第8話 離婚届の消失
離婚を決意してから八ヶ月、いろいろ手を変え品を変えやってきたつもりだった。だが全ての行為が無価値に終わった。いや違う、無価値と言うのはプラスマイナスゼロの事であり、実際にはマイナスの方向にばかり進んだ。傍目から見ればプラスか僅かなマイナスにしかならない事象の全てが、私には大きなマイナスになって襲いかかって来た。
これまでに私が受けたダメージは果てしなく大きい。最初は手にするつもりであった娘の親権も財産も今は諦めていた。こんな男と別れられるならばもう何でも良かった。先程マイナスの方向にばかりと言ったが、この八ヶ月間で分かった事も一つある。回りくどい手なんか使っても無駄だと言う事だ。あの男が慌てふためき、娘が嘆き悲しみ、親が怒ろうがもう知った事ではない。その後の生活はその後考えればいい。
私は市役所に足を運んだ。もちろん離婚届を取りに行くためだ。変装などはしない、その姿を見られればむしろその方が好都合だからだ。今夜その離婚届を叩き付けてやる光景を思い浮かべるとそれだけで天にも昇る気持ちになって来る。やっと自由になれる、本当の人生が始まるのだと思うとそれだけでうきうきして来る。私は離婚届の入った封筒をカバンに突っ込み鼻歌を歌いながら家路を急いだ。
「騒ぐんじゃねえ!」
するといきなり怒鳴られた、そこですいませんと頭を下げて謝ろうとしたら怒鳴って来た男の右手には包丁が握られていた。
「ちょっとあんた、そのカバンと財布の中身を全部寄越しな!嫌だ!?これが見えてねえのか!?」
このカバンの中身だけは取られたくないとばかりに私がカバンを抱きかかえると男は自分が叫ぶなと言っていたくせに大声を上げながら包丁を私の首に突き付けて来た。こんな事を予想していた訳ではないにせよ、財布には二千円しか入れていなかった。ポイントカードその他も入っていない。
「なんでえしけてるってレベルじゃねえな、そうか分かったぞそのカバンの中に金がごっそり入ってんだな、さあ寄越せ!何、カバンはやるから中身だけは勘弁してくれ?ふざけた事を抜かすんじゃねえ!っておい何のつもりだ!」
案の定、財布を渡しても男はまるで納得せずカバンの中身を寄越せと更に声を荒げて来た。ただただそのカバンの中に入っている一枚の紙を守る事だけが最優先だった私は、平然とコートを脱いで男に渡そうとした。
「……わかった、もうこのしけた財布もそのきたねえコートもくれてやる!でもそのカバンだけはもらって行くからな!」
それが男の心を逆撫でしたのか、男は私を蹴飛ばして抱きかかえていたカバンを奪い、財布を投げ付けて走り去って行った。この白昼の街角で起きた強盗は、本人と被害者である私以外ほとんど誰にも知られる事なく成功したのだ。ただ愕然として道路の真ん中に座り込んでいた私が立ち上がれたのは男の姿が消えた一分後で、声を上げられたのは更に三分は後だった。
「目付きが鋭く、年は二十代半ばぐらいで、声が野太くて……それで服装の色は?覚えてない?そうですよね……」
やって来たお巡りさんに一応あれこれ説明はしてみたが、正直捕まるとは思っていない。折角の離婚届を奪われたショックで記憶があいまいになっていて、目付き以外は曖昧な事しか覚えていない。
あのカバンの中に入っているのは離婚届を除けば万が一のための折り畳み傘だけで、しかもそれとて数年前に買った安物で数百円の価値しかない。カバンはと言うハンドバッグなどと言う高尚な物ではなく、これまた数年前から使っているバーゲンセールで買ったスポーツバッグであちこちほつれが見えている様な物で価値は僅かだろう。それでも私は悔しくて、そして悲しくてたまらなかった。
(そんなに別れて欲しくないって言うの……!?)
また取りに行けばいいなんて言う考えはその時の私の頭の中にはなかった。強盗に離婚届を奪われた今、まるでこの国に存在する全ての離婚届が、いや離婚と言う制度そのものが消え失せ、一度婚姻したが最後二度と死以外で別れる事など出来はしないのだとあんな見知らぬ強盗にまで言われた気分で一杯だった私は悔しくて泣いてしまった。
「わかりました、絶対に捕まえますから!」
そんな理由で泣いているとは欠片ほども思っていないだろう私に向かってお巡りさんは力強く胸を叩いた。お巡りさんに心の中を読まれていなくてほっとすると同時にどうしてあの男には読まれているかのように先手先手を打たれるのか、改めて恐ろしくなった。
「怪我はないのか!」
蹴飛ばされてわずかに腰を打った物の痛みはもうとっくの昔に消えている。だから首を横に振ったが、この男は私が集中治療室に運ばれようとしているかのような有様で迫って来る。どうせ私の事なんて大して思っていないくせにどうしてのこのこと帰って来られたのか。真っ昼間の住宅街で大声を上げて慌てふためく姿は本当恥ずかしいったらない。でもだからと言ってこんな男の妻である自分の品位が下がるじゃないかふざけるなとか、まだ昼間だって言うのによくもまあ仕事を放棄して早退なんぞできますねクビになりたいんですかとか叫べる訳がない。妻が強盗の被害に遭ったと聞いて心配しない夫など普通いないし、その安否を確認させないなどどこのブラック企業だと言う話だ。ついさっきまで家に入り込んで来たら離婚届を叩き付けてやろうと思った私は今いない。離婚届なんぞ役所で刷ればすぐ作る事ができる物である事がすっかり頭から抜け落ちていた今の私は、籠の中で全身がんじがらめにされ鳴く事さえもできない鳥だった。しかもその状況を誰も哀れと思ってくれない、いやむしろみんな羨ましがっている。哀しいと同時に呆れ返る話であり、言い返す言葉が全く思い浮かばない。
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