第9話 説得力の終焉


 もちろん、積年の恨みがこんな事で消える訳ではない。しかし改めて冷静に考えてみると、いざ離婚届を叩き付けた所で即さようならなんてできるはずがなかった。それをやった所でおそらくあの男はサインなどしないだろう、そうなると私一人の署名で役所に届ける事になるがそんな事をすれば第一にどういうことだと騒がれ、そして裁判に持ち込むなり何なりして全力で私との離婚を阻止しにかかるはずだ。今さらこの男に対する恨み辛みが世間様に知れ渡ろうが知った事ではないが、長引けば長引くだけ金銭的負担も出て来るだろうし、何しろ勝てると言う保証はない。我ながら今さらその事に気が付いた間抜けさに呆れたくなったが、いずれにせよ、まず私の怒りが本物である事を伝え理解させなければいけない。

「駅前のデパートじゃダメなのか?」

 私とこの男は巨大な繁華街に来た。あそこではまだ人が足りない。四六時中数千人単位の一般人が集うスクランブル交差点の様な場所でなければインパクトが足りない。このある意味衆人環視の場で私がいかにこの男を嫌っているかと言う事を見せ付けてこそ、この男も諦めが付くと言う物だ。

 それにしても人、人、人、人。最寄り駅前のデパートがまるでさびれているかのような錯覚すら覚えて来るような人込み。そしてこの中に見知った人間はまずいない。文字通り不特定多数の人間が集うこの場ほど、処刑を行うに当たってふさわしい場所はない。

 いよいよとばかり手を振り上げようとすると、周りが急に騒がしくなって来た。そしてすぐ側にいた男性が手元のスマートフォンとこっちの顔を交互に見始め、そして間違いないと人を指差して叫んだ。人を指差すんじゃないと言い返そうとしたその瞬間、こちらを指してくる指の数が一本ではない事に気が付いた。

「間違いない、この人だ!」

 何が間違いないんですかと言おうとするや目の前の男性は右上に人差し指を向けた。それに釣られて真後ろを向くと、家のテレビの数倍はありそうな巨大モニターにとんでもない物が映っていた。

「あれはお前のっ……!それであれは……」

 一人の男性と一人の女性。女性は私の母親で、男性は私の会社員時代の同僚だ。この男と別れた暁には再婚相手の筆頭候補としてあげようとしていた人間がなぜ私の母親と一緒にいるのだ。しかも、母親の首筋に包丁を突き付けながら。

「おいそこのカメラ、もう一度よく聞け!今から一時間以内にこいつの娘と亭主を探してテレビに映させろ!さもないとこの婆さんの命はないぞ!いいか、もう時間稼ぎなんぞさせないからな!きっかり一時間だ!」

 どうなっているのか、全く訳が分からない。隣のこの男は私たちです早くテレビカメラを呼んでくださいと泡を喰って叫んでいるが、私は何が何だか訳がわからなくて叫ぶ事すらできない。

 二十分後、テレビカメラが来た。このスクランブル交差点の中でたった二人を映すが為だけに数台のテレビカメラが集まった。全く仕事とはいえ大変だなと思わざるを得ない。こんなつまらない男なんか映して、局だけではなく私からもお金を払いたいぐらいだ。そのつまらない男はと言うとそれで何をすればいいんだと叫んでいる、私は冷め切った心を持ちながら顔だけは真っ赤に紅潮させていた。

「そうだな泥棒猫、お前の嫁に百発ほどぶん殴られるってのはどうだ?しかもあんたなんか大嫌いと百回連続で言われながらだ。それをやればこの婆さんの命は助けてやらないでもない、ただしやらなかったらこの婆さんを彼岸へ送ってやる事だけは確実だからな」

「わかった、さあやれ!」

 あんたなんか大嫌い、あんたなんか大嫌い、私はそう叫びながらこの男の頬を叩いた。

「いぢ、にぃ、ざん、しぃ、ごぉ、ろぐ、なな…………」

 やっている内に冷めていた感情が高揚し、涙が溢れ出て来た。私はこの時をずっと待っていた、ある意味で悲願達成の時だったのに、私の心に満足の二文字はない。この男は全く健気に打たれた数を数えている。私が積年の恨みを晴らしている事など全く考えもせず、ただただ私の母を救うが為だけにこの男は打たれている。

「ハハハハ、そうだ、もっとやれ、まだ半分だっ……」

「奥さん、もうよろしいです!奥さん!!」

 数えてなどいないが、どうやら五十三回目の時に警官隊が突入、母親の安全と犯人の身柄を確保したらしい。




「横恋慕の果ての卑劣極まる犯行」

「スクランブル交差点に響く悲嘆の叫び声」

「これこそ世紀の茶番劇犯罪」

 ……………………まあいろんな見出しが出て来る物だ。しかしその内一つとして、私の心の内を正確に表した物はない。全てのメディアが、妻が母親を救うべく愛する夫を仕方がなく殴打したと言う内容でこの事件を取り上げている。

(答え方がまずかったのはわかってる、わかってるんだけど…!)

 次々にやってきたマスコミに対し、私は毎回毎回何でこんな事にとしか答えられなかった。あんな事が起きた後にそんな返答をすれば、ああいう取り方をしない方がむしろおかしい。たまに違う方向の取り方がない訳ではないが、それとて結婚して十年経っている事を知りながらなお諦めず蛮行に及んだあの男の歪んだ執念を滔々と書いているか、さもなくば易々と侵入を許した都会のセキュリティの死角について書いているかで私が本心でこの男を引っぱたいていると取ったマスコミは一つとしてない。

「さぞ痛いんでしょうね……綺麗なお手をあの様な事に……」

「心中深くお察しいたします…………どうかお気を落とされず」

 何が心中深くお察ししますだ、察しているのならばそんな泣き顔のお面と目薬製の涙なんぞ見せないでもらいたい。その社交辞令を絵に描いたような泣き顔のせいで、私の心は崖っぷちから突き落とされて真っ逆さまに転落している最中に更に重石を括り付けられたような状態だ。

 公共の場で見知らぬ数千人の人間の面前で、いやテレビ越しの数千万人の人間が見ている前で私はあの男に向かって大嫌いと叫びながら滅多打ちにした。だがその結果、私があの男を本当に嫌っていると考えた人間が一人でも出るようであったらそれは奇跡と呼ぶべき物だろう。


「ストーカー染みた偏執者によって母親を人質に取られ、その母親の命を救うべく泣き叫びながら愛する夫の頬を殴り付けた哀れな妻」


 私の立ち位置はどこからどう見てもこれしかなかった。日本中、いや下手すれば世界中から同情と哀れみを買う愛妻。そんな存在が夫、いやそう呼びたくないが他に呼び方が思い付かない人間に向かって大嫌いとか言った所で、また誰かに親を人質に取られてそんな事を言わされているのかと思われても全く言い返せない。要するに、もう誰も私の言う嫌いだと言う言葉を信用しなくなってしまったのだ。

「おじさんたちがうるさくてつかれちゃったよ」

 娘が生気のない表情で帰って来た。どうやらあの男の会社だけでなく娘の幼稚園にまで取材が行っていたらしい。私が勤めていた会社ならばまだともかく、どこまでマスコミと言う連中は貪欲なのだろうか。他に取り上げる事件はないのかと、もっともっと重大な事象があると言うのに!全くこの熱が冷めるのは一体いつになるんだろうか。この熱が収まらない限り私に離婚と言う選択肢は回って来ないだろう。

(まだそんな事考えてるの?)

(本当に往生際の悪い人)

(って言うかそれやって何かいい事あるの?)

(私だったら絶対にしないわよ)

(この人自殺願望でもあるんじゃないか)

 そんな声が脳内でオーケストラを奏でている。そしてそれがへたくそな雑音ならばまだ聞き流せるが、実際には最高の指揮者と演奏者と楽器によって奏でられたどんな音楽ホールでも聞けそうにない物だから本当嫌になって来る。

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