乗り換え

伊月樹

乗り換え

「日本人にとってのコメは、ヨーロッパ人にとってのパンのようなものである。」

 僕の向かいに座って英語の文法書を見つめていた彼女が、ぽつりとつぶやいた。僕の頭に、Rice for Japanese is what is bread for European. という例文が反射的に浮かぶ。ちなみにこの場合の彼女とは、sheではなくgirlfriendのほうである。現在二月のはじめ、期末テストが二月の半ばくらいにあるため、今日は僕の家で一緒に勉強していたのだ。

 日ごろから一緒にいても勉強していることが多い僕たちは、クラスメイトからよくいじられた。女子からは、あんたたちまじめだね、たまには遊んだりすればいいのに、など。男子からは、付き合っててもっとすることないのかよ、家で一緒にいるのによく勉強なんてしてられるな、などなど。また大変整った顔立ちながらも飾り気のない彼女は、女友達から、化粧したり髪型変えてみたりすればいいのに、せっかく美人なんだからもっと磨きなよ、なんて言われたりもするらしい。

「また、私にとっての勉強は、彼女たちにとってのお化粧のようなものである。」

 そう言って彼女は、文法書を見ながら、ふう、と一息つく。

「皆はさ、お化粧とか、髪をきれいにアレンジするとか、そういうことで自信をつけるんだよね、たぶん。それもきっと好きでやるんだろうし。」

 そう表情を変えずに言う彼女の頬には、長いまつ毛の影が落ちている。

「それが私の場合は勉強なんだよね。勉強は好きだし、知識が増えれば自分に自信がつくから。それで」

 言いかけてから、彼女は顔を上げ僕の目をじっと見る。何事か、と思っていると、

「それで、淳とも一緒にいられるなら、別に何の問題もないと思うんだけど。」

 そう言ってまた視線を戻す。そんな彼女を見つめつつ、もし彼女が女磨きに目覚めてしまったら、僕はこうして気軽に家に誘うこともできなくなってしまうな、とそんなことを思う。

 僕たちが初めて出会ったのは、高校一年生になった春、学校の最寄り駅でのことだった。

 入学式の次の日だった。午前だけの授業が終わり、周りのクラスメイトが皆部活見学へと急ぐ中、僕は一人駅へと急いだ。入学した高校は北海道のド田舎にあったから、当然駅もド田舎にあるわけで、その電車に乗らなければ次の電車は一時間半後だった。その日は大好きなアニメの最終回が放送される日で、僕はぜひリアルタイムで見たかったのだ。アニメが放送されるのは一時間後だったため、もし後の電車に乗ったとしたら、うっかりスマートフォンを開いたときに、最終回の内容についてのニュースが目に入ってしまうかもしれない。また万が一、最終回を見た人が電車に乗っていたとしたら、ラストがああだったよね、なんて話しているのを聞いてしまうかもしれない。そんな事態は何としても避けたかった。

 学校から駅までの所要時間がまだつかめていなかったため、とりあえず急いで歩いた。持ってきた弁当も食べずに学校を出てきたうえ、道沿いの店から生姜焼きの香りが漂ってきたので、僕のお腹は割とピンチだった。こんな状況でも空腹を感じられる僕は、意外と神経が太いのかもしれない、そんなことを思いながら急ぎ足で定食屋の前を通り過ぎた。

 息を切らせて駅に着いたとき、時刻は発車十五分前だった。構内に入ると、外気との温度差でメガネが曇った。北海道の四月は寒いため、暖房が入っているのはありがたい。ちなみに構内といっても簡単な東屋、つまり休憩室のようなもので、学校の教室くらいの広さにベンチがいくつかあるだけの空間だった。もちろん無人駅である。

 そんな中、僕は隅のベンチに座っている人を見つけた。駅にはほかに誰もいなかった。その人は背筋を伸ばし、上を向いて手に持った何かを顔の前に掲げていた。ちょうど望遠鏡を覗くような恰好だったけど、向いている先には換気口しかなかったため、よっぽど特殊な趣味を持っている人でない限り、望遠鏡でないことは確かだった。

 メガネの曇りが晴れていくにつれて、その人が女性であること、自分と同じ学校の制服を着ていること、しかも同じ色のネクタイだから自分と同い年であること、そして手に持っているのは望遠鏡ではなくホットおしるこの缶であることなどが分かった。彼女は真剣な面持ちで逆さにした缶の中を覗いていた。缶底に残る小豆を出そうと底をたたく彼女は、まっすぐな長い髪の毛を後ろで束ねていた。顔は小さく、大きな切れ長の目が特徴的で、鼻は程よく高くすっと通っており、美人、という言葉がしっくりきた。そんな彼女が、人目もはばからず、もっとも駅には僕しかいないけれど、缶の小豆と格闘している姿はどこかカッコよく、僕は気づけば見つめてしまっていた。

 しばらくぼーっと見ていると、視線に気づいたのか彼女がこちらを見た。そこでさりげなく目を逸らせばよかったものを、その時僕は何を思ったか、目が合ってしまったことへの弁解を試みたのだった。

 いや、違うんだ。ただ、その、おしるこって最後、小豆が底に残るだろう、それが僕いつもうまく食べれなくて。そしたらたまたまおしるこを飲んでいるのを見かけたから、その、最後はどう食べればうまく食べきれるのかって。何かヒントが見つかればと思って見ていただけで。ぼくはその、決して怪しいものではないんだよ、ほんとに。

 決して怪しいものではないなんてセリフがよく咄嗟に出たもんだと我ながら感心しながら、落ち着かない気分で視線を泳がせていると、

「あいにくだけど」

 彼女は僕と缶を見比べてから、心底残念そうに溜め息をついた。

「私もまだ、研究中なんだよね。」

 彼女は目を細めてもう一度缶を覗き、あと一粒のところまで来たんだけど、と呟いた。

「九十九点までは誰でもとれるけど、百点をとるのは難しい。」

「え」

「小豆も最後の一粒まではいけても、その一粒を食べるのは難しいのかもしれない。」

 そう言って彼女が悲しそうな顔をするので、僕は思わず言っていた。

「いや、そんなことはない。僕はそもそも、九十九点取るのが簡単で百点取るのが難しいっていう論理にも納得していないんだ。だって九十八点と九十九点の差だって一点なのに、九十九点と百点だけを特別扱いするなんておかしいと思う。追加の一点をとる難しさなんて、元々が何点だろうと同じだと思うんだよ。」

 彼女はしばらく黙って考えてから、

「たしかに。」

とうなずいた。つまり、と呟いて手元の缶に視線を落とす。

「元々が二粒のところから一粒に減らせたなら、一粒からゼロにするのも同じ。」

 そう独りごちて、うん、たしかに、と納得していた。それから彼女は再び缶を掲げて、片目をつぶって底をたたき、ふちにハマったら出てこないんだよな、もうちょっと手前に来てくれればいいんだけど、などと呟いていた。

 しばらく試行錯誤を続ける彼女を見つめていると、彼女は突然我に返ったようにハッとした顔をして、

「電車」

と言うなり立ち上がった。僕は一瞬固まってから、慌てて時計を見た。時計はちょうど電車の発車時刻を差している。

「走れば間に合うかも。」

僕たちは急いで駆け出したが、ホームへの階段に足をかけたとたん、彼女が立ち止まった。どうしたのかと振り返ると、

「おしるこの缶。」

 そう言って彼女はベンチのほうへ走っていった。今思えば僕は先に行くこともできたのだが、その時はなぜかそんなことは思いつかなかった。

 そして彼女が缶を片手に戻ってきたのを確認し、振り返って再び駆け出したとき、二両編成の電車が動き出すのが見えた。まずい、そう思って僕たちはダッシュしたけど、ホームについたとき電車はすでに米粒、いや豆粒くらいの大きさになって見えた。

 僕たちは、しばらく電車を見送りながら乱れた息を整えた。落ち着いたころ、彼女はおもむろに

「なんか、歴史で百点取ろうと頑張りすぎて数学を全く勉強しなかったのに、結果歴史は九十九点で数学はボロボロだった。そんな気分。」

と言って手元の缶を見つめた。

「やっぱり最後の一点取るには、何かを犠牲にしなきゃいけなかったんだね。」

 缶の中を覗いて複雑そうにそう呟く彼女が、僕の見逃したアニメのヒロインに少し似ているような気がしたのは、僕がそう思いたかっただけなのかもしれない。

「まあ、結局取れてないけどね、最後の一点。」

 僕は彼女の手元を指さしてそう言ってから、戻ろうか、と声をかけ、降りてきたばかりの階段を一緒に昇って行った。

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