ヴァルカン1960。または爆撃機は機械人形を愛するかどうかの短い考察。

@socialunit13

第1話 問題

 「知ってるか?」

  「ん」

  ヴィクターが話を始めた。

  「最近のルフトヴァッフェの爆撃機ってあれがないんだぜ」

  「あれとは?」

  「尾翼にいつもついてるだろ。いつも宣伝ご苦労様、ヒンズーだかブッディズムからコピった例のマークだよ。ないんだぜ」

  先週からロンドン戦域に出現するようになったあれだろう。

  「見たのか」

  早速、撃墜されたのだろうか。ドイツ空軍はある程度を作りためてからまとめて実戦投入する傾向があるので、出撃機数が多ければ、友軍が撃ち落とす確率も基本的に上がる。 


  「実はただの噂なんだけど」

  「全翼機だからだろ」

  敵の最新鋭重爆撃機ホルテンHo500は全身がこれ巨大な1枚の主翼なので、垂直尾翼というものがない。それであのいつものシンボルマークも描かれてないらしい。

  もちろんロンドンへ空襲に来る機体は他にもあるので、その中では全翼機などは少数派だ。

  しかし空軍のパイロットはあのマークの付いた尾翼をトロフィーカップとしてあちらこちらに飾る傾向があるから、それはそれで問題なのかも知れない。

  「…………」

  そこまで言いあったところでヴァルカンに声を掛けられた。彼女はいつも感情を少なめに最低限の単語で話そうとする。シンプルだ。

  任務だ。

  1960年。

  第2次大戦はまだ続いている。 


  ドイツとアメリカ両国は原爆開発に失敗した。それが物理学の理論が間違っていたのか、それとも単純に技術的な問題なのかどうかは分からない。ただいつ果てることもない戦いが継続することをそれは意味する。

  ヒトラーがパーキンソン病で死に、SSの半分ほどが粛清され、ゲーリングが意外な抜け目なさを発揮して、首尾よく第2代総統の地位に上ることができたが、最高権力の座につくことによってストレスと食欲が見事に連関している新総統の抑制装置は吹っ飛んでしまい、最近は巨体になりすぎて早くも病臥の淵にあるそうだがもちろん詳しくは分からない。

  ドイツ軍は中東を占領し戦争資源は充分すぎるほど手に入れた。

  スターリンの死後に作られた、民主ロシアはこれまた民主的でもなんでもない政権なのだが、クラスノヤルスクまで撤退した。

  アメリカ、イギリスを中心とする連合国軍はまだ英仏海峡のこちら側にとどまったままである。20年間、あの海の向こうに戻ることは出来てない。 


  お互いの空軍だけは今でも激しい鍔迫り合いを繰り返している。偉大なるレシプロ戦闘機はジェット戦闘機に取って代わられた。それでもバトル・オブ・ブリテンのころに比べれば、抑制的になった方だが、小競り合いと呼ぶには大規模に過ぎる。

  ドイツの都市は一時はひどいことになっていたようだが、爆撃機隊の損害が多くなりすぎたので控えられるようになった。

  日本帝国はアメリカ空軍によって本土を灰にされたが、結局は講和して生き残っている。連合国に2正面作戦を戦う余裕はなくなったからだ。ただ戦争の原因になった中国大陸の新領土は、反乱と内戦のカスケード化により日本側も維持できる見込みがない。カンチュウの戦いで孤立した場所に空挺部隊の大軍を送り込んだ挙句に全滅してしまう失態を演じ、それが政治問題化してどうしようもなくなっている。日本の中国支配は短期間に終わることになりそうだ。それが6年前のことだ。 


  さて、空軍パイロットや外交官の戦いは彼ら自身に任せ、我々は我々の任務を遂行する。 


  ロクスベリー卿が軍事機密漏洩の罪を犯していること、つまり敵側のスパイだと判明したのは3時間前だ。

  軍警察と情報部は見事に逮捕に失敗して、その場で彼に逃げられてしまった。ロクスベリー卿は汚染地帯に逃げ込んだ。人間は追跡するのがためらわれるエリアだ。もちろんロクスベリー卿も命はないであろうが、捕まるよりは、というやつだ。

  そこで我々、チューリングマシンの出番だった。

  チューリングマシンは毒ガスに強い。汚染地帯に強い。死体からもデータ回収がある程度可能。

  チューリングマシンは酸素呼吸しない。いや厳密に言うと肉体をクローズドエアサイクルに安易に切り替えられる。内部機能としてそういうメカニズムが組み込まれているがゆえに、行動力も低下しない。

  ロンドン南西部フラム地区は1955年の爆撃以来、閉鎖されており、汚染も残っている。

  我々は閉鎖地区に突入した。 


  私たちは3人だった。

  直情的なヴィクターと、対照的に慎重な(臆病な)ヴァリアント、つまり私のことだが。

  そしてヴァルカン。

  ヴァルカンが女性のチューリングマシンで、ヴィクターと私は男性のチューリングマシンだ。

  この3人がチームを組まされたのは適性など習得技術の内容による。お互いの好意とかは無論のこと関係なかった。

  始まりにおいては。

  現時点においては、私とヴィクターは彼女に明らかに好意を抱くようになっており、もちろんそれを積極的に表明するのはいつもヴィクターで、私はそれを慎重に観察する側だ。

  私は常日頃から自分の気持ちを表面に出さないように留意してきた。

  何で自分の気持ちを押しつぶしてきたかというと。

  それはもちろんヴィクターのためだ。

  ヴィクターの無垢な勇気は好ましいことに見えた。それを汚したくない。というのがひとつの理由。

  もうひとつはヴァルカンの気持ちだ。私と同様、彼女の視線も明らかにヴィクターの方を向いていた。ヴィクターは我々の星だった。それが2つ目。

  それに私は人を愛するにはちょっと厳しい性格だ。私は疑問を抱いていた。深い疑問を。それは平常の幸せを追及するには妨げとなるようなものだ。だから自分1人なら問題ない。だが誰かの人生を巻き込むのならそれは、相手に対する無責任だ。3つ目。 


  目の前に何の変哲もないゴーストタウンの住宅地がある。

  横紋発電筋で電磁波を発生させ、反射波を骨格神経受信機構でキャッチ。

  空軍の大出力レーダーに比べれば比較にならないほどささやかだが、その街角の向こう側を覗き込まずに見る、といった視覚の延長は非常に役に立つ。こういう市街戦の状況下にうってつけだ。

  延長知覚の装備は人間に比べると圧倒的に恵まれている。

  ヴィクターは角の向こう側を見たのだろう。

  「俺が行く」

  そういって突っ込んでいった。バカな。見えないから突撃して良いという道理はない。見えるのは角の向こう側だけだ。狙撃でもされたらどうする、とは思うが何事もなく事態は進む。ロクスベリーには武器の類を用意してる暇などあるまい。あっても拳銃くらいだろう。

  それでも致命傷になりうるのだが。

  ヴィクターの無謀行為には舌打ちするが、それはそれとして後に続く。

  我々にはロクスベリーが潜伏してる場所に見当があった。

  ここには死亡したロクスベリーの愛人の家があった。

  そう、5年前の話だ。

  ここにセーフハウスを作ってるとは常識的に考えられない。立ち入り禁止なのだ。 しかしここに来るとすれば、そこ以外は考えられなかった。

  ショートカットでヴィクターが路地に入る。これでそのアパートの中庭側に出るはずだ。

  私も後に続いた。

  ヴァルカンが後に続くのが見える。 

  何かが起こった。

  左側の壁が吹き飛んで。

  誰かの悲鳴が聞こえた。 


≪回復終了まであと 00:00:03:26≫

  私は。

  思い出した。

  どこかの博物館の付属レストランで食事をとっていたんだ。

  戦時中なので大した展示も残ってないのだが。

  重要な美術品はシェルターに退避させてある。わずかでも展示してあるのは美術品コレクターとして高名な新総統がここを爆撃しないと期待されてるからだ。そんな期待はどうかとも思うが、ともかく入場料無料の美術館なので、最悪は建物だけでも見にくるという言い訳もできなくはない。

  3人で。

  ヴァルカンと私とヴィクターで。

  ヴァルカンとヴィクターはバビロニアだかアッシリアだかの見てきたばかりの展示の話をする。相当な知識があるらしく僕についていけない話をしている。とある古代文字について2人は私の関心を引こうとするが、もちろん失敗する。

  展示物がまったく残ってないのに、こういう会話ができる時点で、私には2人とも火星人に見える。

  ヴィクターがヴァルカンに好意を持っていることを傍目にも理解できる。

  ヴァルカンもそれを拒絶している、という訳でもないようだった。

  つまり僕は失恋したわけだが。

  悲しいとか悔しいとか、そういう否定的な感情はなかった。いや、まったくなかったという程でもないけれど。白状しよう。

  でもそれより強い感情が主としてあったのであり、それは微笑ましさだった。

  子供の頃の記憶を持たない僕らにとって、それは約束された安息の象徴。

  存在しないはずの希望。

  「……………!」

  彼女が私に声をかけ、私にしか分からない微小変化の笑顔を向けた。シンプルだ。

≪回復≫ 


  目を覚ました。

  周囲にはうすぼんやりしたガラスのマスクと、最近になって反応性の低い新型の結晶繊維に変わりつつある輸注管があちらこちらから。その先に瓶やビニールパックがぶら下がっている。

  白い壁とシャットアウトされた光だけを取り込む偏光カーテン。

  病院か。

  最初は気づかなかった。動かせる方の手を動かす。手がやけに細いな。相当長い期間、病院にいたのだろうか。まさか何年も気を失っていた、とかはないだろうな。

  スタッフ呼び出し用ボタンが目に入った。

  スタッフが来るまでの間、私はぼんやりと考え事をしていた。 


  「ドクター・オールバンズだ。はじめまして」

  深いしわが刻まれた老人のドクターだ。

  大丈夫なのかとも思ったが、肉体の動きの方はよどみなくスムーズだ。

  「皮層の老化が急激に進行してね。見た目ほど中身は年寄りでないので安心してくれたまえ」

  看護師(この時代はまだ看護婦と呼んでいた時代だが)が脚立のついた姿見の鏡を持ってきた。その鏡を私に向けようとしているようだ。

  「まず、もっとも重要な点について説明しなければならない。ミスター・ヴァリアント。君の肉体は救命不能だった」

  ドクター・オールバンズはなるだけ厳粛な表情を維持しようとしているな。

  「ある人物の好意により、君は脳脊髄神経系を他人の体に移植した。もちろん人間とは違うチューリングマシンの肉体は、あらかじめこのような事態を想定して設計してあるのだよ。だから可能だった」

  看護師が鏡を私に向けた。

  鏡の姿に映った私は、ヴァルカンだった。

  「ミス・ヴァルカンが自分を犠牲にして君を助けてくれたんだ。自分の体を、君の脳脊髄神経系に提供することで」 


  ちょっと待ってくれ。

  鏡の中に映ったヴァルカンはひどく混乱しているようだ。シンプルじゃない。

  その表情は複雑だ。

  なぜ複雑なのかは考えたくなかった。

  なるほど、今の私はヴァルカンの体内にいるという訳だな。よし。それならばヴァルカンはどこへ行ったんだ。

  ヴァルカンの脳脊髄神経系は?

  「それで、ヴァルカンはどこにいるんですか?」

  ドクター・オールバンズはすぐには言わず、一呼吸分を置いた。

  「冷静に聴いてほしい。彼女はもう、いないのだ」 


  私はまだふらつく足で病院内を歩いた。もちろんそんなことをして、どうとなるものでもない。ひどい頭痛と背中の痛みに襲われた。いくらスペック通りの処置とは言ってもそう簡単に治りはしない。

  病院にいる患者とスタッフは私のことを女性だと認識しているのだろう。

  チューリングマシンには明示的な性欲はインプットされてないので、シャワールームで彼女の裸を見たとしても、医学の知識が思い起こされるだけだろう。

  ヴィクターも行方不明だった。

  あの場所で死体はまだ見つかっていない。

  生きているかどうかも分からないが、死んでいることも確認されてない。

  最悪の場合、裏切り行為をしているという可能性も考えられた。

  ひととおり歩き回ってきて病院の構造を覚えたあと、私は病室に戻り、ドクター・オールバンズが戻ってくるのを待った。午後遅く彼はやってきて、追加の説明をした。

  「ミス・ヴァルカンは言ってみれば志願をしたんだ。どうしても君を助けたい、と言うことだったんだろう。そしてそれが許可された。君の方がより重要であるという、価値判断がされたんだ。そうそう、言づてというべきか、メモを預かっているんだ」

  封筒に入ったそれには、ただこう書かれていた。 


  私は、世界の底、にいるから。 


  1週間後、私は退院した。

  モーリスミニが私にすぐ追いすがってきてドアを開けた。

  「乗りたまえ」

  情報部が使うには安い車の方がいい。安っぽいプロパガンダ映画みたくこのような場合にロールスなどありえない。

  私は彼の話を聞くことにした。私は周りを見ないようにその車に乗り込む。

  「私の名はショーン・スムート。分析の仕事をさせてもらってる。ヴァリアント34だね」

  私はうなづいた。 


  退院した後、私は部に戻り、本来の命令を受領する。

  ロクスベリーはまだ捕まっていない。

  ロクスベリー捜索任務に私は復帰した。

  私費で新たにスイス製テッシナ35を持っていく。小型カメラだ。最近の敵はみんなこんなのを使っているんだろうか、という気持ちにはなる。ドイツ軍の方が数多く手に入れているだろう。当然ながら。

  ところでこれは使い方にコツがある。少し練習しなくてはならない。

  テッシナを持って街に出た。ディテクティブのリボルバーを持っていく。これはヴァルカンの物だったやつだ。

  この辺りは廃墟が多い。天井が抜けて建物、というより何かの前衛芸術になってしまったかのようだ。一時期よりは格段に少なくなったとはいえ、爆撃はまだある。新しく建て直された建物は最初から地下にウェイトが置かれている建物が多い。私の目の前には窓がないコンクリートのオベリスクみたいな建物が新築されていた。子供の人形遊びのように丸見えの居間に人がいる。危険な建物から人々がきちんと排除されてない。戻ってきているのだ。昔の建築物は正直いって残ってないといったほうが良かった。

  逆光を写さないよう、立ち位置を意識してカメラを構える。

  折りたたまれた2枚の窓が本体に上に飛び出す。ファインダーだ。戦闘機の照準装置に見える。

  私には深い感情の折り目というものがない。

  なぜならチューリングマシン、人造人間だからだ。

  マシンではない人間は、こんなとき、もっと複雑な感情を宿すのだろうか?

  街角を歩いている人たちは何となく、暗い翳をまとっていた。

  1人だけ場違いな明るい赤のコートを着た10歳くらいの女の子がいた。彼女が手を振ってきたので、悪びれずに1枚撮らせてもらった。 


  病院に行った時もその子を見かけたような気がする。

  写真を試し撮りした前日、もういちど病院へ行き、非常時用の薬を処方してもらった。

  「ないとは思うが突発的な拒絶反応が出たら、それで時間稼ぎすることができる」との説明だった。

  その時は別の病棟まで、何の気もなく足を延ばした。そこで彼女を見かけたと思う。母親らしき女性と一緒だった。 


  そのときの子だ。 


  フィルムの現像を依頼して数日。

  仕上がった写真を確かめて、使い方に特に違和感が無ければ、そのまま任務に赴くつもりだ。私はテッシナを腕時計風に腕に巻きとめた。

  フィルムは途中からが私が試し撮りした奴で、最初の2枚がヴァルカンがとったものなのだが。 


  私が爆死したとされる場所は、フラム地区の45クレセントパスだ。そこに行く。

  瓦礫はすでに撤去されている。私が倒れていた辺りを記憶で思い出すが、痕跡やよすがは何も残ってなかった。

  捜査員は既に投入されてる。ここで出来ることはない。 


  私はロクスベリーの愛人宅に行ってみる。テープをくぐって、中に入る。ここに潜伏していたかどうかは分からない。が、もちろん今はいないことは明らかだった。

  収穫なし。

  当然であろう。

  少し思う所があって、朝のうちに現像してもらったフィルムをもう1度ここで見直す。

  既に1度見ているのが、さらりと目を通しただけだったから。

  ヴァルカンが撮ったであろう2枚を取り出す。その1枚。

  それは。

  ただの壁の写真だった。

  装飾性がある壁という訳でもない。ただの漆喰で固められた壁紙さえ貼られていない壁だった。

  ヴァルカンは何でこんなものを撮った?

  自分で建築でもやるつもりだったのか?

  私はふと顔をあげ、ロクスベリーハウスの室内を見た。

  漆喰で固められただけの壁紙さえ貼られていない壁。まさかな。

  部屋を回りながら、壁を見まわしていくと、写真のアングルと同じ写真があった。

  写真にはフラッシュを焚いた形跡がないのだが、室内で良く撮れてる。それで外でとった写真かなと思いこんでいたのだが。

  壁をよく観察した。

  目に見えないほどの小さな隙間がそこにはあった。 


  ヘラを突き立てて強引にこじ開ける。

  壁が歪んでしまうほどの力をかけるとそれが外れた。

  そこには人が1人入れるくらいの隙間があった。

  当然ながら誰もいなかった。

  しかし床に何かが落ちていた。

  切符だ。

  それは何の変哲もないロンドン地下鉄の1路線の切符だが、それが意味するところを私は知っていた。 


  ロンドン地下鉄の中には廃止された駅がある。入り口は閉鎖されており、電車はホームを通過する。すべての明かりが落ちているので、乗客が気づくことはあまりない。

  私はとある手段を用いてその中に入った。

  その男は隠れているつもりなのだろう。

  わずかな光でも白く浮かび上がるチューリングマシン独特の視界を見ている私には、彼が息をひそめて隠れているつもりなのが分かった。私はディテクティブリボルバーを構えた。

  「動くな」

  「ま、待ってくれ。私は違う、違うんだ」

  「ロクスベリーだな」

  「違う、私の話を聞いてくれ」

  私はポケットライトをつけた。

  視覚が切り替わるこの瞬間がいちばん危険なので、私は緊張感をもって迎撃の準備をした。だが、何も起こらなかった。

  私は男の顔を見た。ロクスベリーに間違いない。

  銃を突き付けて、裏手を手錠で固定した。

  ロクスベリーは喋り出した。

  「私はリンネルだ。君はクロシドライトだな」

  ロクスベリーは何かのコードネームを言っているつもりらしいが。

  「お前の名前はロクスベリーだ」

  「違う、これは作戦なんだ」

  だが彼はそう思わなかったようだ。

  「ごくろう、もう充分だ」

  銃弾がロクスベリーの頭部を貫通した。壁にペンキをこぼしたような跡を壁につけてロクスベリーが倒れた。

  「よくやった。ヴァルカン」

  ヴィクターが銃をしまい、私を見た。 


  「生きていたのか。ヴィクター。なぜ?」

  「そういう命令だった」

  そう言うとヴィクターはチューリングマシンらしからぬ笑顔で私を、つまりヴァルカンの姿を抱きしめようとした。

  「ヴァルカン、生きていたんだな。良かった」

  しかし私は彼をはねのけた。

  まるでヴァルカンの意思のごとく。

  「……いや、いいんだ。君が無事なら」

  涙を拭うヴィクター。情の激しいやつ。

  なぜだろう。少し意地悪になっている。

  ひょっとして嫉妬しているのだろうか。それとも。 


  「私の名はショーン・スムート。分析の仕事をさせてもらってる。ヴァリアント34だね」

  私はうなづいた。

  スムートは話を続けた。

  「結論から言おう。我々はヴィクターを内偵していた。われわれは先の爆発事件をヴィクターの破壊工作ではないかと疑っているのだ」

  スムートはこちらに動揺させる暇を与えるつもりはなかった。

  「これは予備的な質問だが、あのときフラム地区突入を選択したのはヴィクターの意見だったのではないかね?」

  いや、ちがう。

  既に誤解しようのない命令が出ていた。司令部に確認してもらえればすぐにそれが確認できる。

  「では、その時のための緊急用の作戦をあらかじめ考えておき、それを実行したのだろう。言うまでもなく自身が逃れるため、そしてロクスベリーから安全な場所で情報を受け取るために」

  しかしそれらをヴィクターの破壊工作とみなす具体的な証拠があるのか?

  「先月にベルファストで逮捕した連絡員から入手した情報の中に、チューリングマシン司令部からと思われるコードネームを確認した。我々はその情報の内容や、行動分析によってそれがヴィクター22であることまでを分析した。その矢先にあの事件が起こった。我々は彼が緊急脱出をはかったものと推測している」

  そのデータのプリントアウトした紙の束を見せてもらった。

  ざらっと見ただけでは判断できないが、何の証拠もなくこんなことを言っているのではないとは、私にも理解できた。

  「だがロクスベリーからの情報の回収はそもそも付随的な任務に過ぎないと考えられる。彼がそもそも何のためにスパイをやっていたのか。その答えはおそらくこれだ」

  そのプリントアウトには会話をテープ起こしした文章がタイプされていた。

  私とヴァルカンとヴィクターの会話だった。 


  その地下鉄の廃駅でヴィクターは言った。

  「僕はもう、もどれない」

  「なぜ?」

  「実は僕にはスパイの嫌疑がかけられている。ヴァリアントを殺した爆弾が僕の仕業だと言うんだ。君ももう聞いていると思うが」

  それでもヴィクターは私に(ヴァルカンに)銃を向けなかった。

  「なぜ今、ロクスベリーを殺した?」

  情報を回収したから要は無くなったということなのか。

  「そう、それも僕の嫌疑のひとつだな。いまとなってはもはや」

  「ドイツのスパイだったのか?」

  私は決定的な質問をした。

  「君には代えられない。ヴァルカン」

  ヴィクターの答えの意味は分からなかった。 


  私は少し迷った。

  「分かった。何をすればいい?」

  「僕は身を隠す。燃料の補充を頼めないか?」

  ここでは食料を燃料と呼称している。任務内のみでつかう隠語だ。

  「ハウスBにいる。トリガーはロスリンにしてくれ」

  幸いにして私にも分かる内容だった。

  (もしヴァルカンにしか分からない内容であったら、スパイごっこはここでおしまいだ) 


  ヴィクター、実は、私は……。

  もう少しで言葉になって吐き出すところだったが、言わなかった。

  なぜ言わなかったのだろう。

  言うまでなく、チューリングマシンとしての基本技能だからだ。

  忠誠装置は我々の脊髄にROM化して存在してる。

  1人の友人より仲間を優先するのが我々チューリングマシンの精神の根底に刻み込まれている。

  だがそれ以上に、私にはこの話を受けなければならない理由もあった。 


  もし軍警察に事後処理を任せたら、ヴィクターはあっさり自決に成功するだろう。

  チューリングマシンは捕縛された時のための自決装置を内蔵している。もちろん治安機関はスイッチをオフに出来るのだが、そういう理屈だが、実際にその状況に出くわしたことはまだない。

  だから私ひとりで行動しなければならない。

  ヴィクターのことを知れば知るほど、うまくやるには他に方法がないと思われた。 


  2日後。

  私はあらかじめのルール通りにその家を訪れ、ヴィクターに食事を作った。

  ヴィクターがそれを理解していいたのかどうか分からない。

  ただ最後に「ヴァルカン、手を握っていてくれ」と頼まれた。

  それから彼が眠るまで手を離さず握り続けた。

  安らかな表情だったと思う。

  彼が昏睡状態に落ちてからスムートたちに引き渡した。

  ヴィクターを車に運び込む前にスムートは改めて警告した。

  「言っておくが、まだ半分だぞ」

  私への警告だった。 


  ヴィクターは私に失望したのではないだろうか。

  彼の最後の姿はどこまでも穏やかで、私の罪を追及するようなそぶりは一切なかったのだ。

  私はどうやら卑劣な人物のようだ。

  私は任務に疑問を抱かないよう、訓練されている。

  疑問を抱いては、いけない。 


  私はもう1人を求めて探索を再開した。


  病院ではドクターオールバンズが既に行方不明になっていた。

  カルテの類もすべて破棄されたか、コピーが取られた記録にも故意による錯誤があった。

  情報が破壊されている。

  これを調査するのは少し人数がいる。 


  私はバンカー65への立ち入り許可を申請した。

  バンカー65。

  通称、世界の底。

  あのときヴァルカンが言い残した場所と推測されるひとつ。

  それはブリテン島でもっとも深いバンカーのひとつで1000メートル以上の地下に掘削されている。ただし情報が漏洩してしまったので現在は運用されてない。

  他に最深のバンカーがあるかどうかは当然に機密なので、公認されている限りにおいてだが、ここが最も深い場所となる。

  建設途中で中断された暗い空間。

  私は常夜灯が点灯されるのがやっとの空間を、延長知覚で把握しながら進む。

  そこには。

  何もなかった。

  すくなくとも行けば分かる的な手がかりの類は皆無だった。

  数時間も手がかりを求めて探し回った後、あきらめて退却した。

  ヴァルカンは何の手がかりもここに残していなかった。

  世界の底の謎が、どうしても解けない。

  汚い場所であったので、帰ってきてシャワーで汚れを丁寧に洗い落とさねばならなかった。 


  ヴィクターは当然に尋問されてるはずだが、そもそも彼は全体像を知らない可能性もある。

  スムートが探すべき残された鍵は、ヴァルカンの肉体、つまりは今となっては私の肉体のみになっていた。

  もちろんスムートはそんなことは言わなかったが、気づいてしかるべきだ。

  そろそろ時間切れだ。

  私はヴァルカンの捜索をあきらめることにした。

  私は逃走した。

  今となっては身を守らなければならない。

  これは他の誰でもない、ヴァルカンの体でもある。

  逃走は簡単に成功した。 


  私はチューリングマシンの機能をフルに活用して、貨物として大西洋を渡った。

  通常の人間なら与圧されてない貨物室は耐えることができない。

  が、私にはもちろん可能だ。

  こんなこともあろうかと、内密に個人的に準備していた装備が役に立った。

  ……本当のことを言うと、ヴィクターとヴァルカンを逃亡させるために準備していたのだが。

  もちろん、私は余計な感情を抱くことがないよう、訓練されている。

  今となっては、という話だ。

  それにしても、この逃走はあまりにも簡単に成功した。

  不自然に感じられるほどに。 


  私にはこの時点で、確かめてみる場所がひとつ残っていた。

  いや、新たに判明した手がかりというべきか。 


  そこはカナダの西の果て。バンクーバー島内陸のとある小都市だった。

  その小都市の見捨てられた路地を進むと、遠くからは見えてもうまくたどり着けない草原がある。

  私はそこに辿り着いた。

  「どれどれ」

  そこに赤いコートの少女がついに姿を見せた。

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