第89話 無様
目の前の
けれどそれは甘えだと思う。安心するなと自分に言い聞かせ、首に尾を巻き付けてくれているひぃちゃんに感謝した。
進まなければいけなくて、ならば目を逸らすことをしてはいけない。
私は頭の中で復唱し、祈君の肩に指を触れさせた。
赤い毛先の彼の肩は震えている。それが触れた場所から伝わって、私は言葉を考えるのだ。この状況を理解出来ていない癖に。
それでも、私の前に立ってくれた彼の震えを止めたいと思って。
そんなエゴの塊として私は呼びかけを選び、考え、決めていた。
「祈君」
決めたのは、名前を呼ぶということ。
私は名前を呼ばれると落ち着くから。私の基準で考えて、私が落ち着くことを相手にする。自分が嫌なことは相手にもしないだなんて言ったいつかの先生よ、私はその反対を致します。
祈君は私を見ると、目元に広がっていた緊張を解いてくれた。その反応を見て、私は微笑むことが出来る。お礼の言葉を送りながら。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ。私だって戦士ですから」
祈君の肩を軽く叩いてみる。そうすれば彼はルタさんとの同化を解いて、微笑み返してくれた。
「俺の方こそ、名前呼んでもらえて落ち着きました」
はにかんでくれた祈君。その幼さのある顔が可愛くて、私は顔から力が抜けてしまった。背景に似合わぬこの癒し加減。
私は祈君の頭に乗ったルタさんも見て、落ち着きある瞳と視線を交えておいた。綺麗な目だ。
「ありがとうございます、氷雨さん。見栄を張る祈を気遣ってくださって」
「いや、そんな、こちらこそ」
ルタさんから言葉を貰い、私は苦笑してしまう。見栄だなんて分からなかったし、気にも止めなかったよ。
祈君は「み、見栄じゃない!!」と顔を赤くして怒っている。可愛いなぁ。
仲の良い祈君とルタさんを私は見つめて、その奥へ視線を移動させた。
舞い戻った現実は私の視界に黒と異質を植え付ける。
時沼さんは一足先にお城に入り、倒れているムオーデルさん達の首筋に指を乗せた。私は空気を吸って、固まっていた太腿を叩いておく。
進め。
そう自分に言い聞かせ、私はお城の中に祈君と一緒に足を踏み入れた。歯を鳴らしているりず君の頭を撫で、ひぃちゃんの尾に指を当てながら。
城内はまるで外と別世界で、空気が澱んでいるように感じる。その感覚に鳥肌を立てれば時沼さんが振り返ってくれた。
彼の足元には重たい血液が流れて、出元はムオーデルさん達だ。
立ち上がった彼は私を見下ろしていた。
「死んでるってわけじゃなさそうだな。首が捻れてても息はしてるみてぇだし」
「そう、だったんですね」
死んでいないと言う事実に安堵する。その言葉だけで私の不安は薄れていき、同時に細流さんへの心配は増長するのだ。
この状態ではムオーデルさん達は動けない。呼吸をしているのはしゃがんでみれば確かに分かり、耳を澄ませれば捻れた首の皮膚が軋んでいるのが聞こえてきた。
治ろうとしてる。
自然と感じ、私は立ち上がった。
思い出したのは空気の中を泳ぐ金の光りの粒。弾けるように消えてしまったオヴィンニクさん達。
私はムオーデルさん達を見下ろして、そこで生きている住人さんを見つめてしまった。
「細流さーん!」
ふと、お城の中に反響したのは祈君の声。彼は中央の風穴に向かって細流さんを呼んでおり、返事を待っているようだ。
私はムオーデルさん達を
祈君と私を引きずり込んだ赤黒い手。
どれだけ倒れて捻れようと、生きる為に治ることが出来るであろうムオーデルさん。
私は血を流す住人さん達より、見えなくなった仲間を想ってしまうんだ。
後ろに倒れている彼らだって生きているということに変わりはないのに。私は私の仲間が大切で、それ以外に向ける気力がない。
薄情すぎる自分に落胆しながら穴を覗き込む。祈君はもう一度「細流さーん!」と呼んでいて、私も一緒になってお腹の底から声を張った。
「細流さーん! 翠ちゃーん!! 帳くーん!!」
穴の底に響き渡る祈君と私の声。祈君が細流さんしか呼ばないことを不思議に思ったが、関係性的な面が影響していると考えて何も言いはしなかった。
祈君の逆隣ではりず君も叫んでくれている。
「おーい!! 誰かいねぇのかー!!」
私達はそこで黙り、答えを待つ。待って、待って、それでも返事は貰えなくて、代わりに地響きのような足音を聞いたのだ。その音は徐々に大きくなっている。
私達は驚いて穴から距離を取る。
足音は大きい。全力走行。ムオーデルさんか。いや違う、彼らは浮いていたのだから。
私は状況を何とか整理し、穴から脅威の跳躍力で飛び出してきた――細流さんを見たのだ。
黒いTシャツの裾をはためかせて着地した細流さん。彼は私達を無表情に見つめて、その漆黒の瞳は何を考えているか読み取ることが出来なかった。
「細流さん」
「ぁの、すみません、俺達戻ってきて、」
私の呼び声にも、祈君の言葉にも答えず近づいてきた細流さん。
彼の拳からは血が滴っており、頬には汚れがあった。
それを理解出来る前に、祈君と私は――屈強な腕に抱き締められる。
視界が狭まって、硬い筋肉のついた体を服越しに感じた。
大きな細流さんに抱き締められれば、祈君も私も身動きが取れなくて。と言うよりも、動きを取ろうとは思えなくて。
何も言わない細流さん。
彼は黙って私達を抱き締めて、抱き締めて、抱き締めてくれた。
鼓膜を震わせる心音は私のものか、彼のものか。分からなくて、それでも細流さんが心配してくれていたと言うことは伝わってきた。
この行為への正しい返答は分からない。だから私は、広い彼の背中に手を回すことで安心を伝えていたかった。
祈君もぎこちなくも細流さんの背中に手を回している。ルタさんは細流さんの頭の上に留まり、りず君は擦り寄っていた。
「……細流さん」
祈君が、何も喋らない彼を呼んでいる。細流さんは微動打にしないまま、私達を抱き締め続けていた。
「氷雨! 闇雲!」
「無事だったんだ」
「ぁ、翠ちゃん、帳君。無事です。時沼さんのおかげで……」
細流さんの肩越しに背伸びをしながら答えてみせる。
そこには翠ちゃんと帳君が穴から地面に着地している光景があり、私は懐かしさに胸を締め付けられた。
二人の息は若干上がっているようで、翠ちゃんは「時沼……」と眉を
ひぇ、翠ちゃん、何故、そんな……。
細流さんに抱き締められたままで質問が出来ない私は、凍てつく空気を流している翠ちゃんを見ていた。
「あんたは氷雨を掴んだ癖に何ですぐ転移しなかったのよ。その力は飾りなのかしら。お陰でこっちがどんな気持ちでムオーデル気絶させて地下に潜ったと思ってんのよ」
「わ、悪ぃマジで、俺も全然頭回ってなくて」
「その力抜いて私が貰ってあげましょうか?」
「勘弁してくれ……」
「す、翠ちゃん……」
鬼気迫る勢いで時沼さんに詰め寄り、胸ぐらを掴んでいる翠ちゃん。彼女の迫力に気圧されている時沼さんは蛇に睨まれた蛙状態で、私は何とか弁解をしようと思うのだ。
だがしかし、力が強まるばかりの細流さんに、失礼ながら絞め殺されそうな今現在。ここからどうにか抜けることが私には今必要な気がする。大変申し訳ないのだがッ
「せ、細流さ、ん」
「くる、くるし……」
祈君と一緒に細流さんの背中を叩いてギブアップを示す。その言葉も行為も細流さんに通じたのかは分からないが。
私は苦笑してしまい、勢いよく細流さんを引き剥がしていく帳君を見上げた。無表情の彼と目が合ってしまう。
ただいま戻りました。ご心配おかけして申し訳ございません。時沼さんのお陰で祈君も私も無事だったんです。
そう伝える前に、両肩に手を乗せられた私は口を結ぶ。
帳君は私を穴が空きそうなほど見つめて、静かに口を動かしていた。
「……おかえり」
私の肩からは力が抜ける。顔は緩んでしまって、帳君は私の髪を風で引いていた。
「ただいま、戻りました」
肩に乗る帳君の手に自分の手を重ねて、笑ってしまう。帳君は息を深く吐くと少し強めに髪を引いてきた。
「さっさとこんな場所、出るよ」
私の頭の上に移動していたひぃちゃんは頷き、りず君は軽く体を揺らしている。
「そうですね、ここは長居しない方がいい場所のようです」
「さっさと行こうぜ、俺怖ぇよ」
「だね。そこに倒されているムオーデル達も復帰しそうだ」
ルタさんは細流さんから祈君の頭へ移動して、床を見下ろしていた。
ここは長居すべきではない。
私もそれに同意見で、帳君は背中を柔く押してくれた。見れば、先へ進むことを諭すような彼がいる。それに笑ってしまう私は足を前に出した。
「さっさと行こうよ。鉄仮面が地下で倒したムオーデル達もいつ戻るか読めないし」
「首を折られても生きてるなんて、理解出来ないわ」
帳君は肩を
あぁ、あの、時沼さん、そんなに肩を落とさないでくださいませ。貴方は何も悪くない。
そう言う前に、翠ちゃんが時沼さんの背中を叩くのが見えて、私は口を
……後でちゃんとお伝えしよう。このままでは時沼さんが背負わなくていいものまで背負ってしまうそうだ。
決めた私は内心で頷き、首の捻れが緩和しているムオーデルさん達を通り過ぎていく。その生命力、私にも分けて欲しいところだ。
「……ん、じゅ……」
ふと後ろから聞こえてきたのは、途切れ途切れのムオーデルさんの声。
私は振り向き、空洞の目でこちらを見上げている住人さんを見つめた。
「し……じゅ……」
何か言っている。駄目だ、これは聞き取ってはいけないことだ。
本能的にそう思えて、りず君が私の足を頭突きで押してくれる。見下ろしたパートナーはここを出たがっており、私は
ここにいてはいけない。
そう告げられた気がしてお城から足を踏み出す。
瞬間。
地面から伸びた赤黒い手を見て、それがひぃちゃんを掴んだのだ。
それは一瞬。
瞬きの間の出来事。
私の首から尾を離したひぃちゃんが、地面の中に猛スピードで引きずり込まれてしまうだ、なんてッ!
「ひぃちゃん!!」
「ひさめさッ」
「うぉあ!?」
途切れた声と同時に、今度はりず君の叫び声がして振り返る。
そこには先程までいた筈の茶色いヤマアラシも、硝子の欠片もいなかった。
「りず君、ッらずく、」
「ぅあ!?」
「ルタ!!」
私の声に重なるように聞こえたルタさんの悲鳴。祈君の裏返った声と同時に、赤黒い手とルタさんは地面に沈んでしまっていた。
やられた。
完全に。
出られると思ったところでッ
「そんな、ルタ、ルタ!!」
祈君がルタさんの飲み込まれた地面に膝をつき、手で思い切り叩いている。片手の指の関節を噛み始めた彼は、今にも発狂してしまいそうだ。
かく言う私も、今は冷静ではいられない。
ひぃちゃん。
りず君。
らず君。
私の、大事な――ッ
「ひぃちゃん、りず君ッ、らず君!!」
私はひぃちゃんの飲み込まれた地面に膝を着いて、硬いそこに腕を振り上げる。
同時に目の前に現れた赤黒い掌を理解した時、私の体は力強く横へ飛ばされていた。
風が私を引いている。
眼球だけを動かして見た先には、気味の悪い手に捕まった帳君がッ
「とばッ」
「ッ!!」
呼ぶ前に地面に引きずり込まれた帳君。
私のせいだ、私の――
いいや今はそんなこと考えるな後にしろ。今は、今は、今、今は!!
体勢を立て直した私の視界の端で、祈君を庇った翠ちゃんが地面に沈められていく。彼女に伸ばされた手を掴んだ細流さんは、それでも翠ちゃんを引き止めることは出来なかった。
細流さんの手の中から、翠ちゃんの手が抜けて沈んでいく。
再会して一言も発していなかった彼は、自分の頭に両手を当て、確かに髪を掻き毟っていた。
今まで見たことがなかった彼の人らしさ。
それに気を取られた内に、祈君と私はほぼ同時に赤黒い手に捕まっていた。
折角戻ったのに。
折角また会えたのに。
置いていかれてなかったと、探してくれていたのだと安心出来たのに。
太陽が遠くなる。
私は無様にも、再び空とお別れした。
今度は一人で、虚しくも。
「凩ッ!! 闇雲!!」
そんな時沼さんの手は、二度も私に届くことはなかったんだ。
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