七ひきのオオカミと子ヤギ

伊月樹

七ひきのオオカミと子ヤギ

「さいごのいーっこ」

 そう言って彼女は、皿に残っていた鶏の唐揚げを得意げに箸でつまみ上げた。その歌うようなイントネーションは、僕にある遊びを思い起こさせた。鬼が振り返っているときに動いてしまったが最後、のだるまさんが転んだである。

「はじめのいーっぽ」

 そう言って始まるこのゲームが、僕はあまり好きではなかった。何より、鬼がわっと振り返るのが嫌だった。基本的に憶病な僕は、大きな音や不意な出来事が発生すると、決まってびくっとなる。風船が割れてはびくっとなる。後ろから話しかけられてはびくっとなる。打ち上げ花火が上がってはびくっとなる。そして、誰かがわっと振り返ってもびくっとなるのである。つまり、鬼の面前で微動だにしてはいけない例の遊びにおいて、僕に勝ち目はない。大抵の人は、自分に勝ち目のない遊びを好きにはならない。僕の場合も例外ではなく、苦手な遊びであるだるまさんが転んだを好きにはならない、というわけだ。

 そして当然のごとく動いてしまう僕は、決まっていつも鬼になるのだが、鬼になったらなったで、いつ後ろから触れられるかわからない緊張感に耐えなければならない。加えて僕は、触れられれば例のごとくびくっとする。それに、「はじめのいーっぽ」の言葉とともに、皆が揃いも揃って、自分という標的に向かって歩を進めたときの絶望感ったらない。まるで「オオカミと七ひきの子ヤギ」の中で、オオカミに追い詰められていく子ヤギたちのようだ、と幼い僕は思った。しかも自分の場合はオオカミ七人子ヤギが一人だからもっとたちが悪いではないか、と。

 そう考えると、「さいごのいーっこ」と「はじめのいーっぽ」には、語感以外に、絶望を感じさせるという意味でも共通点がある、と思った。三か月ほど前から同棲を始めた彼女と向かい合って食卓に着き、僕は、大皿のそれが最後の一つになってから、手を伸ばすタイミングを虎視眈々と見計らっていた。しばらくすると、彼女が手元のサラダに意識を集中させ始めたため、今だっ、と思い平静を装って箸を伸ばしそして見事唐揚げをゲット、する予定だったのである。しかし、僕が腕を上げかけた瞬間、彼女は唐突にサラダの器から顔をぱっと上げて、唐揚げの皿に手を伸ばした。彼女の動作は不意な出来事だったため、僕は驚き、びくっとした。そのすきに彼女は、楽し気な声を響かせながら唐揚げをゲットしたわけである。僕は絶望的な気持ちで、持ち上げかけた腕を、できるだけ彼女に悟られないように、素知らぬ顔でサラダの大皿に進路変更した。

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