木染維月の短編置き場

木染維月

卒業─君に贈る言葉─

 幸せが逃げていく気がした。


 それはまるで、掬い上げる手の指の隙間から水が零れ落ちていくように──それはまるで、白む朝焼けの空に星々が消えてゆくように。


 少しでもこの時間を脳裏に留めようと思えば思うほど、掴もうとすればするほど、無情に時は流れてゆく――するすると指の間を抜けてゆく。決して止まってはくれない。


 君との間に残された時間は僅か。

 具体的には、あと一週間足らず。


 今まで君と他愛のない話をして過ごしてきた時間を思えば、それはあまりにも短くて――未だ、ぬるま湯みたいに淡い幸せの日々の続きが当然のように訪れるものと、惰性のように信じたままだ。


 ――君との関係に終わりがあるだなんて、どんなお伽話よりもずっと非現実的なことのような気がしていた。




 この関係に名前はない。恐らく友達ではないし、まして恋人でなんかあり得ない。ただ取り決めたかのように、毎日他愛もない話をするには十分な――そんな関係だ。私たちはそんな曖昧な関係を、曖昧なままで、二年もの間守り続けてきた。そして、終わりが訪れることを解ってはいながらも――ずっとこの関係が続くものと、二人して訳もなく信じてきたのだ。


 ただ君と他愛のない話をして笑い合うだけの、そんな時間は──それが幸せと気付くにはあまりにも平凡だったし、今更大切にしようとするにはあまりにも日常になり過ぎていた。


 それはきっと、白昼の空の下では煌めく星々を見つけられないのと同じことなのだろう。





 ──不意に、一陣の風が吹いた。

 涙色の空に、薄紅色の手紙たちが舞う。暫くそれを眺めていると──熱いものが頬を伝った。


 私はそれを拭うことなく、滲んだ花吹雪を見続けた。


 どうしようもない感情だった。浮かんでは消え、湧き上がっては溢れ続ける想いの洪水──とめどなく溢れ出るそれは、この想いを隠そうと決めた、その自制心さえも淘汰してしまう。


 あぁ、この薄紅色にはぐらかされたまま、日常に溶かすように、最後の日に「またね」なんて君に嘘を吐くのだろうか? 君との名前のない関係を壊さない為に今までひた隠しにしてきたこの感情──この想いの洪水をも、最後まで見ないふりをしたまま?


 到底無理な話だった。それこそ非現実的なほどに。空を舞うこの薄紅色と違って、きっとこの想いが散って枯れゆくことなどない。曖昧なこの関係を続けたいが為に、君と私の為に、ずっと隠してきた感情ならば――どうせ終わってしまう関係ならば――隠し通す理由が、君と、君との関係の為ではないならば――


 最早この想いの洪水を、止めることは出来ない。



 ふわりと漂ってきた春の香を大きく吸い込み、三分咲きの桜花を見上げる。あぁ、私はきっと君を困らせてしまうんだろう――君を呆れさせてしまうんだろう。でも、それでも構わない。その答えがどうであれ、なんだかんだ、君はきっと笑って許してくれるから。


 だから、春風に託すようにして、口の中で小さく呟いた。


 ――最後の最後にこんなことを言って、ずっと守り続けた曖昧な関係を崩して、ごめんね──でも、優しいままではいられない。

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