モラトリアムパレェド
ハッサン
序論 1
さてどこから話したものか。
「和泉。和泉」
和泉というのは、とりあえず私の名前ということにしておこう。
この話を書くときに必要な語り手で、ヒロインやら主人公やらと呼ばれるものである。
ちなみに、和泉リアンという現代日本において非常識極まりないフルネームが私を指している。和泉という苗字と英国のどこかの神話だかに出てくる女神の名前からとったと親が言っていたが、碌でもないことを考えてくれたものである。
「和泉ってば!」
私の肩を揺さぶっているのは、友人である。ちなみに学生で、午後の講義も終わり、足早に構内を去っていく夕刻ごろのなか、談笑する余裕のあるこのご時世にアルバイトもせず親の脛を齧っているというゴクツブシである。名前は……。
私は額に手を当てて少々考える。何だっけ、この、この子の名前、名前……。
「もしかして、あたしの名前また忘れちゃったの?」
「少し待ちたまえ、今、当てる」
「えぇ……、付き合い何年になると思ってんのさ。リアン」
「その名で呼ぶのはよしてくれないか」
「あー、知らね、知ぃらね。数少ない友達の名前すら忘れる薄情者なんか好き勝手呼ばれりゃいいんだよ」
そういって、ベーっと舌を出した。小学生でも今日日しないような仕草をどうしてこの子は恥ずかしげもなくできるんだろう。
私は少し考える。少女っぽい仕草をするから、ショウコと名付けよう。そしてありふれた苗字である田中を冠する。そういうことにしておこう。
「ショウコ」
「全然違うよ!? 割とマジで傷つくんだけど……」
「要するにだ。私が言いたいのは、この場において君を指す言葉は、ショウコという言葉しか思いつかないし、それ以上必要がないような気がする。私の名前が親のくだらない思い付きで付いたのと同じくらいどうでもいい。いずれまた思い出すだろう。
君が私に話したいことというのは、今度の長期休暇の予定で、ああ、失礼。講義など君の予定にそもそも入っていないのだから、ずっと休みだったか」
「いや、まあ、その件で合ってるんだけど。いやさ、アンタだけには言われたくないわ。
マジで。アタシは単位を取り切ってるから暇でいいんだけどさ、アンタは……」
「今その話はするべきではないし、ささやかな夕食の時間が台無しになってしまう。
これ以上は良くない」
私は、みそ汁のひらひらと浮いたワカメを啜る、啜るがお椀に張り付いてうまく取れない。
仕方ないので箸でワカメをひらりととる。入学当初はこれを上手くとるのに四苦八苦していたものである。
「田中よ」
目の前の女は、辺りを見回す。
練習という名の合コンが終わり、これから駅前の居酒屋で乱痴気騒ぎでもしようかというような髪を染めた連中や、草臥れたスーツとズレ落ちそうな眼鏡の中年の講師、一日中動き回っているだろうに、疲れ知らずかのようにテキパキと机を拭いている食堂のおばちゃん。
その誰もが田中である蓋然性をもっているのだが、この場合もっとも適当な人物は誰か。
そういう問題を脳内で処理しているのだろう。頭の巡りの悪いことに、30秒もかかってから回答する。
「そのネタ、そろそろ飽きたぞ」
名前というのは、全くもって理不尽な制度である。私がその理不尽について語るのはまたの機会にしよう。
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