第17話:私の一番穢いところ

「――列車は一〇分後ね。すっかりあの店に長居してしまったわぁ。ええと、何だっけ?」


「《こんてい屋》、でしょう」


「そうそう、こんてい屋こんてい屋……漢字で書けば『金の泥』、というところかしらねぇ」


「中は初心者の方向けに場が立っているのに、屋号はしっかりと《賀留多》らしい名前……二面性が素晴らしいですね」


「えぇ……全くそうねぇ」


「どうしました、しーちゃん。何だか疲れているよう」


「ううん、疲れてはいないのよぉ。唯、ねぇ……」


「……そういう事でしたか」


「そりゃあ私だって人間よぉ、可愛がっている後輩がに向かえばと思うけどぉ……」


「人間だから、また別の考えも生まれてしまう、と」


「そう、そうなのよぉ本当に。だって、見たでしょう? あんなにお似合いな様子だと……『あの子は放って置くの』って言えないわよぉ……」


「私としては、てっきり二股を掛けているのかと思いました。『こういう関係もあるのだなぁ』と」


「いや、それは有り得ないでしょう……駄目よそんなの、赦されないわぁ」


「映画や小説でありますよね、『私の方を向かせてやる』と意気込む例が」


「…………そんなガッツがある人は特例よぉ。仮に貴女がその状況に陥ったらどうするの?」


「まぁ、当分は枕を濡らす日々でしょうね。しーちゃんは?」


「排除するだけかしらぁ」


「あら、大胆ですね」


「当然の事よぉ。……話は戻るけど、今後……彼はどうするのかしらねぇ」


「そういった関係になるのも、という様子でしたし」


「やぶさかどころか……何て言うのかしらぁ、癒されているーって感じじゃない?」


「あぁ、この前話していた問題ですね」


「そうなのよぉ。しかもあの姐さんが――あぁ、列車来たわねぇ」


「この後お暇でしたら、私の家に来られます? 良いセイロンティーが今朝届いたのですが」


「セイロン……あぁ! 先週ネットで注文したやつ? 本みたいな箱に入っているっていう」


「そうですそうです。どうでしょう? たまには徹夜で《いすり》を打つのも良いですよ?」


「えっ、『今日は泊まらないわ』ってお母様に言ったんだけど……?」


「大丈夫です。眠らなければそれは宿泊ではありません、唯……一晩中遊んだだけですから」




 高層ビルが立ち並ぶ中心街を見下ろせる展望台――通称「鶴見展望台」――へは、駅前から三〇分に一本のペースで走っているバスを利用するのが早い。


「デートの終着駅」と渾名されるその展望台は、太陽が山々の向こうに沈み始めてからようやく本領を発揮する。天気の良い日には種々のネオンが煌めき、昼間は目を凝らさなければ見えない海すらが、橙色の街灯に縁取られてその輪郭を現す。


 海沿いを蛇行するボンヤリとした光は、見る角度によってはハートの形に見えると旅行雑誌はこぞって書き立て、いつしか「ハートを同時に発見したカップルは末永く幸福となる」という噂が一人歩きを始めた。


 薄暮の展望台から――幸運のハートではなく、天上を見上げている二人がいた。つい一〇分前に到着した梨子と龍一郎であった。吹き下ろす山風は暑がりの梨子を心地良くさせた。


「あれかな」


 夏の大三角形、その中心を指差す梨子。


「かもしれませんね」


 細い指先を見つめ、首を傾げる龍一郎。


 やがて二人は……予定したように濃鼠色の空から目線を下ろし、「二人で歩いた」街を眺めた。




 駅前からあっちに歩いて、多分あの辺で宇宙展を見て、それからケーキバイキングの会場はこっちに行って……。




 梨子と龍一郎は「こっちだったかな」「あそこを曲がったはずです」と、正解も分からない行程を話し合った。


 あれは《こんてい屋》かな――梨子が左腕を伸ばした時、軽く龍一郎の右手に指先が触れた。やんわりと閉じられた彼の手の中に、梨子の指が飛び込む形となり……。


「ご、ごめんなさい……」


 慌てて梨子は左手を引っ込めた。指の背に感じた想い人の温もりは、高地にある展望台の気温よりも高く、しかし尊さがあった。


 顔が赤らんでいないかを気にする梨子に、龍一郎は静かに言った。


「左山さん」


 街中で幾度も聴いたはずの「左山さん」が、何処か緊張しているような……胸に支える粘っこさが感じられた。


「な、何?」


 後方でシャトルバスが走り出した。何人かが梨子達の横を過ぎ、「今日は遠くまで見えるね」と嬉しげに話し合っていた。


「今日の事なんですけど……」


「今日……あぁ……本当にありがとう、これで友達に技法を教える事が出来るから……助かりました」


「そうじゃないんです」


 急いたような声色で龍一郎はかぶりを振った。


「あの……凄く、酷い事を言います」


 眼前に輝く光、その内の一つを見据え――龍一郎は言った。


「これ以上、俺と会わないでくれませんか」


 どうして? と聞き返しもせず……梨子は黙したまま、彼の言葉に耳を傾けていた。


「楽しくないとか、そういう事じゃないんです。むしろ……その、左山さんといると、ドンドン分からなくなるというか……」


 数秒の間を置き、梨子は「それだけじゃ分からないな」と呟いた。


「……私もね、一応、女です。いきなり異性から『会いたくない』と言われたら、理由が知りたくなります」


「……嫌いだから、とか……楽しくないとか、そういうのじゃないんです」


 何かを言いあぐねているような素振りで、龍一郎は気まずそうに咳払いした。


 夜風の匂いを嗅いだ梨子は、肺に一杯の野山の薫りを送り込んだ。


の事。そうでしょう」


 龍一郎は暗い声で「はい」と呟いた。


「一重さんは、きっと近江君の持っていない何かを与えてくれる、とっても頼れる人だと思います。貴方を《代打ち》に誘ったのも、《金花会》の存在を教えたのも、そして……誰かを想うという経験も」


 龍一郎は頷きもせず、相槌の一つも返さなかった。


「彼女の事が嫌いになったの?」


「……いえ、そうじゃないんです」


「今でも好きなの?」


 泣き出しそうな顔で――少年は喉から絞り出すように嘆いた。


「好きでした、俺はの事が確かに好きだったんです。でも……凄く疲れて……前は一緒にいるだけで楽しかったのに、今じゃ自分達のせいで周囲の人に迷惑を掛けていないか、おトセは機嫌を悪くしていないかって……付き合おうと思いました、夏休み前に告白しようと思っていました! なのに――俺は、恋愛事に!」


 打算? 梨子が囁くように返した。


「そうです、打算です。『今後おトセと付き合ったら、気軽に宇良川さんや目代さんと仲良く出来ない』『今後おトセと付き合ったら、友人付き合いが悪くなるかもしれない』『今後おトセと付き合ったら……』そんな事ばかり考えている内に、決行日を迎えて……結局、何も言わずに帰りました」


縋るような声色で……龍一郎は梨子に問うた。


「教えて下さい、左山さん。恋愛って、打算が働くものなんですか? 恋愛って……もっと楽しく、嬉しいものじゃないんですか?」


 俄に――梨子はかぶりを振った。


「違う。恋愛、誰かを好きになるって事は――損得を優先出来ないし、楽しくなんか無い。自分には無理だ、あの人と私なんか……って思っていても、止められない。何かの本で読んだの。『恋愛程、不愉快で不条理なものは無い』って。……本当にそうだなって、思ったの」


 左山さんも……龍一郎は怯えるように尋ねた。


「左山さんも、があったんですか」


 木々が揺れ動いた。時折吹き付ける冷涼な風が、黒々とした葉を波打たせた。




 もう駄目だ。もう我慢出来ない。もう私は、私自身を欺し切れない。


 、一線を引かれる覚悟は出来ている。充分に私は幸福を味わった。「こういう感じなんだ」と疑似体験も楽しんだ。


 叶うなら――このまま曖昧に終わりたい。来るか分からない機を待ち続けて、「あの時言っておけば」と後悔したい。その方が楽だ、痛くない。それに……ほろ苦い思い出として取って置ける。


 それでも、私は止められない。


 たった一日なのに。たった数時間しか彼と話し合えなかったのに。そう、貴方のせいでもある。ある意味、貴方が憎くて仕方無い。


 軽い、馬鹿な女と笑われろ。愚かな左山梨子め、夢見がちなお人好しの上級生、横恋慕を企む泥棒猫と嗤われろ。


 えぇ、構わない。


 どうせ嘲笑されるなら――。


 近江君。愛して止まない近江龍一郎君。


 私の、を見て下さい。




 コクリと生唾を飲み込み、目を閉じ、破れそうな心音に胸と耳を痛め……首から提げたガーネットを握り締める。


 左山梨子は、隣で心配そうに見つめて来る龍一郎の方に向き直り、ハッキリと言い放った。




「近江君。さっき酷い事を言ったよね」


「はい」


「お返しに、私は最低な事を言うね。一度しか言わないよ」


「はい――」


「ずっと、ずっとね、一重さんが近江君に振られれば良いって思っていたんだ。ここまで言えば分かるよね。でもね、もう我慢出来ないの。これ以上、指を咥えているのは嫌。ねぇ、近江君――」




 私に浮気してくれないかな。

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