アクナイアス王国興隆記
宮前葵
第1話 イルアローンの戦い
イルアローン盆地に朝が来る。旭日の最初の一閃に、我が軍、ジューク王国軍の刀槍の列が鈍い輝きを放った。
重装歩兵二万、騎兵一千。整然と隊列を組み、地平を睨む軍団が朝日に照らされその威容を表しつつある。実に壮観だ。
俺、トーラス・エムネが三年の軍歴の中で目にした中でも最大の軍勢だ。俺は馬上で身震いが起こるのを止める事が出来なかった。
これから始まる戦いは俺が目にした中でも最大の大戦になるだろう。朝靄の中に潜むペラム王国も総軍勢二万強。ほぼ互角と見られていた。
互角の軍勢が平原で正面からぶつかり合うのである。厳しい戦になるはずだ。俺はもう一度、朝日に赤く染め上げられたイルアローン盆地を見渡し、馬首を巡らせた。程なく最後の作戦会議がある。
我がジューク王国とペラム王国が戦わざるを得なくなった理由は、傍から見れば実にたわいも無い事であった。
両国を貫くようにアサル川という小さな河川が流れている。位置関係としてはジューク王国が上流側。ペラム王国が下流側となる。
小さな川であったが、農業用水としては重要な川であった。両国は協定を結び、川の水資源の分配を決め、それで長年上手く行っていたのである。
ところが昨年の冬、更に上流にある山岳地帯に降る雪の量が例年より少なかったようで、春になってもアサル川の水量が思うように増えなかった。ジューク王国は種まき時期を迎え、協定通りの水量を取水口から抜いた。ところが総水量が少なかったために、下流のペラム王国に十分な水が流れなかったらしいのである。
ペラム王国はジューク王国の協約違反を責め、覚えが無い我が王国としては言われ無き非難であると反論せざるを得ない。この時に十分な調査を行えば戦争までは発展しなかっただろうが、最初から双方とも相手が悪いと一方的に主張してしまったために、事が感情的な対立へと摩り替わってしまったのである。
水問題ではなく、それまでに起こった両国間の様々な問題まで巻き込んだ挙句に、両国は双方共に絶縁を宣言。戦争状態に突入した。
悪い事にこの時期、両国共にその周辺国との関係はそこそこに良く、あるいはそこそこに悪く、周辺国のどこかを味方に付けて優位に立とうという両国の目論みは共に失敗した。どちらかが優位立つ事が出来れば戦争を回避出来たかも知れないのだが。
であれば、単独で用意出来る範囲で最大の戦力を用意し、相手を圧倒しなければならない。両国がそう考えた結果が二万を超える大軍勢である。これは両国共に限界に近い大動員であった。
俺ことトーラス・エムネはジューク王国軍において、騎兵指揮官の一人に任命されていた。
エムネ家はジューク王国が百年ほど前に誕生した時の功臣の一人を源とする。祖父の時代より代々騎士を拝命する軍人家系だ。
父親が三年前に病で亡くなったため、俺が十五にして後を継いだ。それから三年。山賊討伐や国境での小規模な戦で手柄を立て、この戦では百騎長を拝命するまでになったのである。
もっとも、百騎長は騎兵部隊の高級指揮官としては末端であり、更に若輩の俺は作戦会議に集まった指揮官の中では最底辺の存在であると言って良かった。王を中心にテーブルを囲むお偉いさんのずっと後ろに立ち、かろうじて聞こえる作戦内容に必死に耳を傾けていた。
はっきり言うと、この時の俺は戦術について何ら口出し出来るような立場ではなく、それどころか詳しい作戦を伝えてもらえる立場でも無かった。そのため、この時に決定された我が軍の戦術については詳しくは知らない。
俺が分かるのは会議が終わった後、千騎長が「我が隊は左翼に配される」と言った事である。その事で「ああ、我が軍は両翼を広く取った陣形を取るのか」と俺は理解した。
中央に重装歩兵を配し、左右両翼に騎兵隊を置く。非常に常識的な配置だ。イルアローン盆地のような平坦度合いの高い場所では奇策が使い難いと思われるから、常識的なのは悪い事ではない。相手の出方によって陣形を変化させ易いのも良い。
ただ…。俺はこの時ほんの少しだけ懸念した。
敵軍の指揮官が突拍子も無い奴であったなら、常識的な考え方というのは絶好の餌食になるかもな。…と。
俺は銀色に輝き赤い羽根飾りが付いた兜を被り、やはり銀色の鎧に身を包んで馬上にある。手には槍。腰には剣。俺の後ろには百騎の部下たちが同じような様相で隊列を組んでいる。
イルアローン盆地はかつてすぐ傍のオブラ山が噴火した際に泥流と噴煙が一気に堆積した事があり、現在でも大きな木が生えにくい。ほとんどが赤茶けた地面がむき出しになった状態である。このせいでここは耕地にはし難く、放置された土地であることもあり、両国が戦争をする時にはたびたび戦場に選ばれている。
すっかり朝靄が晴れ切ると、正面、約五百メートル先に敵軍の隊列が見えた。見晴らしが良いためにこの距離からでも敵の隊列や武装が丸見えである。まぁ、それはこちらもそうなのだが。
遠目に見た感じ、向こうも同じような隊列に見えた。左右両翼に騎兵隊を置き、中央に重装歩兵を配している。これが我が軍と正面からぶつかった場合、鍔迫り合う歩兵の左右をどうにかして騎兵隊が回り込み、包囲をねらうという展開になるだろう。
ありきたりだ。しかしながら、このように見晴らしの良い平地で他にどんな作戦がとれようか。
合図のラッパの音が響き、ジューク王国軍は隊列を固く引き締めて前進した。馬蹄の響きが聞こえなくなるくらい心臓の音が高鳴る。槍をぎゅっと握り締める。
…その時、ふっと気が付いた。睨みつける先の敵の隊列。そこに不可思議なものを発見したのである。
俺は騎兵であり、我が軍の左翼にいる。なので正面にいるのは敵の右翼騎兵隊であるはずだった。
ところが、その敵騎兵隊が妙だったのである。
普通、騎兵隊は騎兵のみで構成されるのが普通である。ところが、敵の騎兵隊はその中に歩兵が混じっているのが見えたのだ。
何のつもりか?俺は混乱した。
騎兵の利点は機動性にある。歩兵と混成された部隊ではその最大の利点が失われるではないか。どういうことなのか…。
そこまで考えてから俺は、初めて、
敵の騎兵隊が弓を構えているのに気が付いた。しかもクロスボウだ。
「!」
そう思った時にはもう遅い。空気を切り裂くような音が響き、敵騎兵から一斉に矢が放たれた。クロスボウは強力である。しかも引き付けての水平発射だ。目にも留まらぬスピードで襲い来る矢が、我が軍の騎兵に突き立つ。馬のいななきと悪罵の声。落馬する者のうめき声。
「怯むな!」
俺は辛くも自分を襲ってきた矢を避け、槍を振り上げて後続を鼓舞する。
どういうつもりなのか。俺は復讐心に滾りながらも考えていた。
クロスボウは確かに強力な兵器である。その威力は鎧など容易に貫通する。しかも手軽で、馬上でも使い易い。
しかしながら、装填に手間が掛るうえ、重量もある上に嵩張る。なので騎兵が使用する場合というのは遊撃隊が一撃離脱の奇襲を掛ける際など再装填を考えないで良い使い方に限られた。このようにがっぷり四つに組んだ会戦で、正面衝突の際に使うなどあり得ないはずだ。
クロスボウと槍は同時に持てない。つまり、クロスボウを使ってしまった後。こちらの騎兵槍の突撃に対抗する術が無いのだ。せっかく先制攻撃が出来ても。クロスボウを撃ち終えた後を我が騎兵に襲われれば、与えた以上の損害を出してしまう事になるだろう。
俺はそう考え、敵がクロスボウを再装填する前に襲い掛かるべく、もう一度敵の騎兵隊を見た。
すると、何とした事か。
いつの間にか敵の騎兵隊全員が既に槍を構えているではないか。
「な!」
俺は絶句した。同様に俺の周りで突撃体勢に入っていた騎兵たちも愕然としている。それはそうだろう。たった今、クロスボウを構えていた筈の敵騎兵があっという間に兵装を転換しているのだ。まるで紙をひっくり返したかのように。
クロスボウの一撃によって隊列を乱された我が軍と違って、整然と隊列を組み、十分に力を引き絞っている。今度は、隊列そのものを矢として撃ち出すが如く。
あ!俺は悟った。敵の騎兵の中に混じっていた歩兵たちの役割を。
あれは要するに槍持ちだ。騎兵は最初はクロスボウを持っていた。クロスボウを持っていては槍を装備出来ない。なので、騎兵一人一人に槍持ちを付ける。そして、クロスボウを放った後に即座に槍とクロスボウを取り替えるのだ。
クロスボウと槍を入れ替えた後は、歩兵は全力で後退して戦闘域を出る。そして後方でクロスボウを装填して次の行動に移ればいい。
発想の転換だった。このように小細工の使い難い平地で戦う以上、敵味方は正面からぶつかり合う公算が高い。であれば、騎兵が機動力を存分に発揮するのは難しいのである。であれば、機動力を阻害しても攻撃力を高めたほうが良い。
勝利を確信した敵騎兵隊が雄たけびを上げる。俺はその声に押されるように仰け反った。
この時、勝敗は既に決していたのである。
ジューク王国軍は無残に敗北した。騎兵部隊が打ち払われた事によって敵騎兵に左右を回りこまれた重装歩兵は壊滅。国王以下司令部は敗走したのである。
俺。トーラス・エムネはというと、ペラム王国軍騎兵部隊が槍先をそろえて最初に突入してきたところで吹っ飛ばされて落馬。幸いな事に大きな怪我は無かったもののそのまま失神。
気がついたら縛り上げられていた。つまり、捕虜になったのだった。
なんとも情けない話であった。もっとも、俺は捕虜になるくらいなら死んだ方がましだというような思考とは無縁だったから、死ななかった事にホッとしてもいた。
俺を含むジューク王国軍の捕虜は戦闘が終了すると、互いをロープで結び合わされ、一列になって歩かされた。おそらくはペラム王国へ向かって。
戦争での捕虜は、身代金を取るか、もしくは奴隷として売り払われるとものと相場が決まっている。俺の場合父も母も死んでいるが、親戚が少なからずおり、彼らが頑張ってかき集めてくれれば身代金と引き換えに帰国する事も可能だろうと考えていた。
敵国の君主、あるいは司令官が残忍な性格であれば、戦勝の見せしめに嬲り殺される場合もあるのだが、それは極めて稀な例だ。事前に手に入れていたペラム王国の情報にはそういう特異な奴がいるというものはなかったはずだ。
きちんと休憩と食事を取りながら余裕を持って一昼夜。俺たちはペラム王国首都パーガスへとたどり着いた。
もっとも、ペラム王国はジューク王国とどっこいどっこいの小国である。首都といっても大した事は無い。土塁と木柵で囲まれた中に人口三万人くらいの街がある。背の高い建物は少なく、辛うじて王宮らしき建物が四階建て。二階屋でさえ多くは無い。まぁ、これは、ジューク王国もほぼ同様だ。かつて行った事がある遥か北の帝国の首都の威容とは比べるのも悲しいほどの規模なんである。
こんな小さな国がよくもまぁ二万を超える軍勢を動員出来たものだ。ちなみに、ジューク王国の場合、国内から動員出来たのは騎兵部隊一千騎と重装歩兵三千だけ。他は傭兵を雇った。なので国庫は空になったと思われる。我々捕虜を解放するために王国が動いてくれる事は期待出来そうに無い。
逆は期待出来るだろう。おそらくはペラム王国も同じように国庫を空にして傭兵を雇ったはずで、その金を回収したいと考えている筈だ。ならば捕虜をなるべく金に替えることを考えている筈で、俺たちが殺される可能性は低くなったと考えて良いだろう。
ジューク王国の捕虜たちは王宮へ向かった。
と、思ったら、一部の連中は分けられて別の方向へと向かわされた。人数は三十人ほど。俺もその中に含まれた。どうも騎士の捕虜が分けられたようだ。知り合いばかりであったが、会話を交わす雰囲気ではないので黙って歩く。
やがて、目的地らしい屋敷にたどり着いた。
…俺は呆れてしまった。その屋敷がなんというか、非常に豪壮な屋敷だったからだ。先程、遠めに見た王宮よりも遥かに立派だ。階数こそ三階建であったが、白亜に輝く壁に金の蔦が這うような装飾といい、青い瓦や屋根といい、手入れの行き届いた広大な庭園といい「あれ?こっちが王宮なのかな?」と勘違いしかねないほど華美な屋敷であった。
おそらくは貴族の邸宅であろうが、王宮と勘違いされかねないような屋敷を構えているとなると、ペラム王国では相当な実力者なのであろうと思われた。俺たちは屋敷を横目で見ながら庭園の奥に進んだ。そこに、陣幕を張られた一角があり、俺たちはその外に座らされた。
「これからアクナイアス公爵がお前らを一人ずつ引見なさる」
公爵ときたか。俺は記憶のページをめくり、その名前がペラム王国の軍司令官であることを確認した。
それにしても、わざわざ軍司令官が引見する理由はなんだろう?しかも一人一人だ。騎士は裕福な家庭の生まれが多いから、一人一人の懐具合を調べて、限界まで身代金をむしりとろうという腹だろうか。
前の方にいた奴から順に陣幕の中に入って行く。耳を澄ましても何も聞こえない。まぁ、悲鳴や断末魔の呻きも聞こえてこないので、命の危険があるような事態にはなっていないのだろうとは思われる。俺は後ろの方であったので、結構長い事待たされた。会話も無く、それなりに緊張していたので、ずいぶんと長く感じた。
そしてようやく俺の番が来た。三日に渡って縛られていた手首から縄が解かれた。俺はそのまま指示された通りに陣幕の中へ入っていった。
中には七人の人間がいた。鎧を身にまとった、明らかに騎士と思われる連中が6人。それがカーペットを挟んで左右に並んでいる。俺は男たちに挟まれるような格好でカーペットを進み、正面にいる、そいつと対面した。女性だった。
…無茶苦茶、背が低かった。いや、そいつが唯一人椅子に腰掛けていたからではあるが。それにしても小さかった。はっきり言えば、ちびすけだった。
肘掛にだらしなく寄り掛かっている。いや、妙齢の美女がその格好をやれば妖艶な雰囲気をかもし出せたのだろうが、お前には無理だと言ってやりたい。どうみてもだらしなく肘掛にもたれているようにしか見えん。そもそも、足が地面についていないので、どえらく間が抜けて見える。
輝くような金髪を大きく後ろで三つ編みにし、兜を被るためか前髪は銀で作られたカチューシャで上げている。秀でた額。白い輪郭は鋭く整い、きれいな鼻筋の左右に挑戦的なサファイアブルーの瞳が輝く。ついでに口元もにやりと歪められている。
美形である。将来性抜群であると評しても良い。が…。
…どうしてこんなところに子供がいるのか?俺はかなりたっぷり時間を掛けて考えた。
子供。どう見ても10歳前後の少女である。そいつがそれはそれは偉そうに。おそらくは特注品であろうミニチュアサイズの豪奢な鎧を身にまとい、あたかも一軍の将であるかのごとくふんぞり返って座っているのだ。
…そうか。
「代理か」
俺がそう思わず呟いた瞬間、そいつのむき出しのデコにぴきぴきと青筋が生じた。
「無礼な!」
がきんちょは分かり易く激昂して俺に指を突きつけた。
「我こそはペラム王国公爵、アクナイアス!エリュアー・マクダーネン・アクナイアスなるぞ!控えよ!」
…?何言ってんだ?このガキは?マジで素で言ってしまいそうになる。
「…だから、父親の代理なんだろう?」
「こいつ!」
そいつ、エリュアー・マクダーネン・アクナイアスは犬歯をむき出しにして子犬のように唸った。
「私が当主よ!父はとっくに亡くなったわ!」
いやいや、冗談はよせよ。そう言いたかったが、俺は賢明にもそれを堪え、しげしげとそいつを観察した。そして、
「嘘だろ?」
と言ってしまった。その瞬間、エリュアーとやらは、大きく顔を歪めいきなり瞳の端に大粒の涙を浮かべた。そしてそれを見た左右の男どもが殺気立って剣に手を掛ける。俺は慌てて両手を上げた。
「いや、分かった。信じよう。公爵。君は公爵なんだな。え~、俺、いや、私はトーラス・エムネ。海の如く寛大なるアクナイアス公爵閣下のお慈悲に感謝いたす」
今更取り繕っても無理かと思いきや、涙ぐんでいたエリュアーは突如として機嫌を直した。改めて尊大な間抜けな態度で俺を睥睨する。いや、俺は立ったままだったので実際には見上げているのだが。
「ふん!分かれば良いのよ。そうよ。捕虜であるあんたの身体生命はこの私が握っているのよ!逆らえば命は無いと思いなさい!」
はは~。と頭を下げて見せながら、俺はどうやらこの少女が公爵だというのは本当のことなんだな、と理解した。なにしろ、左右に並んでいるいかつい騎士たちの怒り方が本気だったからだ。エリュアーが滑稽な態度で何をしようと一切侮蔑めいた反応を見せない。心から信服しているように見える。
なんでこんなガキに?確かに公爵の家に生まれ、跡継ぎに定められれば少女だろうが赤ん坊だろうが公爵であるのは道理だが、そんな血統だけの奴が軍を率いる事など出来まい。ましてや歴戦の騎士たちを信服させる事など。
ということは、この一見少女にしか見えない公爵閣下には何かがあるのだ。
「さて、トーラス・エムネとやら、そなたがなぜこの場に引き出されたのか分かるかね?」
「分かりません」
即答した俺に、エリュアーは不快そうに眉を顰めた。
「ちょっとは考えなさいよ」
「思考のための材料が少な過ぎます。考えるだけ無駄です」
にべも無く俺は言った。少ない材料で推論を立て、それに基づいて行動する事は俺の好みではない。
「あんたをここで嬲り者にする気だとしたら?」
「それならとっくにやっているでしょうからそれは無いと思われます」
俺がやはり即答すると、エリュアーの瞳に興味の色が宿った。
「なるほど、質問を変えましょう。あなたはこれからどうなると思いますか?」
「国へ身代金の要求が行くでしょう。私の親戚がそれを払えれば私は解放され、払いきれなければ私は奴隷に売られますね」
「殺されるとは思わない?」
「ここに至ってはその可能性はほぼ無いでしょう」
「命乞いはしない?」
「無駄だからやりません」
ふ~む、というようにエリュアーは椅子に腰掛け直した。左右で騎士たちが呆れたような表情で俺を見ているのが分かる。俺は変わった事を言ったつもりは無かったのだが。後で聞いた話では、その場所に引き立てられたジューク王国の騎士たちはほぼ全員が命乞いをしたのだそうである。それが普通だ、ということらしい。
「そなたは敵の左翼にいたのだったな。我が軍の作戦は見たか?」
「あの、騎士隊に荷物持ちを付けた?」
「…従卒と呼んで欲しいが、まぁそうだ」
「面白い作戦でしたが、危ういところがあると思いました」
俺がそう言い切るとエリュアーの眉が顰められた。
「危うい?何が?現実にあなたたちはやられたじゃないの。負け惜しみ?」
エリュアーのその態度からは、プライドを傷つけられたような様子が見えた。どうやらあの作戦はエリュアーが考えたものらしい。密かに驚きながら俺は答えた。
「あの作戦は、我が軍が正面から突入してくる事が前提の作戦でした。クロスボウで一撃。そして槍突撃でもう一撃。相手よりも攻撃回数を無条件で一回増やせる。見事な二段構え戦法でした…」
そこまではエリュアーの鼻がピクピクと得意げに動いていたが、
「ですが、我が軍が何か奇策を考えていたら?予定通りに突撃を敢行しなければどうなりましたか?」
俺がそういった瞬間に止まった。
「我が軍が突撃せずに大きく戦場を迂回しようとしたらどうしましたか?中に動きの鈍い従卒を抱えていた貴軍騎士隊は対応出来なかった筈。全軍が包囲されて危機に陥ったでしょう」
エリュアーの頬から血の気が消えた。危険性に思い至ったのだろう。
「あの戦場では遠目から貴軍部隊が丸見えでした。あの時、目の良い者が貴軍の編成に気がついたなら、我が軍がそういう対応を取り得る可能性は十分にありました。まぁ、」
俺はすっかりしょげ返って上目遣いに俺を見上げているエリュアーに気を使いつつ言った。
「終わったあとならなんとでも言えますので、負け惜しみだと言って下さって結構ですよ」
実際、それは事実であった。我が軍の思い込み。こんな平原では正面決戦しかあり得ないという常識を逆手に取る事が出来たから、エリュアーの作戦は成功したのである。それを後になってから「覆せた」というのは正に負け惜しみ以外の何者でもない。
しかし、エリュアーは親に叱られた少女のようにしょんぼりしてしまっていた。またも瞳に涙が浮かぶ。いやいや、これ以上フォローのしようが無い。困ったことになった。
理屈上は、俺がこの場で殺される可能性はほとんど無い。それはさっき言った通りである。しかしながら、世の中には理屈が通らない場面が往々にしてある。
泣かされたエリュアーが「こんな奴!殺せ!」と叫ぶ。もしくは大事な主君が泣かされたのを見て、居並ぶ忠臣たちが激昂して俺に剣を振り下ろす。そういう危険性は十分にあった。
内心、冷や汗をかきながら立っている俺の前でエリュアーはしばらく俯いていたが、やがて浮かんだ涙を腕でごしごしと拭った。
「…決めた」
エリュアーは椅子から飛び降りると、キッと俺を見上げた。なにしろ身長が俺の胸までしかないので。
「あんたはあたしが買う!」
…は?
「あんた、あたしの物になりなさい!」
…つまりどういう事かというと、つまりは俺は国に帰れなくなったのだ。
なんでそんな事になったのか。理由は簡単だった。エリュアーが俺に設定した身代金があまりにも高額で、国の親戚たちには払い切る事が出来なかったのである。
そうなると俺は奴隷として売られる事になる。その奴隷である俺を買ったのがエリュアーであった。ちゃんと国庫に代金を払ったのであり、大変まっとうな商取引であった。らしい。
ただし、俺はあの時以来エリュアーの屋敷に部屋を与えられ、監視こそ付いたが賓客として扱われ、自分の身分が捕虜から奴隷へと移り変わっている間も別に何不自由ない生活を送っていた。なので、最終的にエリュアーから「あんたは今日から正式にあたしの奴隷になったから」と告げられても何の感慨も沸かなかった。
事実として俺はエリュアーの所有物扱いとなり、国に帰れなくなった。勝手に帰ればエリュアーは堂々とジューク王国に返還を要求し、王国はそれに応えて俺を送還するだろう。奴隷というのは所有物であり、所有権が尊重されるべきものだというのは、多くの国に共通する価値観であった。
要するに俺は人間から物になったわけである。
しかしながら、俺はエリュアーが俺を他の捕虜から引き離した時点でこういう未来がやってくる事は予想出来ていた。エリュアーは明らかに俺に対して「価値」を見出しており、俺を自分の旗下に置きたがっていたからである。
それならば正直に俺に対して「部下になれ」と言えば良いのだが、その辺りがエリュアーの屈折した心理というものなのかもしれない。
ペラム王国の騎兵隊の錬度はジューク王国に対して低く、その向上のためにジューク王国の騎兵隊から人材を得たい。エリュアーはそもそもそう考えて騎兵の捕虜をより分けて一人一人を引見していたらしい。戦勝に浮かれることなく、その先を見据えていたということである。
この事からも分かる通り、エリュアーは確かに一軍の将たる器の持ち主であり、見た目通りのちんちくりんの童女では無いのであった。それは俺が屋敷に入れられて以降、何度か会う内に色々分かってきた。
そもそもアクナイアス公爵家というのはペラム王国王家の親戚筋に当たる家柄で、大将軍だの摂政だの国務尚書だのといったペラム王国の要職を占めるのが常態であるというような家柄らしい。その威は国王に継ぐとまで言われている。
先代である父親が亡くなり、他に子がいなかったために女子であるエリュアーが跡を継いだ。一見して子供にしか見えない上に女性である。ペラム王国ではアクナイアス公爵家の行く末を不安視する者も多かったらしい。ところが、この童女にしか見えない金髪碧眼は正にアクナイアス公爵を継ぐのに相応しい能力と野望の持ち主だったのである。
公爵の権力を遠慮なく振り回してエリュアーはペラム王国の政界に地位を占めると、軍の指揮権を握るのに成功したのである。ペラム王国軍総司令の座を占めると、何度かの盗賊討伐や隣国との小競り合いで卓越した指揮を見せて軍を完全に掌握した。
そしてジューク王国との決戦に総司令として参戦。自ら作戦を立案してジューク王国を壊滅させた。軍を失ったジューク王国はペラム王国に対して領土の大幅割譲を含む屈辱的な内容の講和を申し入れなければならなかった。即ちそれはエリュアーの大手柄ということになるのであった。
大勝利にペラム王国は沸き立ち、エリュアーの功績を讃える声が首都パーガスに満ちた。アクナイアス公爵家の屋敷には祝賀の使者が絶える事無く訪れ、贈答の品が屋敷の中に置き切らなくなった程であった。
が、当主エリュアーは昼食に同席した時に顔をゆがめて、こう吐き捨てた。
「馬鹿な連中」
俺は奴隷の筈であったが、待遇は相変わらず賓客扱いで、当主である彼女と食事を同席していたのである。まぁ、奴隷といっても色々あって、教師や医師といった技能を持った奴隷は今の俺のように好待遇である事は珍しくない。どうもエリュアーは俺の事を騎士団の顧問にしようと考えているらしいから、それなりの待遇を与えているのだという事なのだろう。
「なにがだ?」
そんな飼われている身でありながら、俺は何となくエリュアーにはタメ口で対していた。理由は簡単。ちびすけに敬語を使うのは、どうにも違和感があったからだ。そもそも心から信服して彼女の部下になったというのなら兎も角、無理やり自由を奪われて囲われている立場なのだから、それくらいのささやかな反抗は許されるべきだろう。
「私におべっかを使いにくる連中の事よ!」
エリュアーは俺の態度を特に咎めなかった。
「この間まで陰口を叩いていたくせに。手の平を返すとは正にこの事よ!」
「そりゃ、返すだろう。今やあんたは英雄なんだろう?権力はうなぎ登りだ。おこぼれに預かりたければ手のひらは返すし、無い頭も下がる」
俺はパンをちぎって口に運んだ。ちゃんと小麦のパンだ。ちなみに俺が国にいた頃はほとんどがライ麦パンであった。奴隷になった方が良いものを喰っている。複雑な気分でスープをスプーンですくう。
「権力は自分を慕わない人間も従わせる魔法のようなものだろう」
「ふふん。分かったような事を言うじゃない」
「俺は権力に従わされる方だからな」
エリュアーはふん、とはしたなく鼻息を噴出した。
「そうよ。あたしは人に従うのは嫌!何でも自分でやりたいのよ!そのためには力が要るでしょう?」
「なら、もう十分だろう?ペラム王国にはもはやあんたの上を行く権力者はいない。もうすぐ左大臣になると聞いたぞ?左大臣で軍総司令なら位人身を極めたと行っても過言じゃない。上には国王しかいないじゃないか」
ふふん、とエリュアーは鼻に付く笑い方をした。なんだよ。俺は眉をしかめた。
「いるじゃない」
「何が」
「国王が」
俺はエリュアーが何を言ったのかが瞬間では分からず、しばらく考え込んで、ようやく理解した。
「…簒奪を狙っているのか?」
「そんな大層なものじゃないわ」
エリュアーはグラスに注いだワインを一口飲んで喉を潤してから続けた。
「でも、国王より私の方が統治者に相応しければ、私が国を統べるのが自然じゃなくて?」
いやいや。この女。大した自信家だ。というか、傲岸不遜、唯我独尊が服着て歩いているような奴だ。ちびすけのくせに。
実は俺は数日前、エリュアーにと共にペラム王国国王に会っていた。エリュアーが俺を国王に紹介しに行ったのである。ジューク王国捕虜である俺を、ペラム王国騎士団の顧問にする事を承諾してもらうためだとの事であった。
謁見の間に現れた国王アカルド・ペラムはエリュアーの長広舌を無感動に聞き流し、あっさり「アクナイアス公爵の考える通りにしてよい」と言った。俺には一瞥。いかにも興味が無さそうな視線を投げたのみであった。
感情が感じられないのっぺりした顔をした男で、意外に若い。多分三十を超えてはいるまい。エリュアー曰く「後宮に入り浸り」とのことで、確かに惰弱な印象は受けた。
その事を思い出しながら俺はエリュアーの簒奪宣言について考えた。
あの王。いかにも政治にも軍事にも興味が無さそうなあの王よりは、覇気に富み意欲も旺盛なエリュアーの方が王に相応しいという考え方には一理が無いことも無い。
しかしながら、王という立場はそれだけでこなせる様なものでは無いだろう。王に必要なのは政治や軍事の能力以上に多くの人間の意見を調整し、まとめ、国を良き方向に導く事だ。それには異論があれば説得し、場合によっては硬軟取り混ぜた様々な手練手管を使って黒いものを白いと言い包める能力が必要である。顔と考えている事が一致しないような、要は腹芸が出来ねばならない。
そう。エリュアーは単純過ぎるのだ。確かに戦術眼は確かであるようであり、明敏な頭脳の持ち主である事は分かるのだが、物事の見かたが一面的で浅い。
敵であった俺の事を部下にしてしまおうと考えるのは確かに器量の大きさを表してはいるだろうが、一面では人を簡単に信用し過ぎるという甘さだと言える。ましてや俺にあっさり簒奪の意図まで明かしてしまうなど、陰謀家失格も良い所だ。
もう一つある。この少女は自分の才に絶対の自信を持ち、基本的に他人を見下しているところがある。だからからか、他の人間の考えているところを慮る事が苦手なようだ。他の人間が何かを考えていると言う事すら忘れがち。他人だって陰謀を企むのだという事が分かっていない。
…危うい。
この少女はいかにも危なっかしいのである。大きな野心と才能を持て余し振り回されているように見える。もっと言えば、アクナイアス公爵家の当主という立場に振り回されてもいるのであろう。
こんな危なっかしい奴が自分の保護者だとは。
俺ははっきり言うと、ジューク王国に未練は無かった。ペラム王国の方が居心地が良いのならこっちでやり直すもの悪くは無いと思っていた。今の地位は奴隷であるが、騎士団の顧問となり、戦場でそれなりに功績を立てれば奴隷の地位から抜け出すのはそう難しくないだろう。
だがしかし、肝心の所有者にして上司たるエリュアーがこう危ういのではその未来予想図は楽観的に過ぎるかもしれない。
…その危惧が案の定、現実化したのはそれからほんの数日後の事であった。
その時、俺はベッドで本を読んでいた。希少な「紙」を使った本である。俺は北の大帝国まで留学していた事があり、その頃は図書館でよく本を読んだものだった。しかしながらジューク王国に帰ってきてからは、本など王宮くらいにしか無かったため、長らくご無沙汰だった。ところがこのアクナイアス公爵家にはその本が相当な量保管されていたのである。俺は嬉々としてそれを持ち出し、暇に飽かせて読みふけった。
この家にある本はエリュアーの祖父が集めたものであるという事であった。内容は歴史書、諸国の風物誌、農業技術本など。聞くところによればエリュアーも字は読み書き出来るらしいが、本はあんまり好まないらしい。
「給料の換わりに本をあげましょうか?」
などと皮肉を言うくらいであるから、どうやら本の価値も良く知らないようだ。それを良いことに俺はほとんどの本を自室に持ち込んでいた。俺の部屋はエリュアーの寝室のある本館からLの字型に張り出した別館にある。結果的にこの事が、貴重な本の損失を防ぐ事となった。
それに気が付いたのは一冊の本を読み終えて、目の疲れを取るために薄暗くなりつつあった外を見た瞬間だった。目の端を過ぎったその輝きを見た瞬間、俺は全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
…刀槍が西日を反射した色であった。なぜ、アクナイアス公爵屋敷の中庭にそんなものが。俺は窓際に張り付くと、慎重に外を伺った。
そこには、少なからぬ歩兵がいた。手入れされた花壇を踏み躙って整列している。その装備は明らかにペラム王国軍のものであった。ペラム王国軍がなぜ、帝国左大臣にして軍指令のアクナイアス公爵の屋敷に侵入しているのか…。
俺は思考を巡らし、一つの結論に辿りついた。理由など一つしか考えられないではないか。
そして俺は、これから自分がどうすべきかを考えた。
…やはり、選択肢は一つしかないようだった。
そしてぐずぐずしている暇は無い。
俺は動くと、乗馬ズボンと出来るだけ生地の厚い上着を箪笥から出し、素早く身に着けた。本当は何か武器が欲しいところであったが、流石のエリュアーも俺に武器までは与えていなかった。
靴を履いて紐をしっかり締めると、俺は一つ深呼吸をし、部屋のドアを開けると勢いをつけて駆け出した。
廊下を一気に駆ける。
駆けている途中で外から大きな声で呼ばわる声を聞いた。
「エリュアー・マクダーネン・アクナイアス殿に申し上げ~る!」
内容は大体予想が付いていた。
「貴殿は戦功に奢り、奢侈を極め、君を侮り、軍を私物化し、他国と結んで王国の転覆を企んだ!」
俺は走りながら、思わず苦笑した。まぁ、構想段階であっただろうがその告発は概ね事実であったからである。
「慈悲深き国王陛下はその事実を知って、貴殿の官職を剥奪の上、我、ローデン・オンバルに貴殿をして御前に連行すべしと命ぜられた!我は勅使である!」
本殿に入る。廊下には何人かのメイドや召使たちが恐慌状態で右往左往していた。俺はそいつらを跳ね除けるように走った。
「国王陛下の名において命ずる!身一つで投降せよ!貴殿の屋敷は完全に包囲した!もはや逃げる事は叶わぬ!大人しく出てまいれ!」
捕縛であればいきなり攻め寄せては来ないだろう。まだ余裕があるな。俺は階段を一気に駆け上がると、最上階へと飛び込んだ。そこの一番大きなドアを体当たりするように押し開ける。
物凄く大きな部屋の真ん中には高い天井に迫るサイズの天蓋付きの大ベッドがあった。無数のクッションと絹の羽根布団と、少なからぬ数のぬいぐるみに埋め尽くされたそこに、一人の少女が埋もれている。
エリュアー・マクダーネン・アクナイアス。左大臣にして軍指令改め謀反人は、そもそも大きな目をまん丸にして俺の顔を凝視していた。そして、口をぱかっと開け、何かを、
叫ばせない。俺は手を伸ばしてエリュアーの口を塞いだ。ベッドの中に飛び込んでエリュアーの小さな身体を抱え込む。
「静かにしろ!」
小さく怒鳴る。まるっきり強盗の台詞で、ベッドの中で女性を無理やり抱きすくめているというシチュエーションからすれば更に最低な犯罪者の台詞にもなりかねないが、俺は真剣だった。
「選択肢は二つ!投降するか逃げるか!決めろ!」
俺の声で大混乱をあからさまに表現していたエリュアーの青い瞳が見開かれる。そして、俺の顔をじっと見つめる。俺はそっとエリュアーの口から手を放した。
「…逃げるしか、無いの?」
「戦力が無い」
俺は短く応えた。
外にいる連中全員を見た訳ではないが、この広壮な屋敷を包囲していると豪語するからには手勢二百人は下らない筈だ。それに対してこちらは屋敷の人間をかき集めても二十人ほど。しかも非武装。
「で、でも、なんで?なんで私が謀反人にされなきゃいけないの?」
エリュアーは俺の胸倉を掴んで訴える。俺はされるがままにされながら溜息を吐いた。
「それが分からないから、謀反人に仕立て上げられたんだよ」
「え?」
「国王と並ぶほどの権力を得て、軍権も持ち、王宮より豪壮な屋敷に住み、英雄としての名声もある。そんな奴がいたら、俺が国王なら絶対に何とかして陥れようとするね」
でなければ明らかに自分の地位が危ないからな。国家に王は一人いれば良い。なるほど本人が言うようにエリュアーの方が能力的にもやる気的にも国王の方に相応しいかもしれない。だがしかし、国王がそう思わなかったら?自分の地位が愛しいと思っていたら?国王の地位を失いたくないと思っていたら?
「そりゃ、どんな手段を使ってでも排除だろう。ライバルを」
エリュアーはぽかーんと口を開けていた。理解出来ないという顔である。
この少女は、結局、王が自分を危険視する、あるいはするかもしれないなどと考えた事もなかったのであろう。傍から見ればどう見てもエリュアーは自分に権力と名声を集め過ぎていた。しかしエリュアーにとってそんな権力は通過点に過ぎなかったのである。故にその事に気がつかなかった。臣下の分を超えてしまっている事に気がつかなかったのである。
世の中には王以上の権勢を誇る重臣という存在はいることはいる。しかしながらそういう権力者は常に王を立て、へりくだり、王から危険視されないように気を配るものである。王は王であり、王の支持は権力者の権力基盤だからだ。
ところがエリュアーは一切そういう事をしなかった。王を見下してすらいた。これでは王がエリュアーを危険視するのは当然であり、しなければむしろおかしいとさえ言える。
つまりはエリュアーの簒奪への野望はあからさま過ぎたのである。
「そんなお前を見ていた誰かが国王に注進する。『アクナイアス公爵に叛意あり』とな。それだけで王は大義名分を得てお前を逮捕、処罰出来る」
「でも、証拠は!」
「証拠なんていらん。捏造するまでも無い。王がそう聞いた、だけで十分処罰の理由になる」
無茶苦茶だが、それが王の権力というものだ。
エリュアーはぐっと下唇を噛んだ。この少女は頭が悪いわけではない。ただ鈍いだけで。それゆえ、理解が及べば状況がどうなっているかも分かるだろう。
「あんた。どうするつもり?」
エリュアーは俺の腕の中で言った。ベッドの中で少女を抱え込んでいるのであるが、状況があまりにも切迫しているのでロマンチックな風情は欠片も無い。
「あんたを連れて脱出する。それ以外に選択肢が無い」
「?一人で逃げる。もしくは私を『敵』に突き出すっていうのは?」
「考えたが、程なく詰んでしまう」
一人で脱出しても、俺がエリュアー所有である事実は変わらない。エリュアーの財産はおそらくペラム王国に接収されるので、そこに俺も含まれるのだろう。困るのは俺がおそらくはエリュアーの個人的な軍事顧問と認識されている事で、これは謀反の共謀人と見做されても不自然ではない立場である。となればどういう扱いをされるか分からない。有利な証言を引き出すために拷問された挙句に殺されかねない。
エリュアーを捕らえてペラム王国王に差し出し恭順の意を示しても結果はおそらく同じだろう。国王が奴隷の俺がやった事を手柄と見てくれるとは思えない。
とすると、最善の方法は「主人」であるエリュアーと共に脱出する事である。そうすればとりあえずは行動の自由を、エリュアーの許可がある範囲でではあろうが維持出来る。
「もちろん、あんたが大人しく捕まる気であれば話は変わってくるけどな」
エリュアーは俺の目をその険の強い視線で睨んでいたが、やがてそのまま唇を歪めた。
「分かった。あんた、手伝いなさい!」
この時、エリュアーを逮捕するために派遣されていたのは、ローデン・オンバルという騎士で、近衛軍団の指揮官であった。
もっとも、名前は立派だが近衛軍団と言っても総員二百名でしかなく、実戦出る事も無いので錬度も低い。オンバルからして王の傍に儀仗する時に見栄えが良い体格をしているから団長に選ばれたというくらいであるから、戦闘能力も指揮能力も無い。
ちなみにエリュアーはペラム王国軍の人材については軍権を握り、コントロールするために入念に調べたとの事で、オンバルに関しては「無能と考えて差し支えない」との評価であった。
しかし、オンバル自身は張り切っていた。なにしろ、王の傍で立っているか、せいぜい着飾って行進するくらいが関の山だった近衛軍団にとって初めての王命による軍事行動だったのである。しかも、謀反人の逮捕。犯人は騎士である自分よりもはるかに上の公爵閣下だ。
精一杯しゃちほこ張って叫ぶ。
「大人しく出てこられよ!無抵抗で王の前に跪き、忠誠を誓うのであれば寛大な処置もありえよう!しかし、抵抗するのであれば一切の容赦は要らずとの命も受けておる!賢明なる選択をなされよ!」
しかし、巨大な屋敷の中は沈黙している。先ほどまで慌てふためいていた使用人の影も見えない。オンバルは眉をしかめた。仕方が無い。部下たちに突入を命じようとした。その時。
オンバルの前で屋敷の大扉が開いた。そこに現れたのは、大小二つの人影だった。
華麗な金髪を大きなみつあみで後ろに縛り、頭には王冠のような銀のカチューシャ。繊細な模様の打ち出された銀色の甲冑を身にまとい、可憐な相貌に傲然たる表情を浮かべながらオンバルを見下ろしている。ラピスラズリに似た色の瞳には雷光が秘められたかのよう。
これで彼女が八頭身であれば女神光臨といった風情であるが、あいにくエリュアーは銅贔屓目にみても十歳になるかならないかという少女にしか見えないのでやや威厳には欠けている。しかし、オンバルは十分に威圧されたようで思わず後ずさっている。
なるほど、わざわざ甲冑を身に纏ったのはこういう事か。エリュアーの横に控える俺は感心した。確かに寝巻き姿ではこの威厳は出まい。
エリュアーは進み出ると剣をすらっと抜き、オンバルに向けて突き出した。
「汝!ローデン・オンバル!誰に断って我が屋敷に土足で踏み入るのか!即刻その薄汚い足を我が庭よりどけるが良い!」
凛とした声で叫ぶ。それだけでオンバルの周りにいる近衛軍団員に動揺が走る。なんとも役者が違う事である。確かにその威厳は王侯並みだと言えるな。
しかし、威厳だけでこいつらを引かせる事は出来まい。オンバルは動揺しながらも踏み止まった。
「だ、黙れ!我は勅命によって貴様を逮捕しに参ったのだぞ!控えよ!」
だがエリュアーは顎を上げて冷笑した。
「汝では不足である。我は公爵ぞ。我に勅使を遣わすならそれなりの者をよこすが良い!」
オルバンの顔が赤く染まる。
「だ、黙れ黙れ!陛下の勅命をなんと心得るのか!剣を収め、神妙に縛に付くが良い!」
そう叫ぶと、左右の部下に合図を送る。騎士が二人、進み出てエリュアーに手を掛けようとした。
ギャリン!と金属音。エリュアーが石敷きの床に剣を突き立てたのである。
「我に触れるな!我はエリュアー・マクダーネン・アクナイアスであるぞ!」
騎士たちは動きを止めてしまう。どうしたものかと戸惑っているようだ。おそらくは詳しい事情を聞かされていないのであろう。元々イルアローンの英雄として、今や軍の中では崇拝の対象である程の存在であるエリュアーを逮捕しろという命令に疑問を感じているのかもしれない。
エリュアーの青い焔を思わせる視線に二人の騎士だけでなく近衛騎士全員がたじろぐ。一見童女にしか見えないが、実戦経験も豊富な一軍の将であるエリュアーと儀礼騎士である近衛騎士では潜り抜けてきた修羅場が違うのである。その迫力だけで近衛騎士数百人を押し返す勢いであった。
しかしながら、このままで済むはずが無かった。多勢に無勢だし、勅命とやらも本当であろう。エリュアーがどんなに頑張っても無罪放免になろう筈が無い。だからエリュアーがこうして大見得を切っているのは注目を集めるのと、時間を稼ぐ以外の理由にならないのである。
そう。やり取りの隙にこっそり俺が抜け出して、厩舎に馬を取りに行く時間を。
突如馬蹄の響きが起こる。近衛騎士たちが驚いて振り向いた先に突入してくる人馬がある。当然俺と、アクナイアス公爵家所有の黒馬である。驚愕しながらも槍をかざして制止しようとするのを無視して俺は馬の腹を蹴った。
駿馬は脚を蹴り、目と口を丸くしている騎士たちの頭上を飛び越えた。蹄鉄と石が擦れて火花が散る。俺は手を伸ばしてエリュアーを馬上に攫い上げた。鎧を纏っているので小さいくせに意外に重かった。
俺の胸の前に収まるとエリュアーは音高く剣を鞘に収めた。
「貴様らに言い置く!我はこの屈辱を忘れぬ!ペラム王国の恩知らずな所業も忘れまい!必ず帰り来て全ての報いを受けさせてやる!」
その時、馬上の俺とエリュアーの周りに赤く輝くものが降り注ぎ始めた。オルバンがハッと顔を上げる。アクナイアス公爵屋敷が炎に包まれ始めているのである。
エリュアーと俺が出る前に、使用人たちに指示しておいたのである。屋敷に火を掛け、その隙に逃げるようにと。謀反人の使用人となれば様々な不利益を蒙る事になろう。そのための配慮だった。
今や夜空を赤々と焦がしながら炎上するアクナイアス公爵屋敷。火の粉が舞い上がり、俺たちの周りを踊っていた。近衛騎士たちは炎に動揺してざわめいている。俺とエリュアーは背景に炎を背負って揺らめく陽炎のように見えただろう。エリュアーは更に叫んだ。
「我はエリュアー・マクダーネン・アクナイアス!今、この時より、ペラム王国に対する復讐の鬼となる!王に伝えよ!ゆめゆめ我が名を忘れるなと!」
屋敷のバルコニーが焼け落ち、俺たちの目前に落下して火と共に四散した。近衛騎士たちがそれを見て大きく動揺する。
俺はその隙を逃さず馬に鞭を入れた。黒馬は一気に掛け、近衛騎士を数人引っ掛けて跳ね飛ばしながらも囲みを突破した。俺は間髪要れず手綱をしごき、拍車を入れて馬を加速させる。屋敷の庭を駆け抜け、人が集まり出していた屋敷の門を飛び越え、パーガスの街路を振り向きもせずに駆けた。
エリュアーはその間俺の胸の下で無言だった。
俺とエリュアーはパーガスを脱出する事に成功した。王と近衛騎士たちは、事を荒立てずにエリュアーを逮捕出来ると考えていたらしく、パーガスの城門を封鎖してはいなかったのである。門番はエリュアーの姿を見ただけで、あっさり門を通してくれた。
後は夜闇に乗じて逃げた。その晩を走り通して俺とエリュアーはペラム王国の北の国境を越えた。
国境を越えれば追っ手の危険はほぼ無いだろう。俺はようやくホッとした。馬も疲れていたので道端で夜が明けるまで休憩した。夜が明けてから再び騎乗して、今度は馬をゆっくりを歩かせた。ここはアザラン公国という小さな国である。ペラム王国との関係は友好的だが協力的でないという微妙な関係であり、万が一ペラム王国からエリュアーの捕縛を依頼された場合の対応は微妙なところであった。出来ればペラム王国とあまり関係が良くない国に逃れたいところであった。
とりあえず、近くの村なり町なりに寄って旅装を調えねばなるまい。なにせ着の身着のままなのである。路銀は一応用意してあるので心配は無い。エリュアーの金だが。
そんな事を考えながら馬を歩かせる。この黒馬は「ロールト号」といって、エリュアー曰くアクナイアス公爵家随一の名馬だったそうである。単に闇にまぎれ易いと考えて黒い馬を選んだだけであったので幸運であった。
秋の日差しが麗らかであった。丘の上を通る、街道というほど整備されていない、踏み固められた道。左右の草原には秋の花がところどころに咲いている。どちらかといえば痩せた土地であるようで、背の高い木はあまり生えておらず、畑も見当たらない。歩いていける範囲には人里は無さそうであった。
のどかで、馬で遠乗りを楽しんでいるかのように錯覚してしまうほどだった。ロールト号は流石によく訓練されており、放っておいても道なりに進んでくれるので居眠りをしても大丈夫であるだろう。
…が、そんなのどかな気分を台無しにしてくれるものがあった。俺の胸の下にあった。
「えっぐ、えっぐ、ぐすん、ううう、復讐してやる、えっぐ、絶対に許さない、ぐすんぐすん、よくもあたしを、ううう、くそう、えっぐ、ぐぬぬ、ちくしょう、えっぐえっぐ、よくもあたしの屋敷を、うううう、復讐してやる、えっぐえっぐ、見てろよ、ぐすんぐすん、どうしてくれよう、えっぐえっぐ…」
と、嗚咽と呪詛の呟きを取り混ぜて、国境を越えたあたりからひたすら繰り返しつつ泣いているエリュアー・マクダーネン・アクナイアスであった。
なんというか、あの近衛騎士の前での凛とした威厳とは大違いの姿であった。顔をぐしょぐしょにして泣き喚いているこの姿の方が外見相応だとは言えたが。
それにしても半日に渡ってブツブツと涙声の呪いの言葉を聞かされるのは、これは中々の苦行と言えた。最初は同情も沸いたが、いい加減うんざりである。
「そろそろ泣き止んだらどうだ。アクナイアス公爵」
すると、エリュアーは機械仕掛けみたいな動きで顔を回して俺を見上げた。妙に無表情で、目が赤い。怖い。
俺と目が合って数秒。突如エリュアーの目から涙が溢れ出す。
「だって!だって!あいつら!ううう、この!このあたしを!」
そう叫んだかと思うとわっと泣き出して馬のたてがみに顔を伏せてしまう。だめだこりゃ。
一応エリュアーの頭を慰めるように撫でながら、俺はこれからの事を考えた。
エリュアーは今やペラム王国の謀反人で、近隣の友好国には捕縛の依頼が回るであろう。下手をすれば懸賞金を掛けられる。そうなれば賞金目当ての奴らも出るだろうから、どこにいても安心出来なくなってしまう。
それを避けるには国境を何度も越えるような遠い国に逃げて、そこで新しい生活をやり直すしかない。俺一人であればそうしても良いところなのだが…。
「絶対に復讐してやる!」
と叫ぶこの我が主君がいる限りそれは許されないだろう。
となれば、ペラム王国の依頼よりも、エリュアーの保護を選んでくれるような近隣の国を選ぶしかないのだが…。
「そんな国があるのか?」
俺は呟きながら手綱を引いて馬を止めてしまった。
ペラム王国はこの地方ではそれなりに大きな王国であり、ライバルであったジューク王国をイルアローンで打ち破って威勢を高めてもいる。今いるアザラン公国も含めてペラム王国に単独で敵対するのは避けたいと思う国がほとんどだろう。
ましてやエリュアーは今や尾羽打ち枯らした謀反人である。単に引き渡すだけでペラム王国の心証が良くなるのであれば安いものである。捕らえられれば各国は特に悩みもせずに彼女をペラム王国に引き渡すだろう。
そうならない可能性があるとすれば、エリュアー本人の価値。彼女の才気を知り、その才をペラム王国の心証よりも高く評価する場合だけであろう。
しかしながら、それは非常に望み薄であろう。エリュアー・アクナイアスの名前は、現在ではペラム王国外ではほんの薄っすらと知られているに過ぎない。イルアローンの戦いでようやく名声が知られ始めたかどうかというところなのである。そんな彼女を既にして高く評価している国があるとは思えない。
やはり近隣の国に留まるのはリスクが大き過ぎるか…。遠くの国へ逃げ、そこで準備を整えて捲土重来を期すべきなのだろうか。
そう俺が結論付けようとしていた時、
「…あるわ」
エリュアーがポツリと呟いた。いつの間にか泣き止んでいる。
「なにが?」
「逃げる先の国でしょう?王国が捕縛を依頼しても従わない国が近隣に一国だけあるわ」
思考を読まれたらしい。この明敏さ。この洞察力が、もう少し自分の置かれた立場に向けられていればこのような事態には至らなかっただろうに。
「どこに」
「アーナエラ公国」
地図を思い浮かべる。今いるアザラン公国と西に国境を接した国である。山岳地帯の麓に広がる国であり、人口はそれ程多くなかったはずである。
「根拠は?」
「私の姉が、公王に嫁いでいるの。嫁いだ後、公王は亡くなって、今は姉が摂政を務めている」
なるほど。それは好都合だった。姉であれば妹の危機を放っては置くまい。思わぬ良い情報に俺の顔はほころび掛けた。のだが。
「…でも、あの姉だから、安心は出来ないんだけど…」
どういうことなのか?そう思ってエリュアーを見る。背中から苦悶している様がありありと感じられた。どうも複雑な事情があるようである。
しかしながら、他に選択肢は無さそうであった。俺は他の可能性も一応は検討した後に言った。
「ではアーナエラ公国に向かうぞ。それでいいな」
エリュアーは頷き、それから俺を見上げた。
もう青く煌く瞳に涙は無い。あどけない顔立ちにかすかな微笑を浮かべながら、彼女は言った。
「よろしく、頼む」
俺は思わず自分でも笑顔を浮かべてしまい、その事に自分で苦笑しながらロールト号を促して、再び道を進み始めた。
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