第13話:「こっちなんだ?」
「……ちゃん、……ちゃん」
その声は、水底で聞く水上の音に似ていた。遠く、くぐもり、自分を呼んでいる事だけが辛うじて理解出来る「音」に、しかしながら――京香は意識を向けていなかった。
「おーい、京香ちゃん!」
「っ、は、はい!」
叩き起こされた子供のように、京香は周囲をキョロキョロと見回した。
日時、九月一日の一七時二五分。場所、靖江天狗堂――ここまで理解するのに一〇秒近く掛かった為、狐に抓まれた心地の京香は、眼前で訝しむトセに目礼した。
「あっ、どうも……って、違う違う! 京香ちゃんの番だよ」
「ごめんなさい、そうでしたね……じゃあ《松に鶴》で。起き札は……あぁ、これですか」
「うん? 本当にそれで良かったの?」
勝負、だね――トセは手札から《松のカス》を一月の光札に叩き付け、《雨四光》を完成させた。が……。
「あら、負けてしまいましたね」
「……うぅん」
トセの表情は曇っていた。手元の光札と京香の手札を交互に見やり、またしても「うぅん」と唸って――。
「具合でも悪いのかな?」
京香らしからぬ、余りに不味い打ち筋を心配した。
「いえ? 夏バテもしていませんよ?」
当然ながら、京香は嘘など吐いていない。本当に身体の調子は良かったし、全く「悪手」を打ったつもりは無かった。
「あんまり言いにくいけどさ……」
酷く言いにくそうに、トセ小さな声で糾弾した。
「手加減、しちゃった?」
俄に否定する京香。闘技において、例えば相手によって力を抜いたり、或いは入れたりした事は無かった。彼女の否定に、しかしながらトセは口を尖らせ、そう思ってしまった理由を述べていく。
「普段の京香ちゃんなら、私が《雨四光》の完成を狙っている事ぐらい看破出来ると思ってね。《桜に幕》は京香ちゃんが持っているでしょ? 《松に鶴》が手に入ったら即座に一四文……それに、他三枚はまだ露出していない――」
トセは眉をひそめながら……京香の目を見つめた。
「無粋な事は駄目だよ、京香ちゃん」
トセの指摘通りだった。
京香の手札には危険な《松に鶴》を捨てざるを得ない状況には程遠く、《藤のカス》や《柳に短冊》といった、大事故を起こしにくい札も揃っていた。現在、《代打ち》として名を馳せる龍一郎に匹敵する彼女にとって、また彼女をよく知る者からすれば……。
五手目の《松に鶴》打ちは、あってはならない失態であった。
「まぁ、京香ちゃんはそんな事しないと思うけど……だから、身体の調子とか、問題とかが――」
ありませんっ。
温厚な京香には似合わない、強い語調だった。トセも急速な変容に驚いたのか、ビクリと肩を震わせた。
「特に……ありませんから。ちょっと間違っただけです。余り責めないで下さい……」
トセはすぐにかぶりを振って、「ご、ごめんね」と詰まりながらも謝罪した。
「言い過ぎたよ、ごめん。……でも、本当に京香ちゃんっぽくない打ち筋だったから……心配で……」
「大丈夫です、心配しなくて良いですから。私だって間違いますし、意図しない考えが頭に過ったりします。それなのに、一重さんは……」
その時、京香は体温が急激に下がったような感覚を覚えた。
「…………ごめん」
怯えたようなトセの表情を認め……止められなかった口の軽さを呪った。
「本当にごめんね……今日、そろそろ帰るね」
鞄を手に取り、慌てて立ち上がったトセは振り返る事も無く、急いた様子で店外へ出て行った。呼び止めようとした京香は、無意味に空間へ右手を伸ばすだけだった。
残ったものは――寂しげに残された《八八花》だけだった。京香は強い緊張と後悔の念に胸を痛めながら、覚束無い手付きで札を集め始めた。
何をしているんだろう、私は。
考え、しかし何も分からなかった。
事実――トセと《こいこい》に興じている時、密かな「苛立ち」を京香は覚えていた。
花ヶ岡における禁じ手を行使し、何か良からぬ事を企む鶉野摘祢。
あらゆる禁制品を売り歩き、奇跡的な賀留多文化を破壊しようとする矧名涼。
本来なら……関わる事の無かった「悪人」達に、果たして京香は浅からぬ仲となっている。鶉野達に自ら近付いたのは結果として自分であったが――。
元を糺せば、全て「トセに起きた問題を解消してやりたい」、その一点から来るものだった。
なのに、なのにどうして一重さんは――平気な振りをしているの!?
身勝手な怒りは次第に膨れ上がり……積乱雲の如き巨大さと威圧感を以て、京香の打ち筋や言動に悪しき影響を与えたのである。
札を片付け、飲み掛けのコーヒー牛乳を捨て、店奥で仕事をしていた叔母に挨拶をすると――京香はそのまま帰路に就いた。
『仙花祭、入場券の事前販売は当校ホームページにて!』と書かれたポスターの前を通り、バス停に向かう道中……。
ふらりと、憎いはずの鶉野が現れるのを、彼女はしかし待っていた。
現状起きている諸事を一切解決するには、どうしても彼女の力が必要だった。
信号を待つ間……曲がり角に差し掛かる頃……バスを待つ時……全ての動作に鶉野が付け込むのを赦した彼女は、果たして何事も無く、バスに乗ってしまった。
俯きながら一人用の座席に座り、目的地までの一五分を唯……黙想して過ごす事に決めた京香。垂れ下がった前髪を気にする事無く、リボンに折り目が付くのも気にせず――。
京香は今、世界と自分とを隔絶しようとしていた。
そして……その隔絶すらも許さぬ者が、彼女のすぐ後ろにいた。
不意にトントン、と肩を叩かれた京香。同じ方角を目指し、かつ自分を知る者は「兄」だ――思い込み、縋るような声で振り向いた。
「お兄ちゃんっ…………?」
ブブーッ、違いまぁーす。
子供じみた声で微笑む、兄では無い者が言った。
「お姉ちゃんでぇーす。羽関さん、家、こっちなんだぁ?」
綿雲のような髪を揺らし、至極嬉しそうに自身の隣を叩くのは――。
「ここ、座って座ってぇ? 一緒にかーえろっ」
花ヶ岡を乱す女、《造花屋》こと矧名涼であった……。
「遠慮しないでっ。ささ、おいでおいでぇ」
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