼には涙の膜が張っている。


 あぁ、ごめん、ごめんなさい、心配をかけて。


 謝ろうって決めていたのに、いざ本人を目の前にするとその言葉を飲み込んでしまう。


 違う、今は謝ってはいけない。


 そう思った私は、笑って違う言葉を送るのだ。


「ただいま、帰りました」


 そうすれば翠ちゃんはらず君達にも気づいてくれたようで、顔いっぱいに笑顔を浮かべてくれた。


「おかえりなさい、氷雨。ひぃも、りずも、らずも」


「戻りました、翠さん」


「おう!」


 私のパートナー達は嬉しそうに笑って、私も破顔してしまう。


 祈君とルタさんはどう声をかけようかと迷っているような雰囲気で、だから私は彼らにも言葉を伝えるのだ。


「祈君、ルタさん、ご無事で良かったです」


「ひ、氷雨さんも良かった。みんな戻ったんですね」


「はい、イレギュラー処理ということでアミーさんが」


「それなら僕らもです。ストラスが来て僕を治してくれました」


「そうだったんですね」


 イレギュラー処理に救われたと実感しつつ、何も言わずにこちらを見つめていた細流さんを見る。


 彼は無表情ながら、何度も両手を開閉させて私達全員を見下ろしていた。


「――梵」


 翠ちゃんが細流さんを名前で呼ぶ。


 呼ばれた彼は一度目を伏せると、ふとその両目から――雫が溢れていった。


 目を見開いてしまう。


 いつも何を考えているか分からなくて、何処を見ているのかも定かではない。それでいて強く、凛々しく、私達を支えてくれていた細流さん。


 そんな彼の表情が変わる時を、私は見た覚えがない。


 雰囲気が少し変わることがあっても……涙を流すなんて今まで、一度も。


 驚愕に黙ってしまえば、細流さんは自分の涙を拭かないまま言葉をくれた。


「無事で――よか、った」


 いつも通り片言で、それでも、安心したという感情が乗った声。


 細流さんは自分の左胸を掻き毟るような仕草を見せて、目を伏せていた。


「もう、何処にも、行かない、で、くれ」


 それは、優しい彼がくれる温かな言葉。


「消えない、で、くれ」


 涙が溢れて止まらない、大きな体の、けれども小さな子どものような人。


「生きて、いて、ほしい」


 彼を初めて見たような気がして。


「……明日も、一緒に、進んで、いたい」


 彼の想いを貰った気がした。


「俺、は、祈に、帳に、氷雨に、翠に、出会えて、本当に、嬉しく、て、失い、たく、ないん、だ」


 細流さんが目を開けて、翠ちゃんは彼に近づいていく。彼女の綺麗な手は、背の高い彼の涙を優しく拭っていた。


「分かってるわ、梵。大丈夫、伝わった」


 翠ちゃんが微笑みながら私達を見てくる。祈君、帳君と顔を見合わせた私は、頬を緩めて頷くのだ。


「細流さん、いつもありがとうございます」


「俺達、いつも貴方のこと頼りにしてるんです」


「その強さ、いいよね」


 それぞれ言葉を送って、細流さんを見る。


 彼を目を見開くと、ゆっくりゆっくり、ぎこちなく、今まで使ったことが無いとでも言うように、顔の筋肉を緩めていった。


 細流さんの無表情が崩れる。


 彼は目を細めて、口角を上げていた。


 それは――笑顔。


 夕焼けを背にした細流さんの、心底満足したような笑み。


 私だけでなく祈君や帳君は驚いたように肩を揺らして、けれど誰も指摘はしなかった。


 直ぐに笑顔が解けた細流さん。


 それでも空気は柔らかくて、幸せそうだと自然と感じてしまうのだ。


 穏やかな和が出来る。


 それは愛おしくて、この世界だからこそ作られた関係。


 普通に生活していれば、きっと出会えなかった私達。


 この関係が永遠であれば良いと思うと同時に、私は、和に入れない白い彼を見るのだ。


 一人離れて笑っている時沼さん。


 彼にも心配をかけた。だから「戻りました」と伝えたくて、しかしそれより早く時沼さんの呟きが聞こえた。


「――俺は、みんなを守るよ」


 その真意が、読み取れない。


 空から伸びてきた黒い手を視界に入れながら、穏やかに微笑む時沼さんを私は見つめてしまっていた。


 * * *


 青い兎は夜になる世界を見つめていた。


 被り物の目から光が無くなっていく。


 彼は息を吐くと手袋を外し、動かしがたい左腕を摩っていた。


「……春を祝って、夏を過ぎて、秋を感じて、冬を迎えて、また、春を祝う……それだけで、良いんだよ」


 呟いた兎の顎から――涙が伝い落ちる。


 飲み込まれた嗚咽おえつは本人すら聞き取れないまま、夕闇に消えたのだ。

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