第6話 太る事さえできやしない

「うーん、ああ今度駅前にできたあそこはいかがです?」

 美しさは罪だと思う、これは断じて自惚れなどではない。あの男は以前どんなハニートラップを仕掛けてもお前よりは不細工だなで全てかわしてしまった。ならばこっちが不細工になってやればいい、さすればあんなおべんちゃらを抜かさなくなるだろう。と言う訳で朝ご飯もまともに取らずに食べ放題の店にやって来た。

 コストパフォーマンスが悪いとか食べ物を粗末にしているとか言って軽蔑していた食べ放題だが、実際入ってみるとわくわくして来る。あれもこれもおいしそうに見えて来る、あちらこちらで食べ放題の店ができるはずだ。しかし時間無制限で二千円、収益が出るのかどうか不安になって来る。まあ店の事情など知った事ではない、今日は相撲取りばりに食べまくって目一杯太ってやろうではないか。

「いきなり大胆ですわね」

 いくら食べても出費は二千円と来れば、一番豪華な物から行きたくなるのは小市民の性と言う物だろう。と言う訳でいきなりステーキから取ってやり、そして貪り食った。品格って何ですかと言わんばかりの私の食べっぷりに、一緒に来ていた奥様達も目を丸くしていた。

「冗談は時と場所を選んで下さいよ。料理に箸を付ける前だったから良かったですけど、口に物を入れている時にそんな事をおっしゃられたら料理を吹き出してしまう所でしたよ、そうですよねえ」

「ああ全くその通りです、言葉は悪いですけど嫌味ですかそれ?」

 だがすぐさま、どうしてこうなってしまったんだという言葉が頭の中を駆け巡り出した。何かあったんですかとこわごわ聞いて来た奥様たちに対しここぞとばかりにうちの旦那が最近冷たくってと言ったら、二人して先程以上に目を丸くしてそんな言葉を返して来た。私が近所と疎遠にしていた間に私とあの男はいつの間にか夫婦の理想形みたいになってしまっていたらしい。マイナスであろうがプラスであろうが、現実と違うイメージが独り歩きしていると言うのは歓迎できる物ではない。この際はっきり言ってやろうかとも一瞬思ったが、奥様たちの目に嫉妬を感じて口から出す物を減らし、代わりに口に物を運ぶ量を増やした。家庭に閉じ籠り子育てにかまけていた時間が作り出した虚像、その虚像を作らせた男、その虚像をすっかり信じ込んでいる世間に対しての恨みを私は目の前の食べ物にぶつけた。

「朝食を抜いて来たって言うのは本当だったんですね」

「空腹だったのは重々わかりますけどね」

 喚ける物ならば喚いていた、あんたらが馬鹿なせいだと。今の男と別れたくて仕様がないと言う私の本心を毛頭察する事なく脳天気に生活を送り、それでありながら冷静かつお説ごもっともな理屈でこちらの暴食を批評して来る。その癖私が絞り出した本音は全然真摯に受け止めようとしない。噛み付ける物ならば目の前の肉や魚ではなく、この二人の馬鹿どもに噛み付いてやりたい。

 結局の所、およそ千五百グラムの食物を胃に放り込んだ。費用対効果と言う点では随分と得をしたのだろうが、そんな気分には全然なって来ない。むしろ大損をした気分である。自分の品位のなさを近所の奥様たちに知らしめてしまったのは確かに損だが、それ以上に自分の口から直に不満をこぼしてなお欠片も信じてくれないと言う現実を突き付けられたのは果てしない大損である。又聞きで広まって行ったのならばまだともかく、自分の口から話してあの有様ではどうにも手の打ちようがない。まるで狭い部屋に閉じ込められて左右から壁が迫って来るような気分だ。そして前にも後ろにも、上にも下にも逃げ道はない。

だがその壁が迫って来るのは自分がその部屋から出ようとした時であり、そんな真似をしなければ壁はただそこにあるだけで何をする訳でもない。そしてその部屋の中には特段都合の悪い物がある訳ではない。 問題があるとすればその部屋の主である私がその部屋の中にいたくないと言う気持ちだけであり、詰まる所全くの我が儘である。なぜこんないい所から出ようとするのか、私が入りたいぐらいなのに。部屋の外からはそんな声ばかりが鳴り響き、私を全力で部屋に押し込めようとする。忠言耳に痛しとはよく言った物だが、この場合忠言などと言う格好のいい物ではなく嫉妬の様なマイナスの感情が生み出した言葉であると取る事も決して不可能ではない。なればこそ耳を貸す価値などないとも解釈できるが、今の私にはそのよほど目を凝らさない限り嫉妬の産物には見えない言葉に逆らうほどの勇気がある訳ではないし、逆らった後の展望がある訳でもない。食べ放題となれば一番高い物を真っ先に選んでしまう筋金入りの小市民様が、わざわざ楽園を飛び出して明日をも知れない生活を送ろうなど無謀以外の何でもない。それでも構いやしないと思ってこんな真似をしたと言うのに、得られたのは敗北感だけである。私は物理的に重くなっていた肉体を、それより遥かに重くなっていた精神を抱えつつ引きずった。

 もう若くないんだから、無茶ができる年齢じゃないんだから。ほんのちょっと考えれば容易に分かるが、どうしても分かりたくない事実を体は雄弁に叫んで来る。もう若くないと言う事は確かに問題である。しかしそれはもう半分以上諦めが付いている、でももう一方の事実はどうしても分かりたくない。

若くないと言う事と無茶ができないと言うのは違う。どんなに年を取っていても壮健な肉体と精神を持ち精力的に活動できる人間と言うのは存在する。しかし今の私の心は自分でもわかるぐらい弱り切っており、そして肉体もまた不健全その物である。千五百グラムの食物を体に入れた以上、出さなければいけない。だが、その時期が予想外に早く来た。家に帰って手を洗いカバンの中身を出した直後にもう催促されたのだ。そしてその催促に答えた結果外から娘がいつまでいるのと懇願して来る、でも出られない。結局かろうじて娘の膀胱は耐えきれたものの、私の身体はまだ終わっていないのになぜ止めたのだと吠え続けている。薬でごまかした後に再び体の声に答えたものの、自分が一体何をやっていたのかと言う自己嫌悪はますます悪化するばかりである。

 今日こんな真似をしたのは一体なぜか、あの男と離婚して自由になるためではないか。悪い予感がしながら体重計に乗ってみたら、案の定全然変わっていない。五百グラム単位でしか計れない安物の体重計なのでそれ以下の単位では増えているのかもしれないが、そんな誤差レベルの単位で太った所で気付く人間は一人もいない。

「……もしかして何か悪い物でも入ってたんじゃないのか?」

 私の疲れ切った表情を見たあの男が投げ付けて来たその言葉に、私のイライラはますます高まった。朝調子に乗って今日は食べ放題に行くからとかこぼした私が悪いのだが、私が食べ過ぎたのがいけないと言う発想には全く至らないらしい。ちゃんとした信用があってこそ成り立っているはずの店より自分の妻の方を信じるのか、社会人としてこれでいいのかつくづく嫌になって来る。やはり、この男には付き合いきれない。とは言うものの、ここまで私に対して一方的に惚れ込んでいる男の心を引き剥がすにはどうしたらいいのか。考えるのも嫌になって来る。

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