最強の幼馴染
宮前葵
最強の幼馴染
ゴールデンウィークが明け、俺こと秋月 明がド田舎の高校、谷中高校に入学してから一月が経った訳である。
なんつーか、高校生になって最初に感じたのは受験生活からの開放感であり、長い春休みでだらけきったがゆえの倦怠感であり、最後にこんな山の中に埋もれるように建っている高校をうっかり選んでしまった事に対する後悔であった。だって、俺んちからこの学校までの間にはコンビニすらないんだよ。近いんだよ。自転車で5分。
これじゃぁ買い食いすら満足に出来ないじゃんか。まぁ、学校には購買があるし、学校の前には一軒だけ駄菓子屋があるけども。家に帰ってからわざわざ市内中心部まで更に自転車で10分も掛けて出かけるのはどう考えても馬鹿馬鹿しい。市内の谷中東高校にすべきだったぜ。あっちはレベルが低くて親が難色を示しただろうけど。
高校進学といえば問題になるのは、新たな環境における友人の作り方だということになるのだろうが、俺の場合はこれには悩まされなかった。狭い町だけに、同じ中学校からこの学校に来た連中はかなり多かったし、同じクラスにもそういう奴らがいた。だから普段付き合う連中には不自由はしなかった。
ただ、せっかく高校に入って他の中学から来た、目新しいクラスメートがたくさんいるんだから、そういう連中とも仲良くなりたいよな。と俺は考えた。ガキの頃からお互いに知り尽くした連中とばかりつるんでいても、人生に奥行きが生まれまいなどと大層なことを考えたわけではもちろん無く、ただなんとなくだ。
俺は積極的に他の学校から来た奴らにも声を掛けて回った。地元、つまり田舎の連中は人見知りな奴が多いから、俺みたいなのは珍しかっただろうな。おかげで一月もすればクラスのほぼ全員と顔見知りくらいにはなれた。中には趣味があって結構仲良くなれそうな奴もいた。そういう奴は昔からの仲間に紹介したりされたりして、友人の輪は順調に広がっていった。ゴールデンウィークにはそういう連中と県庁所在地まで遊びに出かけたりもした。
今のところトラブルは皆無。中間テストはまだ少し先。ゴールデンウィークに親睦を深めた連中と学校で再会して馬鹿話をするのも楽しい。
そんなわけで俺の高校生活は順風満帆。何の影も無いように、思われた。
…厄介事というのは油断している時に物陰から表れるものである。油断していたかと問われれば、その時俺は間違いなく油断していただろう。無理も無いと思って頂きたい。俺はごく善良な一般高校生であり、人生の経験値は年齢相応でしかなかった。運命というものがときに非常に意地悪く、明るいと見えた未来への道には往々にして落とし穴が穿たれているものなのだ、などという事をこの頃にはまだ知らなかったのである。
だから変なのに捕まった。
つーか、掴まれた。ガシッと。なんだよ。俺はその時、自分の席からかなり離れたところで仲間と談笑中であった。そこを後ろから掴まれたのである。
「おまえ」
そいつは俺の右腕の、手首のちょっと上をかなり強い力で掴んでいた。
「うるさい」
女だった。長い髪をお下げにして肩の左右後方に垂らしている。眼鏡の向こうから恨めしそうな視線が飛んできている。
…誰?ていうか、まだ一月ではクラス全員の名前と顔が完璧に一致しているとは言い難いけども。それにしても全然見覚えが無い。…気がする。
まぁ、それは兎も角、なんだ?
「まぁ、いい」
その女は寛大にも俺を許した。
「眠いから」
眠いからかい。
「ジュース買って来い」
…は?
「3分以内で」
なんだこいつ。俺は女の周りの生徒に視線を飛ばした。すると、そいつらはサッと視線を逸らす。俺はそれだけで「なんかちょっとまずいことになったのかも」と冷や汗が出てきた。
「早く」
女はイライラを隠そうともせず低い声で言った。
「こ、断ったら?」
俺は恐る恐る言った。
「呪う」
実に素敵な返事が返ってきた。ちょっと背中に嫌な汗がどっと流れるような口調で。
結局、俺は素直にジュースを購買前の自販機までに買いに出かけた。自分の金で。ちなみに、俺が走り出す直前に、
「ピーチ」
と指定があったのでピーチファンタを買った。そんで走って戻って女の机に缶を立てた。
「うむ」
女は鷹揚に頷きむっくりと起き上がった。ピーチファンタを確認すると
「よろしい」
満足そうに頷き、おもむろにプルトップを開け、くわっと缶を煽ると喉を鳴らして一気飲み。
「よし」
一度の息継ぎも無くピーチファンタを飲み干すと、
「下がってよし」
俺に缶を渡してまた机に突っ伏した。
思い出した。
どうも見覚えが無いと思ったらこの女、俺が傍を通る時に常にこの格好でいたんじゃねぇか。どう見ても寝ている体勢だから、一応全員に声を掛けて歩いていた俺も遠慮したのだ。
ちょっとどころかかなり立腹した俺だったが、怒りのままに空き缶を女に投げつけるのは自重した。周囲の視線的な意味で。
そして姑息な俺は手近な奴を捕まえて、更に姑息にも女の耳に声が届かないように廊下まで出てそいつに聞いたのだった。
「あれはなんだ」
「え?三上さんじゃん、知らないの」
…知らん。正確にはそんな名前の奴がクラス名簿にいたことは知っているが、あいつだとは知らなかった。
「有名だよ。良かったね」
なにがだ。俺は120円無条件で損したんだぞ。
「ジュースで済んで」
…そうかも知れん。あの調子なら平気な顔で「原チャリ買ってきて。金無かったら盗んで来い」くらいは言いそうだな。
「なんだ、あれはその、怖い奴なのか?不良?」
「もっと悪いかもよ。いわゆる、総番?」
「昭和か!」
「なんでも入学して3日で学校を〆たとか」
…いやぁ、マジでジュースで済んで良かった
「うちの学校だけじゃなくて市内の学校で三上さんを恐れない生徒はいないって」
俺が知らないうちにいつの間にかそんなことになってんのか!つーか、なんで俺は知らないの?なんでみんな知ってるの?
「兎に角、あんまり三上さんには関わらない方が良いみたいだよ」
…分かった。そうする。
そうしたかったなぁ。
放課後。呼び出された。というか連れて行かれた。体育館裏に。なんかぶっといズボンと短ラン着た先輩二人に。
え?
「いいから来い」
とか言われて。
体育館裏にはその、一杯いました。端的に言って不良っぽいのが。リーゼントや金髪やモヒカンやピンクの髪の人からパーマまで。全部校則違反ですよね。今時なが~いスカートの女の先輩もいらっしゃいました。その方々が俺を取り囲むようにしてガンを飛ばしていらっしゃいます。
あの、私、その、へタレでして。
そんなにガン付けられるとちびりそうになるんですが。
と、その怖い方々が突然直立不動になり、深々と頭を下げたではありませんか。
そうです、そのお方のご入場です。
黒い髪をちゃんと校則に従って二つのみつあみに。スカートの長さにも白いソックスにもおかしいところはございません。だるそうにぐだぐだと歩いてやってくると、当然のように用意された肘置き付きの椅子にどっかりと腰を下ろしました。
三上 華さん(下の名前は調べた)は興味無さそうに一同を見回すと
「くるしゅうない。面を上げよ」
と時代掛った言い方で申されました。みなさんようやくお顔を上げられましてそれでも表情に緊張を漲らせています。なんていうか、その、猛獣にでも対するかのように三上さんの方に顔を向けずにいます。
マジです。マジもんの総番ですよこの女。
三上は俺の事をジロジロ無遠慮に眺め、少し考え込むような顔付きをした。
それだけでその場に緊張が走る。
「あ、姐さん!こいつが何か無礼でも?」
「〆ますか!いっそ埋めますか!」
おい!
「うるさい黙れ」
三上のその言葉だけでシーンと静まり返る体育館裏。三上はなんというか、思い出したいのに思い出せないというようなもどかしそうな様子で視線を俺に向けていたが、ようやく言った。
「おまえ、家は?」
「へ?谷中ですが」
「谷中のどこ?」
「字前抜です」
三上は再び考え込んだ。それだけで周りを取り囲んでいる不良連中が慌て始める。
「貴様、もっと分かり易くお答えせんか!」
これ以上どうやって?ていうか、何の意図あっての質問なのか…。
「私も昔、たぶん前抜に住んでいた」
三上が口を開く。???何が言いたいんだ?
「小学校4年生の時に転校した」
…え?
「覚えていないか?」
俺が住む前抜地区の子供らが通う小学校は谷中西小学校。学年3クラス程の小さな小学校だ。田舎だから生徒の出入りもほとんど無い。だから生徒、特に同学年の連中は大体顔見知りで、どいつもこいつも幼馴染みたいなもんだ。
だから、小学校4年の時に転校した女生徒は良く覚えていた。
というか、忘れる筈も無かった。
何しろその娘は家の隣に住んでおり、赤ん坊の頃から仲良しであり、幼馴染中の幼馴染。キングオブ幼馴染だったのである。
そんな一番の仲良しがいきなり転校することになって、二人で嫌がってずいぶん泣き喚いたものである。別れ際も抱き合って涙ながらに再会を誓い合った。
そう。名前は確か丸山…
「ハナちゃん…」
俺がつぶやいた瞬間、空気が凍りついた。不良連中はガクブル状態となり青い顔しながら
「三上さん、どうします、やっぱり埋めますか?」
「大丈夫っす。きちんと分からせますから」
とか言い始めた。いやいや。
ただ、俺もそれどころではなかった。あまりの衝撃に脳の螺子が二三本飛んでしまって、三上から視線が外せなくなっていた。
三上は眉の根本にしわを刻みながら俺をジーっと見ていたが、やがてふっと表情を緩め、眼鏡を外し、俺に顔を見せた。
「久しぶり。アキちゃん」
その顔には確かに幼馴染の面影があった。
ということで、帰り道である。
あの後、三上は眼鏡を顔に戻すと、不良連中を見渡しながら
「彼には昔、多大な恩を受けた。よって彼は私も同然である。彼への無礼は私への無礼。心するように」
と言い渡した後、
「分かったか?」
とこの世の終わりから鳴り響くような声で付け加えた。
それを聞いただけで一同土下座ですよ。震えながら。全員が起き上がるのを待たずに三上は立ち上がり、俺の肩に触れて
「アキちゃん帰ろう」
と言った。
俺は自転車を押し、三上と並んで歩きながらも呆然としたままだった。
え?え?ハナちゃん?ハナちゃんて、あのハナちゃんだよな。
俺と昔遊んでいたその頃は泣き虫で甘えん坊で鈍くて馬鹿でいつも俺の後ろをくっついて歩いていた。自己主張も強くなく、ましてや人に無理難題を言う事など考えられないというようなおしとやかな女の子だったはず。どちらかといえばいじめられっこで、俺が何度と無く助けてやったものなのだ。
それが、え?不良のボス?総番?どういうことなの?ていうか、この人本当にハナちゃんなの?ちらちらと横目に見るその顔は、確かに見れば見るほど見覚えがあるように思えてくる。昔は眼鏡を掛けておらず髪も短かったから一見分からなかったが、その鼻の感じとか目つきは確かに昔見たそのままだった。
そうしてしばらく薄暗くなり始めた田んぼ道を歩いていると、唐突に溜息が聞こえた。
思わずそっちを見てしまう。もちろん溜息の主はお下げ眼鏡の不良のボスこと三上である。なんだかものすごくがっかりした顔で深々と溜息を吐いていた。
「残念だ」
そんなことを言った。
「あの男らしくて活発で格好良かったアキちゃんが、クラスメートの女の子にパシリに使われるまでに落ちぶれようとは。実に残念だ」
そんなことを言いやがった。
「お前が言うな!」
思わず突っ込んでいた。
「俺だってあの泣き虫で大人しかった幼馴染が戻ってきたと思えば不良を震え上がらせるような凶悪女に変貌しているとは思わなかったよ!」
「良かった」
三上は俺のことを見ながら薄っすらと微笑んだ。
「ちゃんと思い出したんだな」
「忘れてねぇよ。ハナちゃんの事は忘れたこと無い。ただ、結びつかなかっただけだ」
「まぁ、色々あったのでな」
三上は今度はククッと不気味に笑った。怖いわ。
「まぁ、私もアキちゃんの事が思い出せなかったのだから人の事は言えないが」
幼馴染がいの無い奴め。
「違うぞ。私とてアキちゃんを忘れた事など無い」
三上は真剣な顔で俺の事を見つめた。
「ただ、アキちゃんの苗字が分からなかっただけで」
馬鹿だ。相変わらずだ。
「そして顔もすっかり忘れてた」
酷くない?
「それでも声を聞いたらなんとなく思い出したのだ。凄いだろう」
はいはい。というか、近所に帰ってきたのなら挨拶に来いよな。
「それが、昔住んでいた場所がすっかり分からなくなっていてな」
なんでだ!こんな田舎、お前が引っ越した頃から何一つ変わってないじゃないか!お前が住んでた家も人手に渡ってはいるけどそのまま残ってるし。
「そうかな?」
記憶力の無い奴め。その辺はまったく変わっていないな。安心して良いのか微妙なところだが、俺は安心した。
「それで、今はどこに住んでるんだ?おばさんやおじさんは元気なのか?」
「ああ、両親は離婚した」
いきなりヘビーな事を言ったな。ああ、それで苗字が違うのか。
「私は母親に付いていったのだが、母親が再婚して、三上はその姓だ」
…ま、まぁ、そういうこともあるのか。
「それで私は今一人暮らしだ。親に追い出されてな」
…田舎の町で普通に両親と兄弟に囲まれて平穏無事に生きている俺には易々と返答出来ない程度にはヘビーな話だった。
「追い出されたと言っても対した事ではない。もちろん、生活費はもらっているぞ。ただ、どうせ一人暮らしをするならこの辺が良いと思って、谷中高校を受験したんだ。アキちゃんもいると思ったからな」
どうしてそう思ったのか。この辺には電車で行けるところを含めれば4つは高校の選択肢があるのだ。たまたま俺が家が近いという怠惰な理由で谷中高校を選択したから良いようなものの。
そこでふと思った。
「なぜ?俺が?」
「ん?」
「なんでそこで俺が出てくる?」
三上は虚を突かれたような顔をした。
「覚えていないのか?」
「何を」
「必ずまた会おうと約束しただろう」
「そりゃしたが」
「ならばそれが理由だ」
三上は生真面目な顔で言い切った。
一応は俺は三上を三上の家まで送ることにした。三上は町の中心部に近いところにアパートを借りていたので、俺は自分の家を通り過ぎて更に数キロ歩く羽目になった。
途中、俺の家に曲がる筈の交差点でその旨を言うと、三上が手を打った。
「おお、確かに見覚えがあるぞ」
毎日通っていて気がつかなかったのか?というか、毎日歩いているのか?合計で15kmくらいあるじゃないか。
「いや、いつもは子分にバイクで送迎させている」
こともなげに言いやがった。
俺の自転車には二人乗り用の座席もステップも無かったため、そこからも止むを得ず二人でテクテク歩いたのだが、三上は特に不満を漏らさなかった。
途中、軽い思い出話をした。きちんと話が噛み合い、俺はやはりこいつがあのハナちゃんである事の確信をようやく持った。
三上は子供の頃から能弁な方ではなかったが、高校生の今では更に無口で話は途切れがちだった。俺は本当は転校して以降の、つまりハナちゃんが三上に変貌した理由と過程が知りたかったのだがとても話がそこまで到達する雰囲気ではなかった。
さて、ようやく三上が住むアパート。なんの変哲も無い、二階建の小奇麗なアパートに到着。街外れの田んぼに隣接した立地であり、夏の夜はカエルの声がうるさそうだ。
駐車場に入ってぎょっとした。一階の一番奥の部屋が三上の部屋らしいのだが、その前に人が立っているのだ。黒い学生服を着た、まぁ、一目で「不良」と分かるような男性。一瞬待ち伏せか?と思ったのだが、逆だった。
「おかえりなさいませ!」
男は深々とお辞儀をしたのである。三上は鷹揚に手を振ってそれに応える。
「な、なんだ?」
「私の不在の間に襲撃されると困るからな。警備させている」
三上は事も無げに物騒なことを言った。ていうか、襲撃されるのかよ!どんな世界だよ!
「じゃぁ、また明日。お休みアキちゃん…」
三上はチラッとこちらを向き、ニヤッと歯を見せて笑ってみせた。なんとなく嫌な表情だった。真意を確認したかったが、三上は動きを止める事無く自分の部屋のドアを開け、中に入ってしまった。男はその間直立不動。
俺は男の胡散臭げな視線を背中に感じながら、その場所を後にした。
さて、次の日からはなんという事もなかった。
三上は、教室では俺に話し掛けて来なかった。というより、教室における三上の存在感はこれまでもそうだったが非常に希薄であり、よく観察してみると、授業はそれなりに真面目に受けているようだったが、休み時間は必ず机に突っ伏して寝ているんである。
クラスには友人どころか話をする者すら皆無。どうも悪名はクラスどころが学校全体に知れ渡っているようであり、誰もが彼女との関わりを持ちたがらなかった。せいぜいこの間の俺のような哀れな犠牲者が唐突にパシリに使われるくらいで。
クラスに何人かいるちょっと悪っぽいくらいの奴は、むしろ普通の生徒よりもあからさまに三上を恐れており、休み時間になると教室から退散するほどだった。
見て見ぬ振り。触らぬ神に祟り無し。要するに三上は家のクラスのタブーであった。
俺はといえば、三上の事を幼馴染だと認識はしたが、それ以上に不良のボスであるところの三上のイメージが強烈過ぎた。そのため、あれ以来こちらからも積極的に話し掛ける事には恐れを成してしまった。三上が俺にあれ以来無関心に見えるのを良い事に、俺も教室では三上の事を見て見ない振りをした。
が、完全に没交渉であるのかといえばそうでもなかった。三日に一度ほどのペースで帰り道で遭遇するのである。三上が歩いているところに俺が自転車で通り掛るという形で。
いつもはバイクで帰っているという三上が歩いているのであるから、俺を待っているのだと俺は判断していた。何で待っているのかは良く分からないが、俺が通り掛ると、例の含みのある笑顔で俺を見るのである。俺も自転車を降りて話し掛けない訳には行かなかった。身の安全的な意味で。
待っている割には用がある様でもなかった。基本無口な三上は振ってやらなければ話をせず、それも無表情にポツポツ話すだけ。特に楽しそうでもない。俺は仕方なく一応帰り道を延長して三上をアパートまで送り届け、チャリを急いで漕いで家に逆戻りする。
そういう、なんだか変な関係は二週間程続いた。三上の真意を測りかねた事は確かであったが、別に実害がある訳でもなかったので、俺は何となく、まぁいいかと思ってしまったのだ。あのなんだか恐るべき不良の親玉とは言え、たまには一般人と会話がしてみたいのかも知れず、友人もいないから幼馴染の俺くらいにしか話し掛けられないのかもしれない。などと平和なことを考えたのである。
良く考えれば、三上の元同級生は俺だけではなく、谷中西小学校出身者はみんなそうなのである。確かに家が隣で一番仲が良かったのは俺かもしれないが、それなりに当時仲が良かった女子生徒などがいた筈であったのだ。
三上がなぜ、そういう連中には目もくれず、俺とだけ付き合いを復活させたのか。その事をもう少し俺は考えるべきであった。
中間テストも終わり、制服は夏服になった。つまり半袖ワイシャツ。女子は白基調のセーラー服に。もっとも、季節はまだ梅雨前で、そんな格好では肌寒いこともあった。俺は基本的には学校生活を満喫していた。唯一の気掛かりというか、心に刺さった棘は三上の事であったが、この頃にはあんまり気にしなくもなっていた。帰り道に遭遇するだけでは関係を深めるまでには行かない。落ち着いて思い出話をする感じでもなく、今の三上の生活を聞くのもちょっと怖い。当たり障りの無い会話しか出来なければそれなりの関係にしかなれまい。
ただ、気になる質問を友人からされた事があった。
「アキラって、三上さんと付き合ってるの?」
「は?なんで?」
「いや、そういう噂だし」
「恐ろしい事言うなよ。ずっと昔に隣に住んでいて、全然知らない仲だって訳じゃないってくらいだよ」
俺はしかめ面をしながら言った。
「ならいいけど、三上さん、聞いた話では相当ヤバイらしいじゃん。近付かない方が良いよ」
「ああ、そうするよ」
友人の忠告に感謝しながら、俺は首を捻っていた。どこからそんな根も葉もない噂が出たものやら。
まぁ、俺は深く考えない性質だから、この時はどこかのゴシップ好きが無理やり作り上げた噂なんだろうくらいにしか考えなかった。
だが、よ~く考えれば分かりそうなものだったのである。
三上と再会してから、三上がいわゆる「不良」っぽい事をしている場面には中々遭遇しなかった。最初の日のあの体育館裏がそうだったが、三上が何で不良連中にあそこまで恐れられているのか、俺はいまいち分かっていなかったのである。
が、その日俺は三上の恐ろしさの片鱗を目撃する事になる。
俺は三上と田んぼ道を並んで歩いていた。もうかなり日は長くなっていたが梅雨に近い曇り空のせいで薄暗い。
相変わらず無言で歩く三上。俺も慣れてしまって色々話しかけるようなこともせず黙って歩いていた。何だろうなぁと思いながら。
その時、田んぼ脇のポンプ小屋から3人の人影が現れた。ぎょっとして良く見ると、見慣れない色の制服を着た男子生徒であった。
でか!っと俺は思わずつぶやいた。3人が3人とも180cmを超えているだろうと思われる大柄な男子だった。一人は金髪。後の二人はリーゼントっぽいオールバック。そして…、なんか木刀かバットを持っていた。3人とも。
明らかに友好的な態度ではない。大きな声で威嚇するでもなく、殺気をはらんだ視線で俺たちを睨んでいる。まぁ、主に三上の方を。
膝が震えた。いや、情けない事に。そんで、情けない事に現実から目をそむけてこんな事を言った。
「な、何の用でしょう」
そんな俺を見て嘲笑したのは三上だった。ふふんと笑って、俺の恐慌振りを観察している。そして、少し首を傾げ、それから男たちに向き直った。
男たちは三上を睨みつけつつ、互いに目配せした。殺気が膨張し、刹那、男たちは一斉に三上に襲い掛かった。もちろん、木刀やバットを振りかざして。そこに躊躇や逡巡は無い。マジで殺しに掛っていた。
俺は悲鳴を上げたかもしれない。しかし三上は涼しい顔を崩さず、突如奔った。
バキ!っと鈍い音がして三上の学校指定のローファーが正面の男の顔面に突き刺さった。三上は小柄である。大柄な男の顔面に足を届かせるためには跳躍する必要があった。彼女はそうした。ただしそれは跳躍というよりは発射と言うに相応しい速度と威力である。
あまりのスピードに男たちは完全に三上を見失っていた。もちろん飛び蹴りを喰らった男はその瞬間に意識を刈り取られている。しかし三上は男が崩れ落ちるまで待ってなどいない。
キックの反動で右の襲撃者に向かって身体を捻り空中で前転しつつ踵落しを放つ。その威力はガードしようとした金属バットを跳ね飛ばし、そのまま後頭部に踵が埋まる程だった。男はそのまま顔面をアスファルトに叩きつけられて動かなくなる。三上は振り下ろした足を倒れた男の背中に着地させると、そこを狙って振り下ろされた木刀を身を捻ってかわし、愕然とする男の側頭部に鋭い肘打ちを放った。
一瞬で気絶した最後の男が崩れ落ちるまで、僅かに5秒。ちなみに三上は手に持った学生鞄を落としてさえいない。そして俺は身動きすら出来なかった。
「あ、ああ、うう」
などと呻く事しか出来無い。
三上は俺の様子を見て、やや失望したような溜息を吐いた。
そして足元に転がるでかい男どもを見やると、やおら足を振り上げ、蹴った。
3人が3人とも見事に気絶していたため蹴られても声一つ上げた訳ではなかったが、見ている俺が痛いほどの強烈な蹴りだった。男の一人がゴロゴロ転がって、用水路に落ちた。
三上はそれだけではなく他の二人も容赦なく蹴り転がすと、次々と用水路に落っことした。おい!ちょっと待て!
俺は思わず駆け寄った。用水路の水位はせいぜい脛くらいであったが、落とされた男たちがうつぶせになっていれば窒息して死にかねまい。
が、俺は動きを止めた。というか止められた。
俺の左手をがっちり掴む手。もちろん三上の右手である。
「何をする気だ?アキちゃん」
「何って、あんな事したら死んじまうだろうが」
「いいんだ」
三上は笑った。口が三日月型に曲がる。が、目が笑っていなかった。
「そういう事も起こり得る。ここはそういう世界なんだ」
総毛立った。三上の後ろに底知れぬ闇がチラッと見えた。それは三上がそれまで辿ってきた道であり、住んでいる世界なのだろう。…知らない俺がおいそれと覗いていいものでは無さそうだった。
有無を言わさず俺の手を引いて歩き出す三上に逆らう事など不可能であったので、その男たちがその後どうなったのか、結局俺は知る事が出来なかった。
あんな恐ろしい目に遭遇すれば、友人の忠告通り三上とは距離を置くべきだと誰でも思うだろう。俺だってはっきり言って三上とは絶縁したかった。如何に懐かしい幼馴染であっても限度がある。
が、俺にはそれが出来なかった。なぜなら俺と三上が会うのはあくまで三上の都合であったからだ。三上が都合の良い日に、俺の帰り道で出会う。まさか三上の事を見ない振りで横を通り抜けることなど出来よう筈も無かった。
三上が俺を見上げてにやりと笑う。いやいや。こえぇべよ。洒落にならねぇべさ。そう考えたって、俺は俺の感情に関わり無く、自転車を降りて彼女と歩かなければならないのである。
事がここに至って俺はようやく気がついた。多分こいつ、なんかトンデモねぇ事をたくらんでやがるぞ、と。
この、どうやら辺り一帯の不良を〆ているらしい、大男三人を瞬殺するような凶暴女が、幼馴染と親睦を深め直したいとかいうような殊勝な事を考えているはずが無いんである。それなのに、なぜか帰り道で俺を待ち、俺を引き連れてこれ見よがしに家まで帰る。
そう。変な噂が立ったのも当たり前だ。三上が不良でない一般人の男と帰り道を仲良く共にする。見る人が見れば(例えば不良連中とか)これはスキャンダルである。どう考えても三上が男(俺)を気に入っていると見るだろう。
当事者である俺の見立てでは、三上が俺に対して好意とか、気に入っているとか、そういう生ぬるい感覚を持っていない事は間違いないのだ。帰り道、時折向けるその視線は冷酷で酷薄。肉屋に並んでいるぶつ切り肉の断面を観察するよりも無関心そうな態度。そして時折見せる、いや~な笑い。
どう考えても俺を待ち伏せる目的は「俺に会うこと」では無い様なのである。では、わざわざ人々にあらぬ誤解を振り撒いてまで俺を待ち伏せる目的は何なのか?
ひょっとして、その「あらぬ誤解を振り撒く」事自体が目的なのでは無いだろうか。
これはまずい。俺がそう気が付いた時には、事態はもう取り返しがつかないところまで進んでいたのである。
朝、学校までの遠からぬ道をグダグダとチャリンコを漕いでいた俺は、半ば寝ぼけていた。夜遅くまでゲームをやっていたからである。梅雨空からは今にも雨が降ってきそうだったが、軽い上り坂を無理やり加速するほど差し迫った感じでもない。
と、正面から黒いワゴン車が通り掛った。いわゆるVIP系。車高を下げて大きなエアロ付けてみたいな。それがゆっくりした速度でやってきて、止まった。俺の目の前で。
?と思った瞬間、ドアが開いて、
ばーっと男が5人くらい降りて来て、
どわ~っと殴り掛かられて、
訳が分からないうちに車の中に押し込まれて、
抵抗の余地も無く縛られ猿轡、目隠しをされ、
大混乱のうちに車が走り出す気配がした。
…俺は変な格好で車の奥に押し込まれながら理解した。
誘拐されたのだ、と。
降ろされたのは廃工場だった。見覚えがある。田んぼの真ん中にあるような工場で、つまりは周辺には人家も無く人通りも非常に少ない。大騒ぎをしても誰にも咎められない。以前から暴走族なんかが溜まり場にしているとの噂があったところである。
車から降ろされたところで目隠しや猿轡なんかは外された。手は後ろ手に縛られたままだったが。
もちろん、俺は抵抗しない。というか、出来ない。する気も無い。正直、超びびっていた。いやもう、歯の根が合わないくらい。
工場の中にはいました。いやもう、予想通り。不良の大集団。いや大軍団ですよ。一クラス分くらいの如何にもな方々が俺を睨んでいらっしゃる。
あははは。人生オワタ。
そんな俺を見て、中の一人が立ち上がって俺を見下ろした。でけ~。俺も175cmあるんだけど…。どうもこいつがボスらしい。
「おめぇが三上のオトコか?」
滅相も無い。と言いたかったけど声にならない。
「なんだ?へタレか?どういうわけであの化け物とこんなのがくっついたんだかな」
へタレは事実ですが、くっついてないっす。
「まぁ、良いわい。そっちに座らしとけや。椅子にでも縛っとけ」
いやいや、そんな丁重に扱って下さらなくても結構ですから、帰らしてください。とは言えず、俺は「あの、その」などとあわあわと口走った。
「おめぇには用はねぇ。用が済んだら帰らしてやる」
ボスさんはそんなお優しいことを言って下さったのですが、その言葉とは裏腹に物凄く怖い顔をしながら俺に向かってガンを飛ばしました。怖い怖い。
「まぁ、その前に、おめぇの彼女にはたっぷり落とし前を付けさせてもらうけどな」
…いや、彼女じゃないんです。
「おめぇは餌だ。大人しくしてろ」
…誰に対しての餌なんだろうか。俺は思ったけど口に出来なかった。
えらい長い時間、俺は待たされた。その間俺は椅子に座らされてひたすらにじっとしていた。声も出さなかった。周りの不良連中はざわざわと雑談していたが俺には声を掛けてこなかったしな。
こっそり聞き耳を立てていた範囲で分かった事は、やっぱり「彼氏」である俺を餌にして三上をおびき寄せ、俺を人質にして三上を抵抗させないようにして、一方的にボコる。そういう計画であるようだった。
卑怯卑劣な戦略ではあるが、まぁ、有効ではあるだろうな。…俺が本当に三上の彼氏であれば。
いやいや、俺は違うから。断じて三上の彼氏なんかでは無いから。問われれば俺はそう答えただろう。しかし、不良連中は誰も思い込みを訂正しようとしなかったので、その機会は一切無かった。
これはまずい事になった。
予想される結末は二つある。
一つは、三上が呼び出しを無視して来ないというパターンだ。
なにしろ三上には来なきゃいけない理由が存在しない。俺が三上の愛しの彼氏であれば、囚われの彼氏を救いにくるというのは十分に理由となるだろう。しかしながら俺はそんなものではない。そもそも、あの三上がそのような常識的で殊勝な心がけを持っているとも思えない。
そうなると、俺と不良どもはこの廃工場でいつまでも待ちぼうけを食わされる事になる。これはまずい。怒った不良どもに俺が腹いせにボコられる可能性がある。
しかしながら、俺は三上は多分来ると思っていた。俺の事を想ってではない。まったく別の理由によって。そこでもう一つの結末だ。
俺は三上が、わざと俺を「攫わせた」のだと考えていた。いや、ここにいる不良が実は三上の配下だったというようなどんでん返しではない。
三上がわざとここの連中に「あの男は三上の彼氏である」と誤認させたのだと思うのだ。
考えてみればおかしな話だった。三上ともあろうものが、ただ単に幼馴染であるという理由で俺を特別扱いし、公衆の面前で俺に好意があると言わんばかりに俺の帰り道を待ち伏せるなんて。
あれが、わざわざ周囲に向けて。特に三上に敵対していて、三上の弱点を探っている連中に向けてのアピールだとするなら全ての納得が行くのである。そう誤解した連中が何を考えるかなんて、三上ほどの女になれば容易に予想出来るだろう。なにしろ、自分の家を部下に護衛させていたほどだ。不良どもの卑劣な思考パターンなどとっくにお見通しなのである。その三上が、家には護衛を付けて、俺には護衛を付けさせなかった。
餌にされたのだ、と考えるのが自然だろう。
俺を餌にして不良連中をおびき出し、一網打尽にする。おそらくはそういう計画だろう。あの恐るべき強さならそこらの不良ならいくら束になっても敵うまい。その自信も三上にはあるのだろう。
もしそうなれば?人質になっている俺は?
あの三上が俺の身柄に気を使ってくれると思うのかい?
三上が来たのは夕方だった。あの女の事だから授業を最後まで受けていたのかもしれない。
廃工場の中がざわめき、殺気が溢れる。その中に平然と三上の小さい姿が現れた。
夏服の半袖白セーラー服に身を包み、お下げは二本。眼鏡。間違いなく三上 華だった。
彼女は廃工場に入ってくると一番奥に座らされている俺を真っ先に確認すると、ふぅっと息を吐いた。
「ちゃんといたな」
額面通りに受け取れば、俺の無事に安堵したというように取れる。が、俺はそう思わなかった。彼女はそう言いながら俺の事を例の笑顔で。そう、なんというかワクワクしているような、楽しみしているような、そんな視線で俺を見たのだった。
その瞬間俺は背筋が寒くなった。な、なんだ?もしかしてこの女、俺の予想を遥かに超えてぶっ飛んだ事を考えているんじゃあるまいな?
しかし、周囲の不良どもは彼女のそんな視線には一切気がついていないようだった。自分たちの作戦の成功を確信して興奮のざわめきを起こしている。
ボスの大男が満面の笑みを不気味に浮かべながら進み出た。三上とは50cmくらい身長差があるので、なんというか、幼女に襲い掛かろうとしている変態おやじに見えなくも無い。
「良く来たな。というか、彼氏を攫われては流石の魔女もお手上げだったという事か?」
魔女ときた。三上は大男にはまったく興味が無さそうに、俺を見ながら言った。
「どうするつもりだ?」
俺に問うたのか、それとも大男に言ったのか良く分からなかったが、大男は自分に言ったのだと解釈したようだった。
「まぁ、今までの落とし前だな。ボコボコにした後にまだ生きてれば…、まぁ、おめぇなんぞにそんな気分になるかどうかは分からんがね」
そこで初めて三上が大男を見た。それだけで大男と、それと周りの不良どもが大きく動揺した。こいつら三上の事恐れすぎだろう。ここまで恐れている相手にまだ喧嘩を売る根性を褒めてやるべきなのだろうか?
「わ、分かっていると思うが、少しでも反抗的な態度を見せたらあの野郎の命はねぇぞ!」
俺の周囲の不良どもが俺にでかいナイフを突きつけた。怖い怖い!
三上は再び俺に視線を向けた。舌なめずりするような、今にも笑い出しそうな、そういう視線。怖いよ!こっちも怖いよ。
「そういうことだ」
三上は明らかに俺に向けて言った。
「頼んだよ。アキちゃん」
大男が走った。でかい図体の割には素早い。そして三上の腹に向けて飛び蹴りを放った。
そして、三上が吹っ飛んだ。10mも飛ばされてコンクリートの地面に叩きつけられる。周囲の不良どもから大歓声が上がる。
俺は呆けた。三上が蹴られて吹っ飛んだ。物理法則からして当然の結果でありながら、俺は形容の仕方が無いほど驚愕した。
大男は間髪入れずに三上に飛び掛ると再び蹴り。三上は今度は工場の壁に叩きつけられる。壁の前で三上は力なく蹲った。
おおお!不良どもが歓喜の声を上げる。あの魔女が手出しも出来ずにやられ放題だ!ようし、やっちまえ!暴力的な喚声が起こり、木刀やらバットやらを持ち出した不良どもが三上を取り囲む。
おいおい、どうしたんだ三上?お前の計画は不良どもを一網打尽にすることだったんじゃないのか?それがなんでやられ放題になってるんだよ。
まさか、まさかとは思うが、俺の身を慮って本当に手出しが出来ないんじゃないだろうな?本当に俺を助けに来たっていうのか?
俺は身体が小刻みに震えるのを自覚した。
不良どもは三上を蹴り、凶器で殴った。小さな三上の身体が男たちに囲まれて左右に転がる。まったく反抗する様子も無い。それどころか、もう意識すらないのではないか。
「み、三上…」
俺の声に、三上は僅かに反応を見せた。口の端から血が流れている。顔は俯いてよく見えないが、一瞬白い歯が見えた。笑った?
そこで不良の一人が三上の顔を蹴った。彼女の顔から遂に眼鏡が吹っ飛んだ。
そこから俺の記憶は、しばらく無い。
ということで、ここからは後で聞いた話である。
不良どもがいよいよ本格的に三上を凶器でもって挽肉にしようとした、その瞬間だった。
「どかん」
とかそんな音を立てて何かが吹っ飛んだ。不良どもは思わずその方向を見てしまう。
そこには男が一人気絶していた。そいつは、俺が動けないように、いざという時は刺してしまえる様に待機していた奴だった。ということは?
視線を移動すると、そこには身長175cm程度の男が立っていた。椅子に縛り付けられていたはずの男。縛っていたロープは足元に落ちている。
その男。つまり俺は、悠然と立ち上がっていた。少し俯いて表情は分からないが三上の方を向いている。
「おい、何やってんだ!てめぇ!」
一番近くにいた不良が不用意に近付き、人質つまり俺を押さえつけようとした。
バガン!と爆発音がした。その不良は縦に吹っ飛んで工場の天井に叩きつけられ、落っこちた。べちゃん、と音がして動かなくなる。
ようするに俺のパンチで瞬殺された不良を見て、仲間の不良どもは戦慄した。なんというか、さっきまで声もなく震えていた人質だったはずのあの一般人が、突然別の何者かになってしまったように見えたのだ。
「こ、この野郎!」
例の大男が三上を踏みつけていた足を離して俺の方へ向き直った。俺はフラフラと三上のほうに進んでいたので、俺と正面から向き合う形になる。
「この女のオトコが軟弱野郎な筈が無いと思ってたぜ、猫被ってやがったな!」
大男はステップを踏み、
「喰らえ!」
フェイントを入れてから俺に右ストレートパンチを放った。後から聞けばこの大男はボクシング部だったそうな。それは確かに本職に相応しいスピードと勢いであった。
があぁぁぁ!
俺は咆哮した。らしい。
同時に凄まじい勢いで大男に襲い掛かり大男のパンチに被せてクロスカウンターを放った。
メキメキとかボキベキとかそういう嫌な音がして俺の右こぶしが大男の顔面に突き刺さり、勢い余ってそのまま大男の後頭部をコンクリートの床に叩きつける。
大男はそのままワンバウンド、ツーバウンドして、動かなくなった。
俺はふらっと立ち上がり、驚愕に固まる不良たちの方を向いた。目が赤く光っていた。らしい。
明らかに正気でも常識的でも無い俺の様子に悲鳴が上がった。言うまでもなくむくつけき不良どもの間からだ。
その時、
「うふふふ」
と不気味な笑い声が聞こえた。
耳を疑う不良たち。そして、その不良たちの背後で何か小さなものがむっくりと起き上がった。
再度悲鳴が上がる。十分に痛めつけられて倒れていたはずの三上が笑みを浮かべながら立ち上がったのである。不良どもは前方に俺(暴走中)後ろに三上と挟まれた形になったのである。
しかし、三上の眼中に不良たちなど存在しなかった。三上は無造作に進み出ると、俺に向かって両手を広げた。
「やっと会えたわね。『真アキちゃん』!」
「な、なんだそれは?」
どうも三上は自分たちを相手にしていないのだと分かったのだろう。不良の一人がおっかなびっくり三上に尋ねた。髪も解け、眼鏡も吹っ飛んでいてしていない三上は一見三上に見えなかったという事情もあるだろう。
「昔、一緒のところに住んでいた頃から、私がピンチになると現れるのよ」
うっとりとした顔で答える三上。口調もいつもと違う女言葉だ。
「な、二重人格なのか?」
「さぁ、本人はいつも覚えていないみたいだけど。私がいじめられたり、危険な目に合ったりすると現れて私を助けてくれる、私のヒーロー。会いたかった」
その言葉を聞いて、その不良はあることに気がついた。ちょっと頭が回る奴だったのだろう。
「ま、まさか、てめぇ…」
「そうよ」
三上は満面の笑みを浮かべた。
「『真アキちゃん』は私がピンチにならないと現れない。しかもそこにはアキちゃんがいなければいけない。これでも結構考えたのよ」
つまり、三上の目的はこれだったのだ。
俺の目の前でピンチに陥る事によって俺の覚醒を促す。そのために不良どもに俺を彼氏だと誤解させるというような回りくどい手段までとって、俺を誘拐させたのだ。
しかし…。
「だ、だが、それでどうしようというんだ?」
三上ならわざわざ俺を覚醒させなくてもここにいる不良どもくらい倒せるのだ。それなのにわざわざ俺を覚醒する理由は何なのか?
「決まっているじゃない!」
三上は顔を赤らめながら今日一番の笑顔を浮かべた。
「『真アキちゃん』を倒すためよ!」
「は~?」
不良どもの表情が呆れるあまり真っ白になった。
「『真アキちゃん』こそ私が倒せなかった唯一の男。何度戦っても勝てなかったのよ。でも、いろんなところで喧嘩の修行を積んだ今なら、きっと彼に勝てる。だから会いたかったのよ!」
一切理解出来ない三上の発言を聞きながら、それでも不良は言った。
「ど、どうやって戦うんだ?あいつはお前を助けるためにああなったんじゃないのか?」
「心配ないわ。『真アキちゃん』は一度覚醒すれば周りに動くものが無くなるまで戦い続けるもの。敵味方関係なくね!」
「狂戦士じゃねぇか!」
その瞬間、俺が動いた。一気に駆けると手近な不良を跳ね飛ばす。
その隙を狙って三上が神速の動きで俺の懐に飛び込み、胸に向かって掌底を繰り出した。
「が!」
しかし俺はそれよりも一瞬早く三上の側頭部に肘打ちを叩き込んでいた。三上は吹き飛んで工場の壁に叩きつけられる。石膏ボードが割れて濛々と土煙が舞い上がった。
「流石ね『真アキちゃん』それでこそ私の憧れの人!」
三上は手を伸ばし、工場の壁に使われている鉄骨を掴むと、メリメリと音を立てて引っこ抜いた。
「私も本気を出さなければならないようね!」
鉄骨を引きちぎるのが彼女の本気だとすればこれまではずいぶんと御しとやかに振舞っていたのだという事になるな。5mほどの鉄骨を構えた三上はそれを振るって俺に向かって一気に打ち込んできた。そこにはもちろん躊躇や容赦は無い。
しかし俺は叩きつけられる鉄骨を正面から受け止め、組みとめた。流石の三上も驚愕する。俺はそのまま反対に鉄骨を振るって反対側の三上を振り飛ばした。
「うきゃぁ!」
かわいい悲鳴を上げて三上はまた壁にたたきつけられる。
「っつ!やるわね!」
三上は再び鉄骨を引きちぎり、俺に向き直った。その表情はキラキラと輝き、恍惚の表情といっても良いレベルであった。やっている事は怪獣並みだが。
「せえぇ!」
裂帛の気合を込めて打ち込まれる鉄骨を俺も鉄骨を振るって跳ね除ける。鉄骨同士が打ち合わされる轟音。火花。もちろん三上も俺も互いのポジションを優位すべく動き回っている。当たり構わず振り回される鉄骨。壁や天井は吹き飛び、遂には工場自体もかしいできた。
巻き込まれた不良どもこそ災難である。
「怪獣だぁ!こいつら人間じゃねぇ!」
「逃げろ…!ぎゃぁ!」
「助けて、助けてくれー!」
俺と三上の戦いは夜半まで続いた。らしい。
俺が目を覚ましたのは朝だった。
どこだここは?そう思ったのは顔に日差しが当たっていたからである。
う、なんか体中が痛いな。記憶が無いんだが、確か…。
と、ここで気がついた。
寄り添うように。というか実際寄り添って、三上が寝ていた。髪は振り乱れ、眼鏡はしておらず、というか制服はそこらじゅう破け、あまつさえなんだか血まみれであり、更に言えば見える範囲でも痣や切り傷擦り傷が多数見える。ずいぶん痛々しい姿である。
が、なんだかえらく幸せそうな表情で俺の肩に擦り寄っている。…不気味だ。いったい何が起きたというのだろう。
俺は一応は三上を起こさないように気を使いながら身体を起こした。気がつけば、俺の姿も相当なものだった。そもそも上半身裸だし。裸足だし。傷だらけだし。痛いわけだよ。いったい何やったらこんな体中に痣が出来るんだよ。
と、周囲を見渡すと、そこは例の廃工場の前で、
工場は倒壊して大変な事になっていた。…何が起こったんだ?なんか、怪獣でも暴れたような状況なんだが。
不良どもは一人もいなかった。
俺は立ち上がることも出来ずに呆然としていた。三上が寝言を一つ、呟いた。
「アキちゃん…」
まぁ、その後は大した事は無かった。
その後すぐに三上の部下が車で迎えに来て、俺と三上はそれで家まで帰った。俺は親にばれない様に速攻でシャワーを浴びて着替えた。それでも痣や傷は隠しようが無かったが。親はそんな俺を見てたいそう驚いたが、気になる事を言った。
「昔はよくそんな怪我して帰ってくる事もあったけどね」
…そうなのか?
学校に行けば三上もきちんと来ていた。いつもと違う眼鏡をして、顔中に絆創膏を貼っていたが、もちろんクラスメートの誰もそんなことを指摘しようとはしなかった。
体中が痛くて参ったが、何とか一日を乗り切って、俺は自転車漕いで帰途についた。
予想はしていた。三上がいる事は。う…、まぁ、おそらくは昨日は三上に助けられたのだろうし、無視するわけにもいくまい。良く覚えていないけど。
自転車を降りて近付くと、三上はこっちを向いて笑みを見せた。例の笑顔であった。そして例によって酷薄な視線で俺を観察し、言った。
「身体に変調は無いか?アキちゃん」
「痛い」
「その程度なら問題は無い」
ふふふ、と三上は笑った。この笑い方は含みの無い、本当に楽しそうな笑いだった。
一応、聞いてみる事にした。
「その、あの連中はどうなった?」
「あの連中?」
「工場にいた連中だ」
「ああ、始末した。手下が」
始末とは何を意味するのか…。
「あいつらはこの県で最後の私に楯突く連中だったのだが、アキちゃんのおかげで殲滅できた」
「俺は何もやっていないんだが」
「…本当に覚えていないのか?」
三上は僅かに不満そうな顔を見せた。俺は動揺した。その表情が俺の事を責めているようにも見えたからだ。
「あんなに楽しかったのに」
楽しい?いったい何が起こったというのか?
「まぁ、良い。今回も勝てなかったし、またのお楽しみという事にしておく」
「何の事だ?」
「内緒だよ」
三上はまた例の、どう見ても何か企んでいるとしか思えない、笑みを浮かべた。
後日談として、この時以来俺は、強面の不良どもが俺の顔見ると真っ青になって逃げ出すという不思議な現象に見舞われるようになったのだが。
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