モーラ・シュス・ドライ編

第27話 面倒


 最初の生贄を捕まえてから早数日。私達は幾つかのシュスを訪れたが、望むような悪人はいなかった。


 踊りだしたら止まらないヘンキーさん達にダンスに誘われたり、角が回転する牛のような方々、エアレーさん達に追われたり。物凄い悲鳴を上げ回るロバのようなショックさん達に襲われかけたりと騒がしい毎日ではあったが、やはり考えられる悪はそこにはなかった。


 その土地にある習慣にのっとって生活する彼らは、彼ららしくそこにいた。


 集団の中で浮いている人――踊らないヘンキーさんや、眠りっぱなしのエアレーさんなど――はいたけれど、それが悪いことかと言われれば「それは違う」で満場一致だった。


 違うことは悪ではなく、それは個性だという判断だ。


 だから私は穏やかにその光景を見ていたし、楠さんも「平和だこと」と呟いていた。細流さんは頷いて、ダンスをしたり追いかけっこをしたり、どことなく楽しそうな雰囲気だった。


 機嫌が悪かったのが結目さんだ。


 常に笑顔ではあったけれど「あーマジで」と髪を掻き毟ったり、細流さんや私を風で空から落っことしたりと、散々だった。


 私達が落ちれば抱いている楠さんも一緒に落ちて、彼女とりず君の機嫌がすこぶる悪くなってしまう。


 そのまま楠さんと結目さんの極寒ごっかん罵倒ばとうバトルが開催されて、結目さんの機嫌は更に悪くなる。


 悪循環でしかない。繰り返すようだが散々だ。笑顔も引きつるわい。


「どれだけお子様なのエゴイスト」


「馬鹿みたいにつまんなくて頭きてんだよ毒吐きちゃん」


「ぁの、結目さん、楠さん、クールダウン、大事だと思うんです……すみません……」


「まぁ、まぁ」


 二人の言い合いを戦々恐々としながら止めさせていただき、最終的に私は結目さんに髪の毛を思い切り引かれるわけですよ。


 痛い禿げる。


 細流さんは楠さんに肩を殴られていたがどこ吹く風だ。強いなぁ。


 私は楠さんを止めて、細流さんは結目さんを止めていた筈なのに。何故いつも逆になってしまうんだろう。


「あーもー、オリアスの駄目シュス情報当てにならないんだけど。どういうことだよ凩ちゃん」


「えぇ……そんな……あの、ウトゥック・シュス・ノインはそれこそ特殊だったのでは……」


「こうなったら凩ちゃんのチートメモ参照しかないじゃん」


「あれはただのメモ帳でございます……」


「はい見せてー」


 聞いてねぇしマジかよ。


 髪の一部を風に引かれながらも、メモが入っているズボンのポケットを押さえて抵抗を見せる。


 それでも結目さんは満面の笑みで私のメモを狙っていた。


 後ろに下がるのに髪が引かれて逃げきれない。最悪。


 ひぃちゃんのうなり声とりず君の「こっち来んな!!」が聞こえたが、結目さんはどこ吹く風だ。


「私に分かる文字でしか書いてないんです、重要情報もございません、ご勘弁をッ」


「前俺も読めたから大丈夫でーす」


 反抗しても、結目さんの風には敵わないわけだ。


 手首を捕まれ、残念なことにポケットから風にメモが引き抜かれる。


 この人に遠慮というものはないのか。ないんだな。学習しねぇな私も。髪が痛い。いや痛いのは頭皮か。どっちでもいいわ。


 結目さんは私の手を離したらメモを開き、輝く瞳でページをめくり始めた。


 私は風がやんだことに安堵して髪を手ぐしで直し「結目さん……」と苦笑する。


 無視されたけれども。それ私のですからね。


 ため息を飲み込んで、楠さん達の方へ静かに移動する。楠さんは無表情に細流さんを見上げていて、見上げられている彼は楠さんの頭を撫でていた。


 兄と妹。いや黙ります。


「あぁ、氷雨」


 細流さんが気づいてくれて、楠さんの目も私に向く。私は微笑みながら二人に近づいた。


「細流さん、楠さん」


「……落ち着いてはいるわよ」


 楠さんは質問の前に答えてくれた。


 顔に出ていたでしょうか。ごめんなさい。


 私は笑い続けて、りず君が代わりに聞いてくれた。


「氷雨の顔に出てたか?」


「察する力はあるつもりよ。あのエゴとは違って」


 忌々いまいましそうな色が楠さんの目に浮かんでくる。


 あぁ、彼女を誘ってしまったことは間違いだったのだろうか。迷惑だっただろうか。困らせてしまっているだろうか。


 そうだな、そうだよな、人には相性というものがあるんだもの。楠さんには楠さんの肌に合う空気というものがある。


 それでも私は何も言葉を選べなくて、笑ったまま口をもごつかせてしまう。


 やっぱりチームを止めますか。それは私は寂しいのですが。それでも無理強いは出来ないのです。


 不安と心配で胃が痛い。


 楠さんは私を見つめて、目を伏せていた。


「嫌か? このチーム」


 りず君が聞いてくれる。気兼ねないように、柔らかく。


 楠さんはりず君を見ると、目を細めて腕を組んでいた。


「別に、好き嫌いで組んでないわ」


 そう答えた楠さんは目を伏せて、ため息をついていた。


 私は肩のりず君を撫でながら苦笑を続けてしまう。楠さんは強いと実感しながら。


 その時、私の肩に腕が回って「次の場所決めたー!」と言う声が耳元で響いた。


 私の口からは驚きによる変な声が漏れ、ひぃちゃんが頭の上に移動していた。


 揺れで肩から落ちたりず君とらず君をキャッチした私の反射神経褒めて。


「結目さん、ぁの、」


「次は、モーラ・シュス・ドライに行こう!!」


 喉が鳴る。冷や汗が頬を伝って、私の頬は引き攣った。


 細流さんが首を傾げて、つたなく復唱する。


「もーら……しゅす、どらい」


「そ! モーラがいるのはモーラの孤島、別名「宵闇よいやみの島」どう?」


「そのモーラが何か説明しなさい」


「命令すんなよ。はい、凩ちゃんパス」


「ぅえ」


 肩を組まれたまま返されたメモ。私の喉は渇いており、視線は地面に向いた。髪を風に引かれたから説明するしかないのだけれども。


 ――モーラ・シュス・ドライ


 そこは昼にならないシュスだ。


 私はメモを開いて、努めて笑顔を張りつけた。


「モーラ・シュス・ドライ。モーラと呼ばれる、人の少女のような姿をした方々が住まわれる、孤島のシュスです。彼女達はいつも数センチだけ浮遊していて、島を訪れた人が眠った時に、心臓から血を吸い取ってしまう方だそうです。眠ったら二度と目覚めないことと、常に暗雲立ち込める日が当たらない島であることから、別名が宵闇の島になったのだとか……。宗派はディアス派。戦士の血は絶品だと有名で、私達のことを大歓迎してくださるそうです……はい」


 聞いた時、絶対行きたくないって思ったんだよ、モーラの孤島。


 そんな気持ちが結目さんに伝わる筈ないもんな。いや字面見て駄目だと思ってくれよ。無理か。私が無理だと思っただけだもんな。そうだな、すみません。


 若干現実逃避したくなりながらメモを読み終わると、楠さんがお礼を言ってくれた。


「そう、ありがとう。で、なんでエゴはそこに決めたのかしら?」


 あぁ、こんな喋りでお礼を言ってくださるなんて感激です。結目さんは楠さんの中で「エゴ」呼びに決定したのですね。先行きが不安だ。


 結目さんは「だってさ」と始終笑顔で喋っていた。


「戦士の血を飲む奴らじゃん。これは俺達から見たら危害を及ぼす悪でいいと思うわけよ。あとは視察に行って状況把握。そこでシュスの中の誰もが悪だと思う奴がいれば万々歳。違う?」


 結目さんは笑い「違うと思う奴挙手〜」と指示をした。楠さんも細流さんも、私も手は挙げない。


 彼の提案はいつも正論だから。反論する理由がない。


 ――モーラの孤島……そう、モーラの孤島はねぇ、牢獄だよ、色んな意味で


 アミーさんの言葉が耳の奥で反響する。「出来れば行かないでね」と言う静かな声も。


 あぁ、だがその理由を、彼は教えてくれなかったんだよな。


 結目さんが八重歯を見せて笑う。楽しそうに指を鳴らして。


「じゃ、決定ね」


 ――……と、言われたのが数時間前。


 あれから空を飛んだが、海の上にあるモーラの孤島に行くのは明日へ引き伸ばしとなった。


 時間的に強制送還されるのが海上であり、そうなると明日の呼び出し場所が危ない。主に楠さんと細流さんが。


 私の体もあれ以上飛んだら流石に軋む。


 私の両手と細流さんの片手を繋ぎ、細流さんが楠さんを抱くと言うスタイルで最近飛んでいるが、補助と強化され続ける私の疲労が酷い。


 三人抱えて飛ぶひぃちゃんも、お姉さんと私を補助するらず君も流石にしんどそうだ。


 私達は口には出していないけれど、細流さんと楠さんに「休め」と言われる始末だし。面目ない。ひぃちゃん、らず君、ありがとう。


 全く潮の香りがしなかったアルフヘイムの海を思い出す。


 青いというか、澄んでいたというか、綺麗だったな、本当に。


 何処までも続く水面は輝いて、踏んだ砂浜からは光る粉が舞い上がり、とても幻想的だった。


 そんな記憶の映像を一瞬だけ見てから、私は自分に向かってきたバレーボールを打ち上げた。


「氷雨ちゃんグッジョブ!!」


「オーライオーライ!」


 体育館の中に響く歓声や呼び声。ボールを弾く音に、床が鳴る音。


 私が上げたボールを蔦岡君がオーバーハンドパスで楠さんに上げている。チームメイトの湯水さん、小野宮さん、舟見ふなみ君の位置を見るに、楠さんに上げるのが最善だ。


 楠さんはボールの軌道を見て助走をし、膝を曲げ、勢いよく跳躍した。


 バレーボールを的確に叩いた楠さんのスパイクは相手コートの床に炸裂し、ホイッスルが鳴る。


「ぃやったぁぁぁ勝った!!」


「ナァーイス!!」


 私の肩が勢いよく湯水さんに抱かれて、視界が揺れる。


 頭が寝不足で痛んだけれど、私はそれを笑い飛ばした。


 小野宮さんは両腕を突き上げてから楠さんに近づいたけれど、楠さんは颯爽とコートから出ていってしまった。


 私達もコートにお辞儀して、相手チームと握手して終了する。


 本日晴天。


 絶賛、球技大会中です。


 男女関係なくチームが各クラス自由に組まれ、体育館に小規模バレーコートを立て、トーナメントをしている今現在。三年生はクラスごとに一日研修に出ていて、一年生はハイキング。


 唯一学校に残った私達二年生は体育館をフルに使っての球技大会。


 本来は楽しむべき行事であるが、残念ながら寝不足による偏頭痛に襲われる私は、体育館中に響き渡る歓声が鬱陶しくて仕方が無かった。


 寝るべき時間に髪をよく引かれていたせいか頭皮も痛い気がしてきた。鏡で見た時、特に禿げてはなかったんだけどなぁ。


「いやー勝った勝った!! 氷雨ちゃんと楠さんのファインプレー続出だったね!!」


「いやマジそれなー!!」


 ハイタッチしている小野宮さんと蔦岡君を見つつ、楠さんと私は水筒とタオルを掴んで二階の観覧スペースに歩いていく。


 チームは、小野宮さん、湯水さん、蔦岡君、舟見君、野咲のざき君、楠さん、私の七人で、小野宮さんが引っ張って集めてくれたのだ。


 運動神経抜群の小野宮さんと湯水さんに、背の高い蔦岡君。蔦岡君と同じ軽音部の舟見君と、その周辺と仲がいいサッカー部の野咲君。小野宮さんに誘っていただけた私。楠さんを誘ったのは私だ。


 残念ながら本日サッカー部は試合があるらしく、野咲君は公欠である。「野咲の分までやったるわー!」という蔦岡君の声が私の耳の奥で反響した。


「凩さんおつかれー」


「ぁ、お疲れ様です、舟見君」


 黒髪をツーブロックにカットしている舟見君。彼は先生によく身嗜みだしなみを注意されているが、笑いながら流してしまう感じの人という印象だ。


 舟見君はひょろりと背が高いので結構見上げてしまうんです。


 彼は笑って片手を上げてくれたので、私も片手を上げて軽く合わせておいた。


 笑ってしまう。ハイタッチですね。


「ナイスレシーブ連発だったな!」


「ありがとうございます、その、舟見君もスパイク、素敵でした」


 笑いながら伝えておく。


 長い手を振り下ろして打たれるスパイクは格好良かったです。良いですね、背が高いのって。


 舟見君は目を瞬かせると、顔いっぱいに笑ってくれた。


「やっべー褒められちゃった! あ、かなめ! 俺凩さんに褒められた〜!」


 舟見君が私の後ろを見て誰かを呼ぶ。


 かなめ、という名字ないし名前の方は私達のクラスにはいなかった筈だ。


 違うクラスだろうと思いながら振り向くと、何処かで見た顔の男の子がいた。


 黒い短髪。あれ、何処で見たんだっけ。


 彼は目を細めて、舟見君を見ていた。


「あっそ」


「羨ましがれよ〜」


「うるせぇよ」


 あ、駄目だこれは逃げたい気分。


 要君の名字は体操服の刺繍から雲居くもいだと分かり、私は会釈だけしておいた。


 雲居君と目が合う。彼は私を見下ろして、反射的に微笑んでしまった。


「お、なんだなんだー、氷雨ちゃんを困らせてるのかな?」


「大丈夫?」


「ぇ、ぁ、はい、全然、大丈夫です」


 どうしたものかと思っていれば、ちょうど小野宮さんと湯水さんが背中を押してくれた。お陰で私は、舟見君と雲居君から離れることが出来る。


 それに少し安心し、蔦岡君が舟見君と雲居君に話しかける声を遠くに聞いていた。


 階段を上って二階席へ行く間、小野宮さんが先程の試合の凄いところを止まることなく挙げてくれて、笑ってしまう。


 本当に発見が上手というか、明るいというか、素敵な人だ。


 湯水さんは逆に反省点を的確に上げてくれて、小野宮さんといいバランスがとれていた。


 私は聞くだけで、何も役に立たないな。どこが良くて悪かったかなんて、見つけられていない。駄目だなぁ。


 微笑んでいると、二階からフロアへ向かっていた穂崎さん達と目が合った。


 笑って会釈すると笑い返してくれて、詰め寄られる。


 何故。


 反射的に胸の前で抱えたタオル。その抱える腕に、小銭の感触が押し付けられた。


「凩さん! 私達次試合なんだ! それでね、時間があったら飲み物買ってきて欲しいんだけど……」


 言われる。


 私は首を傾げてしまい「はぁ……」と呟いた。


 穂崎さん以外の子達からも手を合わせられ、笑ってしまうではないか。


 既に小銭は渡されようとしているし、私が後は手を開けばいい。ここは階段だからいつまでも止まってはいられない。私の次の試合はまだ先だ。時間はある。何より断るのは、申し訳ない。


「飲み物ですね。スポーツドリンクとかで、いいんでしょうか?」


「ありがとう!! 勿論スポドリでオッケーだよ!!」


 返事を貰って、階段を駆け下りていく穂崎さん達を見送っておく。彼女達がハイタッチしあう姿が見えた。


 両手に乗せられた小銭に視線を落とすと、湯水さんと小野宮さんに肩を柔く叩かれた。


「氷雨ちゃん、断ってもいいんだよ、あぁ言うの」


 湯水さんに言われて、視線を明後日の方へ向ける。顔は半笑いで、私は湯水さんを抜かして二階へと到着した。


 少し遠かった騒がしさが戻ってくる。私の視線は楠さんを人混みの中で見つけ、一人で窓際に座る彼女に目を細めた。


「こら〜氷雨ちゃん!」


「ぅぇあ」


 後ろから小野宮さんに抱きつかれて変な声を上げてしまう。私は小銭を落とさないように気をつけて笑っていた。


「もー、すぐ笑っちゃうんだから」


「ぁー、すみません……」


「買いに行くの、手伝うよ」


 小野宮さんは私から離れて、真っ直ぐそう言ってくれる。私は水筒を壁際に置いて、「大丈夫です」と答えていた。


 そうしたら小野宮さんは頬を膨らませてしまうから、私はポケットに小銭を突っ込んで彼女の背中を押したのだ。


「応援しなきゃですよ。同じバド部の方」


「もー氷雨ちゃーん!」


「いってきます」


 上ってきた階段を直ぐに下りる。


 既に試合は始まっていて、目の前を時折通っていくバレーボールに当たらないように必死だぜ。


 目の前で弾んだボールをコートで手を振った人に渡す。


 あ、雲居君だった。


 彼は私だと分かると、微かに笑ってくれたようだった。


「ありがとう!」


 少し大きめの声でお礼を言われ、会釈しておく。


 思い出した。楠さんを初めて体育館裏で見た日の彼だ。体育館の中から私にバスケットボールを取るように声をかけた男の子。


 そうだそうだ、スッキリした。


 少し気になっていたことが解決して小走りに体育館を出ると、心地よい温かさに肩の力が抜けた。


 自販機に早く行こう。


 タオルを畳みながら歩いて、自販機に小銭を入れる。七人分のスポーツドリンクは思ったより量があったと言うのが感想だ。


 落とさないように気をつけよう。集中。


 手元に気をつけながら、ドリンクが温まらないようにタオルで包んで抱える。そしたら横から手が出てきて、ドリンクを四本取っていってしまった。


 驚いて見ると、そこには楠さんがいた。


「……楠さん」


 呟いてしまう。彼女はスポーツドリンクをタオルで包んで片手で抱え、もう一方の手にはお茶のペットボトルが握られていた。


 気づかなかった。集中しすぎたつもりはなかったのだけれども。


 私は笑って、肩を竦めてしまった。


「ありがとうございます」


 楠さんに見られる。彼女は黙って私を見つめると思いきや、静かに聞いてくれた。


「どうして断らないの」


 責めるでもなく、とがめるでもなく。楠さんは問うてくる。


 私は笑顔を固めて、視線を彼女から逸らしてしまいそうになった。


 私が口を開く前に楠さんは言葉を重ねていく。


「貴方は使われるような子だとは思わないのだけど。本来は、強く決断力がある筈よ。アルフヘイムにいる貴方は、エゴに何を言われようとも全てを肯定はしないもの。けれどタガトフルムに戻った貴方は笑うばかりで拒絶しない。それは何故なのか、私には理解出来ないわ」


 連なった私に対する言葉に、目が丸くなる。


 楠さんは以前私を決められる子だと評価してくれて、それが今も変わっていないことに体が微かに震えた。


 それと同時に、こちらで笑うばかりの私を否定しようとしていることに微かな痛みを覚える。


 私は目を細めて、笑っていた。


 言っても大丈夫かな。言っても許されるかな。貴方なら許してくれると、思いたいのだけれども。


 抱えて抱えて、抱えきれなくて、廊下にばらまいたプリントを思い出す。息の出来ない苦しさと、笑い声が耳についた。


 あぁ、嫌だ、消えろよ。


「ここで、命をかける必要は無いので」


 そう言えば、楠さんの目が丸くなる。


 私は肩を竦めて、笑っていた。


「アルフヘイムでは、命がかかっています。私だけではなく、私以外の誰かの命も。だから自分の意見を言えるんです。けど、タガトフルムでその必要があるのかどうか、私には分からない。本当に穂崎さん達は困っていたのかもしれないし、何より断ったら、後味が悪いじゃないですか」


 タガトフルムで断って、意見して、その結果が言いしれないほど気持ちの悪いものならば、私は笑って頷くさ。


「嫌ですとか、無理ですとか、それを言うより、黙って一人で行動した方が……結局は、楽なんですよね」


 笑顔で、努めて明るい声で答えてみる。


 楠さんはどんな反応をするだろう。まだとても親しいという訳では無い。と言うより、とても親しいの判定基準はどこなのか。疑問だな。


 彼女は私を見つめて、穴が空くのではないかと言うほど見つめて、目を伏せていた。


「そう」


「……はい」


 髪を引きながら視線を伏せる。それと同時に足音がして、それが遠ざかっていくから。


 視線を上げると、楠さんが体育館へ戻っていく背中が見えた。


 彼女の茶色い瞳が微かに振り向いて私を捉える。私の足は自然と動き、楠さんの背中を追った。


 声が届く距離まで近づいて、バレーボールの音がうるさい体育館に戻っていく。


「"いつも笑顔の凩さん"」


 その呼び方に心臓が跳ねる。


 視線を少し上げて楠さんのうなじを見るけれど、彼女の表情は微塵も伺えなかった。


「貴方が一番、貴方に優しくないのね」


 言われた瞬間、バレーボールが跳んでくる音がした。


 私は片手で反射的にボールを弾き、片腕からペットボトルが一本落ちてしまった。


「……ぁ、やっべ」


 そう呟いた声が、楠さんに聞こえていないことを祈っておこう。

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