第5話 無駄遣いもできなくて

 好きではなかったが、やるしかない。私がその後の暮らしを有利に持って行くためには味方を増やさなければいけない。なればこそ私は子どもの手がさほどかからなくなったのでと言う理由で近所の奥様達の集まりに出かけるようになった。今日は近所の奥様二人と共に喫茶店でコーヒーを飲んでいる。

「口数の少ない子だそうですけど」

 実際、娘は語彙は比較的多いようだが口数は少ない。家でも不必要な事は余り言わず目で訴えかけて来る事が多い。そう言えば最近、あのポーズを見ない。上っ面だけにせよ私が優しくいい妻を演じているから安心しているのだろうか。そう考えると本当に悲しくなって来る。

 私はこの場でもすっぴんだった。化粧代を切り詰めている訳ではなく、わざとみすぼらしい姿をさらしに来ているのだ。もちろん、あの男の非道を示し自分が被害者である事を雄弁に示す為に。だから疲れたと言う言葉を聞くやしめたとばかりあの男の愚痴をこぼしてやろうと思った、がその暇はなかった。

「いいじゃありませんか、うちは賃貸ですよ」

「あと何年かかるんですの?うちはあと二十年もローンとのお付き合いをせねばならなくて…」

 それでも何とか家のローンが大変でと家庭の事情から同情を引こうとしてみたが、こんな答えが返って来ては続けようがない。二十年とごまかしてみたものの、もし真っ正直に十五年と言えばその瞬間全ての愚痴は嫌味としか受け取られなくなるだろう。愚痴の言いようをなくした私は押し黙るしかなくなり、その後の時間で発した言葉は相槌を除けば今日は誘って頂きどうもありがとうございましたと言う定型文だけだった。

 愚痴を言う事さえままならないと言うのか。ないはずの不幸の種をあちこちほじくり返してまでわざわざ探し求め、そして無理矢理に育てようとしているとでも言うのか。育てた所で何の利益にもならない事が明白である物を育てるなど滑稽な事はない。大人しく諦めて偕老同穴せよとでも言うのか、あんなひどい仕打ちを受けておいてなお奴隷のようにへいこらしろとでも言うのだろうか。

 自分が腹を痛めて産んだ娘の事はもちろん惜しい、だがあの男の娘だと考えると正直惜しい気持ちも薄れて来る。でもそれにしたってその後の生活がどうなるのかとか、世間体がどうとか、そんな理性的判断をすれば離婚なんて言う答えが悪手以外の何でもない事はすぐわかる、けどこのままでは心が折れてしまう、そんな人間と一緒に暮らしていい事がある訳がない。私の精神がまだ平衡を保っている内に別れた方があの男にとっても娘にとっても絶対にいいに決まっている。だが、あの男に別れる気は微塵もなさそうだ。


「随分と気合が入ってるみたいですけどどうなさったんです?」

 この時点で離婚を言い出した所ですんなり通る見込みはまるでない、これまでしばらくの間あの男の気持ちを引き剥がしてやろうとしていたが空振りに終わり続けた以上、向こうの気持ちを私から離すしかない。

 近所の奥様と一緒にデパートに向かう私は、この前とはうってかわって最大限にめかし込み、財布に十万円近い現金を突っ込んだ。派手に散財して、一日で空っぽにしてやるつもりだ。こんな浪費癖があると知れば、普通の男ならば心が離れるはずだ。

「奥様……大丈夫ですの」

 大丈夫でもあり、大丈夫でもない。そして自分が有利な条件で離婚する事など諦めているくせに、まだわずかながら期待していた。後先など考えずに欲しい物を手に取り続けるその姿は正直平凡な主婦のそれではない事は自分が一番よくわかっている。こうやって異常な姿をアピールする事により、あの男に数年間置き去りにされた自分がいかに苦しんでいるか見せ付けたい。一体何をしているのか、自分でも訳が分からない。そしてその鬱憤を物にぶつけるが如く、ますます買い漁った。結果、タンスの肥やしにしかなりそうにない服数着ともったいなくて一度しか、いや一度たりとも使いそうにないハンドバッグとその他の代物を買い漁った。その結果、千円札三枚と、無駄遣いの証であるレシート数枚、そして間もなく紙くずになるであろう十九枚の福引券が残った。

 まあティッシュでも貰っておくかとばかりに福引の会場に行くと、周りの女性達が嬌声を上げていた。1等・旅行券十万円、2等・デパート用商品券三万円、3等・各地の名産品…どれもよくある商品ばかりだ。そんな中、隣の奥様達が目を輝かせながら指差していたのは特等の欄だった。なぜかニュース番組で見る様なテープで隠されていたその謎の景品に耳目が集まっているようだ。開けて悔しき玉手箱、大山鳴動して鼠一匹。そんな言葉しか頭の中には浮かんで来ない。大体、1等が三個なのに特等が五個なんておかしいじゃないか。もっとも、どんなやり方で客を釣ろうとしているのかいささか悪趣味ながら気になってしまった事もまた事実だが。

 案の定、まともな景品は当たらない。十四回が外れのティッシュ、四回が末等と言うべき百円の商品券。まあ数さえ撃てば当たる物でもなし、どうせ衝動買いのついでの行きがけの駄賃だ。幕には社運賭けてます福引とか大書されているが、この程度の費用で社運を賭けると言うなど、このデパートの経営状態を疑いたくなる。このデパートを今後利用するかどうか迷いながら最後の一回を回した。

「出ましたー!特等です!いやー奥さん、参っちゃいましたねえ…十九回も出来るぐらい買い物して来たって事でしょ、まあこっちも宣伝効果抜群ですからいいですけどねえ」

 ………当たってしまった。一体どんな商品で釣ろうと言うのか。法被を見に纏い右手で鐘を鳴らしたそのデパートの職員は興奮が抑えきれないと言った様子で右手をテープに添え一気にめくった。

「はーい、特等はこちら!当デパートで昨日以降に購入なさった物全てただにする、です!ささ、奥様、レシートを是非こちらに!」

 どんな賞品だ、全くふざけているにも程がある。しかしよく考えてみると、買った物が全てタダになるかもしれないと言う期待感を持たせてしまう辺りはなかなか商売上手ではないかとも思ってしまう。とにかく、今日の無駄遣いの産物であるレシートを次々にその店員に渡し、そして今日払った分のお金を一円残らず受け取った。

「さあさあ皆さん、これで特等はあと四個です!皆様奮ってご参加ください!」

 全く、何とも不思議な気分だ。ただより高い物はないと言うが、今の私はこれだけの商品をただでもらったのだ。随分と幸運な人間だと思う。


 ……………待てよ。今日、私は結局交通費以外一円たりとも消費していないじゃないか。これを無駄遣いと言えるのだろうか。幸運を無駄遣いしているとも言えるが、私の幸運の量が他人と同じと言う証拠がどこにあるのだろうか。ここで幸運を使った所でこの先にこれ以上の不運が襲いかかって来ると言う保証がどこにあり、そして誰ができるのだろうか。それに何より、一緒にデパートに来た二人の奥様の態度からそんな後ろ向きな展開を考えるのは相当に無理があった。

「奥さん、何か開運法でもあるんですの?」

「ちょっとそれ触らせてくれません、いやあ幸運にあやかれそうでうれしいですわ」

 とか言いながら全く無邪気に私の服やら買い物袋やらをベタベタ触って来る。こんな状況でどんなに暗い顔をしても説得力がない、こんな所で運を使ってしまってこの後が不安とか言う正論を並べた所でまあそれはそうですねと軽く頷かれるか心配性なんですねと軽く流されるかが落ちであり、ましてやあの男に対する鬱憤をぶつける事など出来得るはずがない。


 当たり前だが、あの男は浮かれ上がっていた。十万円を拾った様な物だから浮かれ上がるのは至極当然だが、これでは無駄遣いをして家計にダメージを与えた事にならずあの男の心は私から離れない。むしろ俺の妻は幸運の女神様だとばかりにますます離そうとしなくなるだろう、すると言うとこの一日は一体何だったのか。詰まる所これまでと同様に無為に過ごしただけじゃないか、しかも全くあの男のせいでだ。ますます苛立ちが増して来る、と考えた所である事実に気が付いた。そう言えば最近、まともに資格の勉強をしていない。

 資格試験は来月の半ばでもう申請までの時間はわずかしかなく、申請して受験した所で現在の状態ではとても受かりそうもない。結局、もう一年以上あの男と一緒に暮らすしかない。

「ママ、どうしたの……寒いの?」

 娘は悔しさで震えている私を純粋に慮って声をかけてくれる、今はその純粋さがひたすらに重たい。私が資格の勉強ができていない一因は紛れもなく娘にあった。時間ができた時に限って娘がやって来てその世話に追われ、その結果私一人の為の時間を潰されてしまうのだ。

「あ、うん……ごめんね」 

 あの男の子どもに心配される筋合いなどないとばかりに怒鳴り付けて追い払い、さて資格の資料に手を付けようと思ったが今更来月の試験に備えようとしても付け焼き刃その物でありこれもまた時間の無駄である事は変わらないだろう。そう考えるといらだちは募る一方であり、その結果胃が痛くなって来るのならばまだ納得もできるが、実際には腹が減るだけである。人間なんて動かなくとも腹が減る物とは言え、デパートから帰って来て昼ご飯を食べてから二時間しか経っていないのにここまで空腹感を覚えるなど正直どうかしている。その結果、子どものおやつの為に買って来たクッキーに手を出してしまった。だがクッキーを全部食べた瞬間、私の頭の中で何かが閃いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る