第64話 変化

 

 流れるお湯が真っ赤になっている。


 鉄の匂いが鼻をつく。


 シャワーを浴びる私は両掌をこすり合わせていた。


 固まっていた血は排水口に吸い込まれ、自分の頬も擦っておく。音を立てて床に落ちた赤い塊はあの二人のどちらかで、けれどもどっちかなんて判断出来ない。


 その小さな塊も排水口に吸い込まれていき、私の胃から酸性の液体が込み上げてきた


 床に無遠慮に胃液を吐き出して鼻を啜り、シャワーの勢いを強めておく。


 涙が溢れそうになるが、それは無意味だと自分に言い聞かせた。だから強く顔を擦るのだ。


 泣いても命は戻らない。


 覚悟を持って逝ってしまった彼らに涙は不要だ。


 だから泣くな氷雨。お前が泣いても意味は生まれない。


 胃液も一緒に排水口に流し、体には痛いほどお湯が叩きつけられる。


 このお湯が血や吐瀉物としゃぶつと一緒に、私の感情まで流してくれたらいいのに。


 そんなことは出来ないと分かっていながら私はシャワーを浴びるのだ。


 火傷でもしたように掌は傷んだが、そんなものはどうでもいい。


 いつもの倍以上お風呂場にもり、散漫な動作で制服を着込む。ドライヤーで髪を乾かせば、メネちゃんが頭を撫でてくれた感触が蘇ってきた。


 それが余りにも歯痒くてドライヤーを床に落とす。


 熱風が足に当たって肌を焼く。うるさい稼動音は脱衣所に響き、私の中で苛立ちが生まれていた。


「ッ、くそ!!」


 力の限り洗面台を殴ってうずくまる。手が痛いと言って、叫んだ喉は枯れ気味だ。


 駄目だ、いつも通りでいなくては。笑えよ弱虫。


 勝手にシュスに行って、勝手に傷ついたのはお前の身勝手な行動のせいだ。


 覚悟を決めていた彼らを止めようだなんて、お前に何の権限があったんだ。何も無いだろ馬鹿野郎。


 ドライヤーを拾ってリビングに向かう。台所には母が立っており、私を見ると目を丸くしていた。


「氷雨……? どうしたの?」


 料理を止めて近づいてくれるお母さん。


 私は努めて笑い、今日も白い手袋をつけている母を見つめるのだ。


「なんでもない。おはようお母さん」


 お腹に力を入れて挨拶する。


 お母さんは眉を八の字に下げて私の頬に手を伸ばしたけれど、それは触れる前に引っ込められた。


 恐れるように震えた母の手。


 その手に期待はしない。私に触れることなど夢のまた夢だ。


 脳裏に浮かんだのはスーパーの陳列棚と、青ざめた顔で私を見下ろした母の目。弾かれた手の痺れ。


 その母がぶれて、メネちゃんとヴァン君へと変わる。


 そこにいる二人は優しく笑っていた。だがその笑顔は黄色い花によって弾け飛ぶ。


 一気に顔に熱が集まり、それを私は俯いて隠す。いつも通りを演じていたくて。


「朝ご飯の準備、手伝うよ」


 * * *


 今日の授業、何したっけ。


 夕暮れの教室で、気づけば私は鞄に教科書を詰めていた。


 古文に数学、美術に簿記、電卓にファイル……。


 何故か口角が上がって固まってる。誰とも話してないのに笑ってるって、とうとう完全に壊れたか。


 指で口角を下げる。筆箱も鞄に入れて私はファスナーを閉めた。


「やっと剥がれたのね」


 ふと声がして前を向く。そこには、こちらに体を向けて座っている翠ちゃんがいた。私の口角がまた上がる。


 彼女は自分の鞄を持って立ち上がると、静かな声をくれた。


「今日一日やけに笑顔だったけど、その顔を見るに無自覚なのね」


「……はい。というか、今日のことをあまり覚えて……」


 言いかけた自分の口を塞ぐ。口角をゆっくり下げて、目を伏せながら。


 手からまだ鉄の匂いがする気がする。


 それを感じるだけで体の中心から倦怠感が広がり、呼吸すら危うくなる気がした。


 冷や汗が額に浮いて口から手を離す。


 その時、翠ちゃんが肩に手を乗せてくれた。


「大丈夫? なんて聞かないからね」


「……はぃ」


 目を伏せて弱く頷いてしまう。


 翠ちゃんは私の肩を何度か叩くと、教室の出口へ歩き出した。


「痛かったら痛いと言いなさい。つらかったらつらいと言っていいの。貴方は貴方の命を一番に考えて」


 私は顔を上げて振り返る。翠ちゃんには「今日は補講休みなさい」と言われ、私自身もその方がいいと思って頷いた。


「アルフヘイムで、また会いましょう」


 翠ちゃんはそう言い残しす。


 私は自分の鞄を見下ろして、らず君達が入っている鞄を先に肩にかけた。


「……帰ろ」


 呟いて下駄箱に向かい、昇降口を出る。


 自転車の籠に荷物を全て置いてスタンドを外すと、自分の体がぎこちないことに気がついた。


 ……。


 正門まで自転車を押して帰ろうとする。


 けれども学校を出た先には時沼さんが立っていたから、私は足を止めるのだ。


「凩……」


 時沼さんと目が合う。


 私は笑い、首を自然と傾けた。


 時沼さんは私をしばらく見つめて、金色に染めた髪を掻いている。


「……元気……か?」


 聞かれてしまう。


 大丈夫、大丈夫なんです。勝手に傷ついてるだけだから、これは私の勝手だから、だから大丈夫。


 そう言いたいのに言えなくて。言えば涙が零れてしまいそうになる。


 私は微笑みながら頷きだけ返し、時沼さんからは不安げな空気が漏れていた。


 相変わらず可愛い人だ。


 思いながら二人で公園に行き、時沼さんがオレンジジュースを奢ってくれる。


 私も奢ろうと鞄の外ポケットから財布を出すと、一緒に鍵が落ちてしまった。


 何も考えずに突っ込んでしまった、銀に赤の宝石が埋まった鍵。拾って鞄の中を見るとピアスとチョーカーまで入ってる。


 朝の私、何考えてたんだよ。


「……それ、家の鍵か?」


 時沼さんに聞かれて私は顔を上げる。彼は首を傾げており、曖昧な言い方だ。


 家ではないけど、「アルフヘイムで祭壇を建てる鍵です」なんて言っても意味不明だよな。


 私は笑って鍵を拾い上げた。


「いいえ……ネックレスなんです。間違えて入れてたみたいで」


「……そっか」


 時沼さんは少し間を置いてから頷いてくれて、私は笑い続ける。


 それからオレンジジュースを買って彼に渡すと、時沼さんは穏やかに言ってくれた。


「なんか嫌なことあったら、話、聞くから。嫌な奴がいたら俺がなんとか出来ると思うし……大概は」


 髪を触ったりうなじを触ったり、忙しない空気で言葉をくれた時沼さん。優しい彼の声に落ち着いて、私はゆっくり微笑み返した。


「ありがとうございます」


 翠ちゃんと時沼さんに救われる。


 それでも私は彼に何も話すことは出来ず、並んでオレンジジュースを飲んだのだ。


 そうしてくれるだけでよかった。居心地は悪いかもしれないが、私は何も話せない。


「凩は、良い奴すぎるかもしれない」


「……そんなこともないですよ」


「いや、ある」


 時沼さんは私の頭を撫でてくれる。それにまた鼻の奥が痛くなるから、私は無理矢理笑うのだ。


 それから時沼さんは当たり障りのない話をしてくれて、その横顔は凄く頑張ってくれている気がした。


 申し訳ない。そんなに元気がないように見えるのだろうか。それでも謝ったら彼に失礼な気がするので謝りはしないのだ。


 謝罪は心の中で山のようにした。


 ごめん、ごめんなさい。気を使わせてごめんなさい。ほんとにごめんなさい。


 笑う私は心の中で謝り通す。


 その後、時沼さんと別れて帰路に着いた。


 家で両親に何を聞かれても「なんでもない」と答え続け、私はやっぱり笑うのだ。


 夜の自室で気づいたのは、らず君の体にヒビが入っていることだった。左横腹から背中の針にかけて。


 本人は気づいていなかったようで、私が指でなぞった時に知ったらしい。


 一瞬で肝が冷えて倒れるかと思ったけれど、痛みも違和感もなさそうなので一応安心した。


 りず君もなんだか一回り大きくなっている気がして、聞いても二人は首を横に振るだけだ。


「変なところない? りず君」


「あぁ、ねぇよ氷雨」


 りず君は頷いて、私の内情は安堵と心配で織り込まれた。


 りず君もらず君も元気。ひぃちゃんも穏やかなのに、この不安はなんだろう。


 心配性な私はアミーさんを呼んで、彼は優雅に現れてくれた。


「どうしたのかな、氷雨ちゃん!」


「らず君と、りず君が……」


「ありゃりゃ、こりゃこりゃ」


 アミーさんは優しくらず君とりず君を抱いてくれる。


 それから二人の頭を手袋をした手で撫でてくれた。私はひぃちゃんを膝に抱く。


「氷雨ちゃん、これは大丈夫じゃないんだけど、大丈夫なんだよ」


「……と、言うと?」


 アミーさんは何も答えてくれない。


 彼は私の頭を撫でて、優しい声をくれた。


「頑張ろうね、氷雨ちゃん。フォーン達のことは苦しかったら忘れていい。望めば僕が君の記憶を消してあげるし」


 記憶を――消す。


 あの熱くて嫌な空気を。握った手の感触を。二人の笑顔を。それが弾ける様を。


 それら全てを忘れられる。


 私はひぃちゃんの翼に手を置いて、目を閉じるのだ。


 ――怪我、しないでね


 ――貴方に、幸あらんことを


 メネちゃんの声がする。ヴァン君の声もする。


 私はそれを頭の中で響かせて目を開けた。


「大丈夫です、アミーさん」


「いいの?」


「はい」


 笑って頷いてみせる。


 嫌なことを忘れられれば楽だろう。苦しいことを自分の中から消せば、それは救いかもしれない。


 それでも私は二人の死に際を忘れることが出来ない。私を想ってくれた言葉を忘れることこそ、最大の罪に思えるのだ。


 だから消さない。苦しくても、自分で立ち直ってみせるから。


 アミーさんは私を黙って見下ろし、再び頭を撫でてくれた。優しい温度でいたわるように、穏やかに。


 その優しさに泣きそうになって、私は彼が心配になる。


「アミーさんは、嫌なことなかったですか?」


 私達にシュリーカーさんの居場所を教えてしまって。千里眼なんて使ってしまって。私が呼ばないのに出てきてしまって。


 初めて生贄を捕まえた時を思い出す。


 無知は罪だ。


 そう学んできたのに、結局私はアミーさんを知らないままだ。


 アミーさんは首を傾げると、弾けるような明るさで答えてくれた。


「何も無かったよん!! 僕のことなんて心配しなくてだいじょーぶ!!」


 あぁ――何かあったんだ。


 一瞬出来た間と先程よりも高くなった声のトーン。


 貴方はそうだ。何か隠すと花が咲くように明るくなる。


「ありがとね、氷雨ちゃん」


 アミ―さんは私の目を大きな手で隠す。


 私は一瞬口をつぐみ、口角を上げておいた。


 隠すことを無理にあばきはしない。それは彼を傷つけてしまいそうで恐ろしいから。


 ――勇気がない私は、大切なパートナー達を抱いて零時を待つしか出来なかった。


 それをみんな責めずに優しく笑ってくれるから、私は救われるんだよ。


 私は三人を抱き締めて夜を待ち、時間が来ればお姉さんが背中に回ってくれた。


「ディアス軍、凩氷雨、アルフヘイムへ」


 私は穴に飲まれて異世界へ行く。


 望まぬ生贄集めをして、望む明日を手に入れる為に。


 吐き出された空は今日も青くて目眩を起こしそう。


 輝く世界は御伽噺おとぎばなしの中のようで、緋色の翼が体の落下を止めてくれた。


 下を見る。


 そこには森の一部が炭とかした光景があって、私の呼吸が苦しくなった。


 記憶の中にある人工的美しさを纏ったシュスは無くなってしまった。私の名前を呼んでくれたあの子達はもういない。


 私は目を伏せて芝に足をつき、翠ちゃんと細流さんを見上げるのだ。


「こんばんは、こんにちは、翠ちゃん、細流さん」


「こんばんは、こんにちは、氷雨」


 微笑みながら挨拶をして、それに細流さんは返してくれる。


 翠ちゃんは腕を組みながら黙っており、私は首を傾げてしまった。


 彼女は聡明な瞳を細めて息を吐く。


「……こんばんは、こんにちは、氷雨」


 返事を貰えて私は笑う。そうすれば翠ちゃんは私の左頬をつねり、ため息を吐かれてしまうのだ。


 痛いです翠ちゃん、あいたたた。


「この馬鹿」


「いひゃ、ぁの、すみません……」


 頬を離され、私は痛みと熱を持ったそこに手を添える。


 翠ちゃんは私の頭を叩くように撫でてくれたかと思うと、直ぐに髪を混ぜるような手つきに変えていた。


 ぐちゃぐちゃです。何故会って早々馬鹿扱いなのか。色々やらかしたわけですが、何から謝ったら良いものか。


 きっとタガトフルムでも翠ちゃんは馬鹿と言いたいのを我慢してくれたんだな。髪が絡まるいてててて。


「うぅ、翠ちゃん、昨日はご迷惑をおかけして、」


「それ以上言ったら絶交よ」


 謝る前に言われてしまい、私は急いで口を結ぶ。


 翠ちゃんの目には本気であることを物語る強さがあり、私は苦笑してしまうのだ。


 そしたら今度は両頬を抓られて、あいだだだ。


 翠ちゃんの手を叩いて抗議しそうになり、それを抑えて言葉を探す。彼女の行動の意味を考えながら。


 しかし意味は分からないままで、今の状況では喋れないとも悟ってしまう。


「何してんのさ毒吐きちゃん」


 背後から声がしたと同時に頬から翠ちゃんの手が離される。


 両頬を反射的に挟みながら振り返ると、結目さんが笑っていた。だから私も自然と笑う。


「直ぐに無理するこの子に制裁」


「なんだよそれぇ!」


 翠ちゃんから予想外の解答を頂き、りず君がすかさずツッコミを入れてくれる。


 私は苦笑してしまい、翠ちゃんは目を細めていた。


「笑わないでよ、そんな顔で」


「……そんな顔?」


 とは、どんな顔か。


 首を傾げると、額を弾かれて声が漏れた。


 痺れるそこを摩りつつ、翼をはためかせて地面に降り立った闇雲君を私は見る。彼はフードを被っておらず、黒いキャップ帽だけを被っていた。


 そんな彼の些細な変化は嬉しく思えて、一人勝手に喜ぶのだ。気づかれないように。


 私は口角を上げて、結目さんと闇雲君に挨拶をする。


「こんばんは、こんにちは、結目さん、闇雲君」


「こんばんは、こんにちは、凩ちゃん」


「こんばんは、こんにちは――氷雨さん」


 結目さんが横目に闇雲君を見て、かく言う私は目を瞬かせてしまう。

 

 闇雲君が――名前で呼んでくれたから。


 彼は同化を解いてキャップ帽のつばを下げ、肩に力を入れていた。


「……駄目、ですか」


 その自信がなさそうな聞き方が可愛くて、彼の頭にいるルタさんも何となく不安そうで。


 私は肩をすくめてしまい、顔を上げた闇雲君に笑うのだ。


「いいえ、ありがとうございます――祈君」


 考えて、呼び方を変えてみる。


 そうすれば彼は口を結んで、私の指に人差し指と中指を触れさせてくれるのだ。


 微かに震える祈君の指先はやっぱり不安そうだけれども。彼は一生懸命言葉をくれた。


「ぉ、俺は弱いし、気が利かないし、すぐ頭に血が上る馬鹿だけど……優しくありたいって思うから。な、泣きたかったら泣いていいし、我儘言っていいし、つらかったらつらいって言ってもらっていいし、だから、ぁの……」


 祈君は一杯いっぱいと言った様子で伝えてくれる。唇を震えさせてしまう私に。


 顔を上げた祈君は、私の指を握り締めた。


「一人で、頑張らないでください」


 彼の向こうに私は灰になったシュスを見る。


 灰は風に乗って空へと舞い上がり、元の美しいシュスは無い。


 守る道具をくれた彼も、私を心配してくれた子も、戦士を憎んでいた王様も、もういない。


 私は祈君に焦点を合わせて、彼の人差し指と中指を握り返した。優しく震える彼に大丈夫だと伝えたくて。


「ありがとうございます。祈君は、やっぱりどうして――優しい方だ」


 伝えれば彼は目を丸くして、ルタさんは翼を広げていた。


「……俺が?」


「はい」


「……優しい」


 呟く彼は、まるで信じられないという顔をする。私は貴方を優しいと思うのに。


 スクォンクさん達の為に声を張れる君は。


 悲しむ住人さんの為に怒れる君は。


 シュリーカーさん達の為に悩んでいた君は。


「優しいと、私は思いますよ」


 肩を震わせた祈君は、私から手を離して後ずさってしまう。


 しまった。嫌なことを言ってしまっただろうか。本人がそうとも思っていないことを評価するのは不快にさせてしまうのだろうか。やべぇやらかした。


 祈君は帽子を深く引っ張り固まってしまう。


 何を言おうか。謝るべきか。何に対して謝ったらいいんだ。


 必死に考えていると、結目さんの腕が背後から勢いよく回ってきた。私は若干前のめりになる。


 突然のことに心臓は一気に早鐘を打ち、冷や汗が流れた。


「雛鳥はほっとうこうぜ凩ちゃん」


「……えー……ぁー……」


「何? 何か言いたげだけど」


 結目さんに見落ろされ、私は口をもごつかせる。


 放っておくというのは、またまたどうして気になって……。


 そう思うのに、結目さんと逆側に来た翠ちゃんにまで言われてしまった。


「エゴに同意ね」


「翠ちゃんまで……」


「私は不安定よりも、氷雨が飛べるかどうかが心配よ」


 驚いて翠ちゃんの方を向く。澄んだ茶色の瞳はこちらを見つめて、私の体が傾きそうになった。


 私が飛べるか。飛んでくれるのはいつもひぃちゃんだ。


 そういう問題ではないだろ。


 飛べるのか、あの自由な空を。灰になってしまったシュスを思いながら。


「飛べます」


 答えてくれたのは――ひぃちゃんだ。お姉さんは私の腕の中で、確かに翠ちゃんの言葉を肯定してくれる。


「飛べますよね……氷雨さん」


 お姉さんに見上げられ、私は顔から力を抜く。情けなく笑って頷けば、ひぃちゃんは笑ってくれた。


「飛べなくなったら、僕と祈で運びますよ」


「ルタさん」


 ルタさんが祈君の頭で翼を広げてくれる。祈君も頷いてくれるから、私は笑ってしまった。


 視線は再びシュスに向かう。


 眩しい程に美しい記憶はそのままに。


 進もう、氷雨。


「行こう、か、次の、シュスへ」


 細流さんが穏やかに言ってくれる。翠ちゃんと私は頷いて、結目さんは「チートメモ頂戴」といつも通りの言葉をくれた。


 肩に回った彼の腕は、私の首を一瞬締めて離される。


「凩ちゃん、昨日の二人のフォーン、前に助けたって言ってた子だったんでしょ?」


「……はい、そうです」


 結目さんと空でした会話を思い出す。彼は笑顔で、チグハグで、私を駒のように使うと宣言した。


「忘れちゃいなよ、それがいい。死んだ奴は戻ってこないし、死人に心を割いたって自分が苦しいだけなんだから」


 その言葉は軽くて、重くて、私の体に力が入らなくなる気がする。


 見上げた結目さんは無表情で、目は静かにメモ帳を見下ろしていた。


「そうでなくても凩ちゃんは心配症なんだし。壊れてからじゃ修正出来なくなるよ」


「おい」


 結目さんの声に反応してくれたのは、祈君。


 彼は鋭い眼光で結目さんを見上げて、見上げられる彼は「何?」と笑顔を浮かべた。


「お前には優しさってものがねぇのかよ」


 祈君が言っている。私を心配性だと言う彼に、優しさを問うている。


 少し黙った結目さんはやっぱり笑顔で、どうでも良さそうな声を出すのだ。


「他人に振り回されて焦燥するのが優しさなら、俺はそんなの持っていたくないよ」


「そうじゃねぇだろ。相手を想って、笑顔でいて欲しいと願う心こそ優しさだ」


「その感情で窒息しかけてたのはお前だろ、雛鳥」


 結目さんが祈君の鎖骨の間を指で突く。


「穴だらけの優しさは自己満足だって学べよ」


 祈君が一瞬奥歯を噛む音がする。


 結目さんの言葉はいつも確信をついて、正しくて、それでもそれを飲み込めるほど私達は人間が出来ていない。


 私が口を開く前に、祈君が結目さんの手を払っていた。


 真っ直ぐと、チグハグさんを射抜く瞳を持って。


「学んださ。この世界で嫌ってほど」


 祈君は手を握り締め、ルタさんが微かに目元を和らげる。結目さんは口角を歪に上げていた。


 あぁ――大丈夫だ。


 そう思える目を、声を、祈君はしているのだから。


「だから俺は、その空いた穴を塞げるくらい成長してやるんだ、絶対に」


「勝手な宣誓どうも。何に感化されたか知らないけど、人はそう簡単に変われないよ。お前が傷ついて挫折ざせつして終了だろうね」


「あぁ、いいさ。俺が傷つこうがそれは俺のせいだ。誰のせいにもしない」


「自由にしなよ。俺には関係ないから。アルフヘイムでお前が飛べなくなろうと、どうなろうと」


「そうさせてもらう」


 顔をそむけあった結目さんと祈君。


 その会話は胃が痛くなるものだけど、今までの灼熱しゃくねつ雑言ぞうごんバトルとは違う、完全な意見のぶつかり合いだった。


 祈君は息をついて私を見る。


 ハベトロットさん達の懇願を無視して、シュリーカーさん達を捕まえることが出来なかった私達。


 けれどもそれは、シュリーカーさん達は悪ではないと判断しただけのこと。


 私は微笑み、翠ちゃんを抱いて、ひぃちゃんが翼を広げてくれた。


 ――いってらっしゃい


 そんな声が聞こえた気がして、それでも振り向いた場所にあるのは、燃え崩れたシュスだけだ。


 ――いってきます


 そう内心で伝え、フォーンの森から飛び去って行く。


 次のシュスを目指して。


 祈君は細流さんを連れて、その横顔はしっかりと前を向いていた。

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