左山梨子、暮れなずむ

第1話:お七櫓

 夏期休業期間を丁度一週間過ぎた辺りで、梨子は課題の九割を終了させていた。元来が「やらなくてはいけない何かを残しておく」事が出来ない性格であった。


 結果として七日間――急を要する理由を除き、外出も殆どせずに課題へ取り組んでいたのである。


「……暑いなぁ」


 大きめのTシャツの襟を掴み、パタパタと胸元から風を取り込む梨子。ショートパンツを履いていた為に、椅子の生地模様が太股にクッキリと映ってしまった。


 温度計を見やる、室温は二八度を超えようとしていた。残った一割の課題に着手しようとする梨子だったが、うだるような暑さにペンを持つ事も億劫となり、果たして窓際のベッドに腰を下ろした。


 底が抜けたような青空、そこを滑るように飛ぶ小鳥が三羽、南の方へ飛んで行った。吊してある風鈴は鳴らない、どうやら無風らしかった。


 ボンヤリと……両足を交互に動かす梨子は、去年は感じられなかったを覚えていた。


 部活動に入っておけば良かったな――暇を持て余す梨子は思った。


 運動は不得意、かといって文化系に強い興味がある訳でも無い彼女は、遅刻しないよう登校し、授業を受けて昼飯を食べ、終業の鐘が鳴れば帰る……所謂「帰宅部」であった。


 だが「花ヶ岡帰宅部」に属する生徒は、大抵が校外で習い事を嗜んでいたり、学習塾で将来を見据える者が多い。梨子のように「やる事は無いけど、とりあえず帰る」といった生徒は少数派であった。


 時代は移れど花ヶ岡――古くより花ヶ岡を知る人間は、皆がそう賞賛した。


 薄らと汗の滲む額を拭い、梨子は本棚に置かれた《八八花》を見やった。


 賀留多部、なんてのがあればなぁ……。


 その内に梨子はベッドに横たわり、微かに吹き込んで来た薫風を喜んだ。今度は風鈴がチリチリと鳴った。


 事実、花ヶ岡高校には賀留多を専門に行う部活動は、公式には存在しない(姫天狗友の会は生徒会に届け出をしておらず、その為に同好会未満の扱いである)。これは至極自然な事であり、賀留多を打つのは「誰でも出来る」からだ。


 高校生の九割以上が、自由自在にスマートフォンを扱えるように……改めて部活動の形を以てして、賀留多を打つ必要は無かった。


 気軽に打ちたい者は昼休みや放課後に打てば良いし、真剣勝負にのめり込みたければ、金曜日を待って《金花会》に赴けば良い。


 これらの当たり前が……梨子にとっては難問として立ちはだかる。「今日、遊ばない?」と気楽に誘えるクラスメイトは、《無尽講》の件を境にいなくなった。更に引っ込み思案な性格も災いし――。


 サワサワと揺れる木の葉を、窓からボンヤリ眺めるだけの生活が続いていた。なお、金花会は休業日以外に開かれる。賀留多を打つ事において……彼女は八方塞がりであった。


 梨子は寝返りを打ち、朧気な頭で「アレ、しようかな」と思った。


 アレとは、最近になって頻繁に行うようになったものを指す。


 すぐに梨子は立ち上がり、《八八花》を用意し、本棚の中で一番分厚い書籍――『花ヶ岡賀留多技法網羅集』を取り出した。


「……えーっと、確かやり方が……」


 ペラペラとページを捲るその指は、薄らと湿り気を帯びている。高い室温と湿気によるものではなく、胸奥から込み上げて来る緊張の為だった。


 果たして……梨子は目当てのページを開き、開いたまま横に置くと、八八花を手早く切り混ぜた。


 伝統ある花ヶ岡、そこに古くより伝わる――《お七櫓》を行う為である。

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