怨闘篇

序章

辛くないのですか?

 八月二七日、日本晴れとなった日の夕刻の事。


 いつもなら寄り道を好む花ヶ岡高生で賑わう靖江天狗堂だが、この日は水を打ったような静寂に包まれている。「仙花祭準備期間の為、臨時休業致します」と書かれた紙が貼られていた。


 九月の中旬――今年は一四日から一七日に掛けて――に開催される学校祭、通称「仙花祭せんかさい」は、在校生は勿論の事、地域住民も一般開放日を待ち望む大々的なイベントである。


 常日頃から賀留多を卸している靖江天狗堂にとって、仙花祭はまさに「年に一度の稼ぎ時」であった。として周知されている事もあり、一般客は物珍しさと記念品代わりに賀留多を次々と買い求める。


 結果……たった数日で一ヶ月の平均売上の近くを叩き出す為、靖江天狗堂はまさに猫の手も借りたい状況となるのだ。


 そしてこの日、静かな店内で黙々と作業を続ける二人の少女がいた。一人は店主の親戚である羽関京香、もう一人は……助力を買って出た一重トセだった。


「京香ちゃん、《八八花》の赤、箱詰め終わったよ」


 言いながらトセはガムテープを勢い良く伸ばし、素早く段ボールの梱包を終えた。やや離れた位置で作業していた京香も顔を上げ、「此方も黒、終わりました」と汗ばみながら微笑んだ。


「ようやく四箱……ちょっと休憩しましょうか」


 そうだねぇ――トセは手で顔を扇ぎながら頷いた。




 仙花祭では様々な賀留多が飛ぶように売れていくが、その内五割が《八八花》であった。《八八花》はコンビニエンスストアでも購入出来るポピュラーな賀留多であるが、普段から賀留多に慣れ親しんでいない者にとって、「そう言えば売っていたなぁ」ぐらいの認識であろう。


 多少の興味は持っていても、やはりトランプなどと違って技法書も少なく(花ヶ岡購買部を除く)、各札に「一月、松に鶴」と書かれていない事もあって、食指が動きにくい娯楽品には違い無い。


 但し――ここに花ヶ岡の賀留多文化を影から支える《金花会》が絡めば、事態は大きくする。ここに所属する《目付役》達が臨時の「初心者講習会」を開き、賀留多の普及活動を行うのだ。


 普段は一切の忌手イカサマを見逃さぬよう、限界まで警戒態勢を敷く彼女達も……この日だけは、「賀留多のお姉さん」として気を張らず、子供達に「この鳥は鶴、この鳥は雁って言うんだよ」と、柔和な態度で接する。


 講習会会場の横では、購買部が「二号店」を構え、大量の賀留多を揃えて呼び込みを行う。参加者は「折角憶えたんだから……」と、目付役から受け取った「賀留多割引券」を片手に店内へ向かい、一つ二つと賀留多を購入するのだった。


 中には他校の男子生徒が目付役の一人に惚れ込み、勧められるがままに五種類も賀留多を購入した(目付役も悪乗りをしたのだろう。少年は訳も分からず《虫花》すら買った。自宅で嘆いたに違い無い)……という、男の悲しい性が露呈する例もあり、何はともあれ賀留多文化の普及に一役買っているのが、《金花会》と購買部であった。


 そして――花ヶ岡のアイデンティティーを盤石なものとしたのが、花ヶ岡高校と長年の付き合いがある靖江天狗堂……という事である。




「はぁー、やっぱり麦茶は美味しいねぇ」


 ブラウスだけとなったトセは、チラリと店の隅に積まれた段ボールを見やった。


「どんだけ売れるのかな?」


 トセのコップに麦茶を注ぎ入れながら、京香は「どうでしょうねぇ」と楽しそうに呟く。


「在庫切れ、となるのが一番不味いので、例年見込まれる需要よりも少し多めに作っている……とは、叔父さんの言葉ですけど」


 それより――京香は申し訳無さそうに肩を落とした。


「一重さんにここまで手伝わせてしまって……ごめんなさい……」


「何を言っているのさ! 私達、友達じゃん? それに……こんな良い物を貰えるなら、幾らだって手伝うし」


 ニコニコとトセは木箱を持ち上げ、顔の横で微動させた。古めかしい木箱の表面には、《道才かるた》と金字で書かれていた。


「いやぁ、早く打ってみたいなぁこれ。あっ、そうだ――」


 何でしょう、と京香が小首を傾げる。


「今度さ、達を呼んで打ってみようよ!」


 俄に――京香は眉をひそめた。


 トセの発した「リュウ君」という言葉に、彼女は動揺を隠せずにいた。


「どうしたの? お腹痛い?」


「いえ……えっと」


 その事を問うて良いものか……京香は思い悩んでいた。一方のトセは「あぁ、そういう事?」と手を打ち、笑った。


「もう気にしていないから! 、って訳!」




 近江龍一郎さんって、とても素敵な方だなぁ。


 かつて京香は龍一郎と座布団を囲み、「賀留多文化の撤廃」を賭けて戦った事があった。闘技を進めるにつれて、対面する少年の秘められた魅力が次々と発見された。


 妹思いの兄とは違った別種の男らしさ、不思議と感じられる儚さに……純粋に憧れた時期が彼女にはあった。


 それは恋人にしたい、という感情よりは「芸能人に憧れる」といったものに近しい。加えて、京香は「トセと龍一郎は惹かれ合っている事」を悟っていた。二人の恋路が輝かしい結末を迎える事を心から望んでいた京香は――。


 龍一郎のが、どうしても信じられなかった。


 互いに、明確に「付き合いましょう」と契約を交わした訳では無い。それは充分に知っていたし、だから龍一郎が他の女と恋に落ちても、彼を責める事は出来ないのだ――京香は理解していた。


 それでも、京香は龍一郎に一言でも……文句を言ってやりたいと憤っていた。以前、溜め込んだ怒りをそれとなく兄に打ち明けてみた彼女は、酷く兄に叱られてしまった。


「お前が立ち入る事じゃない。近江だって悩んでいたんだ、それこそ毎日毎日、《代打ち》をしながら精神をすり減らして。それに、近江は一重さんと付き合っていた訳では無いだろう。……誰もアイツを責める資格なんて無い。お前が文句を言うって事は――近江龍一郎という男が出した決断を、無作法に踏み躙るって事だ。京香、お前はそれを望んでいるのか?」


 フルフルとかぶりを振って……京香は涙ぐみながら部屋に閉じ籠もってしまった。


 兄ならば、多少は味方をしてくれると踏んだ自分の浅はかさに、理解と納得のせめぎ合う心の痛みに――京香は枕を濡らした。


 更に彼女を悩ませたのは、トセが、全く「事件」前と変わらぬ態度を取っているという事実だった。


 私だったら、しばらくの間は落ち込んでしまうのに……京香はトセの笑顔を見つめる度に、「性格の多様性」を学んだ。


 例えばそれは、一重トセという人間が実に事を。


 例えばそれは、近江龍一郎という人間が、実にであるという事を。




「……ごめんなさい、一重さん。私、どうしても赦せないんです」


「へっ? 何が?」


 一文字に結んだ口を……京香は微かに震わせた。


「近江さんの事……です」


 何かリュウ君にされたの? 的外れなトセの質問に、京香は語気を強めて否定した。


「違います。……私、もっと近江さんは情の深い、優しい男性だと思っていました。正直、私も憧れた事もあります。でも……余りにも、余りにもが早過ぎます」


「お、落ち着いて京香ちゃん……」


「落ち着けませんよ……一重さん、貴女はのですか? 私ですら……泣きそうな程に辛いのに。大切な友人がに遭っているのです。せめて、せめて一言でも……近江さんは貴女に謝罪するべきです!」


 数瞬置き、京香は消え入りそうな声で「すいません」と謝罪し、顔を赤らめて俯いてしまった。


 それから二人の間に沈黙が訪れる。遠くで烏が鳴き、大型トラックの走り抜ける振動が伝わった。トセは京香の注いでくれた麦茶を啜り、「ありがとう」と礼を言った。


「私ね、京香ちゃんと友達になれて……本当に良かったなって思う」


 京香は顔を上げない。兄の警告を学べていない未熟さを恥じるように。しかしながら、トセは恥じ入る彼女を微笑みで語り掛けた。


「友達、って言ってもさ、結局は他人事だから……同情はしてくれるけど、京香ちゃんぐらい、真剣に悲しんでくれる人はいない。正直言って、今でも私は時々、リュウ君と『もしかしたら』って……思う事が無い、訳じゃないんだよ。京香ちゃんの言う通り、『他の人と付き合って悪かった』って、謝って欲しいと思った事もある」


 でもね、何かそれは違うなって思ったの――トセは続けた。


「仮に謝られたとして、『じゃあ良いよ』って納得出来るくらいに、私の気持ちは軽くないの。考えて、考えて……は楽しかった思い出として、憶えておくぐらいが丁度良いんだって、私は結論した――って感じ!」


 椅子から立ち上がったトセは、落ち込む京香の肩を叩いて笑い掛けた。


「だから気にしない気にしない! は常に前を向く元気な子だからね! さぁ京香ちゃん! 仙花祭は刻一刻と近付いているのだよ!」


 五秒後……京香はホンノリ赤い目を擦り、何処か憑き物が落ちたような表情で頷いた。


 残り二箱。仙花祭に向けた、《八八花》段ボールの梱包ノルマである――。

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